何かで視界を塞がれていた。おそらく、黒い布を巻かれている。昼日中のはずなのに、光はほとんど漏れてこない。ビロードらしきやわらかな感触が、ゆるくまぶたを圧迫している。

　視界だけではない。手も足も、自由を奪われていた。

　浅く椅子に腰掛けた状態で、手首を肘掛けに縛りつけられている。幾重にも巻きつけられた感触は、紐状に細くねじった布だろうか。

　足首も、手首と同じ肘掛けに固定されている。縛られた足先は宙に浮き、折り曲げた膝頭が顔の高さにある。腹が折れて、呼吸が浅くなる。無理な姿勢を保つために、手足を拘束する紐が皮膚に食い込んでいる。楽な体勢ではない。

　そのうえ、下半身が直に外気に晒されている。履いていたはずのウールのスラックスも、下着さえも感触がない。

　尻が、直に椅子の肌に触れている。沈む革張りの感触は、サロンの肘掛け椅子だろう。

　何という、格好をしているのだ。

　羞恥に身じろぐと、後頭部に鈍い痛みが脈打った。

　先刻、背後から何者かに殴られたのだ。古いピアノの鍵盤に触れていて、人の気配に気づかなかった。

　何年も放置していた別荘を、供もつけず単身で訪れたのは、無防備といえば無防備なふるまいだったかもしれない。ほんの気まぐれに立ち寄っただけで、すぐに戻るつもりだったのだ。

　まさか、人がいるとは思いもかけなかった。まして、背後から殴られようとは。

　どれくらいの間、昏倒していたのか。目覚めればこの有様である。

「お気づきになられましたか」

　耳元で声がした。

　聞き覚えのない、男の声だ。ひどくしゃがれて、聞き取りにくい。耳障りな息づかいがうなじを掠める。

「誰だ」

　冷静を装い、誰何する。

　大声を上げたところで、人は来ない。隣家までは数百メートルも離れている上に、晩秋の避暑地に住人があるとは限らない。随行の運転手は、山道の入口に車ごと残してきた。

「まさか、名乗るわけがございませんでしょう。目隠しをして、手足を縛って、あなたを辱めようという卑怯な輩が」

　嘲笑を含んで、声が答える。

　カサカサにしゃがれ、乾ききった声は、音だけで肌に触れてくるように感じられた。声の主は、ごく近く、おそらく背後に立っている。

「私が誰か、知っての仕打ちか」

　旧華族と呼ばれる家の名に、妬みや羨望はつきものだ。実のない家督争いのために、恨みを持つ者も少なくはない。家名に連なる見せかけの富と名誉に、群がる者もいる。

「はい。ようく存じ上げております。二十歳の若さにして、名誉ある東条家のご当主。お目にかかれて光栄でございます、東条司さま」

　つかささま、と耳孔に吹き込まれた響きには、歌うような音程があった。嫌悪と裏表の執着とをはらんだ複雑な響きが、背筋を這いのぼる。

「何が、望みだ。金か。東条の名か」

　冷静に問う。家と富とにつきものの暴力には、慣れている。相手の要求がわかれば、交渉はたやすい。

「いいえ」

　だが声は、きっぱりと否定した。

　椅子の背がかすかにきしむ。椅子のうえの囚われ人を覗き込もうと、声の主が手をかけたのだ。耳元に、しゃがれ声が触れる。

「いいえ。私の望みは、富でも名誉でもございません。私の望みは、司さま、あなただけです」

　伸びてきた手が、頬を伝い、顎の輪郭を撫でて落ちる。

　わざとらしく衣擦れを立てて、タイを抜き取られた。上衣はまだ身につけていたのだ。

「富も名誉もお持ちのあなたを、こうして誰もいないところで椅子に縛りつけて、持ち物を一つ一つ剥いでゆく。富も、地位も、名誉さえも、一糸まとわなくなったあなたのからだが、私の望みなのですよ」

　しゃがれ声が耳朶を掠め、湿った吐息が髪に触れる。ボタンにかけられた指先が、シルクの生地をまさぐる。

「この機会を、ずっと、お待ち申し上げておりました。司さま」

　滑り込んだ指先は、骨格がわかるほどに肉づきが薄い。そして、死人のように冷たい。

「どうぞご安心を。おとなしくしていただければ、お命まではいただきません」

　告げる声は、哀れなほどに乾いていた。

◆

　声の主は、今は正面に回り込んでいるらしい。ボタンをすべてはずしてから、シャツを左右に開かれる。胸が、腹が、外気に触れる。手首を肘掛けに縛りつけているために、肩は抜かず、袖を通したままだ。

「よい眺めですよ、司さま」

　吐息に含ませた囁きが、生温かく腹に触れる。

　シャツをはだけ、剥き出しにして縛りつけられた脚の間に、しゃがれ声の男はひざまずいているのか。

「若く、みずみずしい肌。こうして光に透かしても、傷ひとつなければ、日に灼けてもいない。お家のことばかりで、遊ぶ間もないのでしょう、ご当主様」

　冷たい指が鎖骨をたどり、胸の中心を滑り落ちるのがはっきりとわかる。視力を奪われている分、どうしても他の器官が過敏になる。

「少し華奢なようですが、均整の取れたお体になられましたね。ギリシャ彫刻のようですよ。まだ、背が伸びているのでしょう。こうして筋肉の形がわかるのに、弾力があってやわらかい。おや、硬くなりましたね。私の指が、ご不快ですか？」

　腹筋のひとつひとつをなぞられるたびに、反射で体が硬直する。その微細な伸縮を、指先は愉しんでいるようだ。

　カサカサと乾いた音を立てて、声は笑った。

「ここも、私の指はお嫌いですか？　そんなに赤く、尖らせて」

　腹にあった指が、肋骨をすべり、乳首に触れる。痛いほどにつままれて、息を呑む。

「声を上げても構わないのですよ。誰も来やしませんから」

　次第に勃ち上がる突起を指先で転がしながら、声が含み笑いする。乳首から与えられる刺激は、そのまま体の奥に突き抜けた。あるいは、金属片でつままれ、微弱な電流を流されているのではあるまいか、とさえ思う。

「い……加減に、よせ」

　たまらず漏れた制止は、自分の声ではないようにあやしく掠れた。

「いいえ。これからです、司さま。私はむしろ、司さまのお声を、お聞きしたい。あなたが、東条の名を忘れ、自我を失い、獣のように上げる淫らな嬌声を。そのために、口は塞がずにおいたのですよ」

　真っ向からの言葉での陵辱に、カッと頬が熱くなる。羞恥にではない。怒りのためである。

　だがこみ上げた怒りは、歯を食いしばって飲み込んだ。下賤な言葉に反応したことを認める方が、恥辱だった。ギリリと、奥歯を噛みしめる。

　黙り込んだ顎に、指をかけられた。

「いけません、司さま。そんなに強く噛んでは。おとなしいだけの子供に見えて、本性は獅子のごとく激しいお方だ」

　ごく近くで囁かれる。男は、立ち上がったらしい。声の響く位置が、少し上になった。

　おそらく正面に立ち、座っている自分を見下ろしている。

「さあ、力を抜いて。きれいな輪郭が歪みますよ」

　囁き声が、生暖かい吐息とともに近づく。

　唇が触れた。カラカラに乾いて、ひび割れている。

　その間から、湿った舌が這い出てくる。上下の唇を割り、食いしばった歯列に触れ、探るようにいやらしくなぞる。

　次の瞬間、男は飛び退いた。

　思い切り、噛んでやったのだ。

　間一髪で逃げられたが、舌先くらいは傷つけられただろう。いわれもなく口腔を蹂躙させるほど、東条の血は従順ではない。

　男は、さすがにひるんだようだ。

　だがそれも、わずかのことだった。数秒の沈黙の後、しゃがれ声は、哄い出した。

「思った通り、誇り高いお方だ。ますますうれしいですよ、司様。そのまま、歯を食いしばっていてくださいね」

　言うなり、頬を叩かれた。

　右から、左から、何発も殴られた。平手だが、手加減なしの強さだ。

　目を塞がれているので、当たるタイミングが読めない。

　不規則な往復を繰り返すうちに、頭がクラクラしてくる。もともと暗闇だった視界が、銀色に明滅を始める。

　軽い脳震盪を起こしたらしい。

　再び、顎をつかまれた。おとがいに、強い力をかけられ、同時に鼻もつままれる。

　息苦しさに、口が開いた。そこに舌をねじこまれた。

　頬の裏側をこすられると、ピリリとしみた。殴られたはずみに、口の中が切れていたらしい。

　生温い鉄の味を、男の舌が唾液と一緒に塗り広げる。逃げようと首を左右に振れば、ますます深いところへ入り込まれる。むせるのも構わず、喉の奥まで太い舌で塞がれ、呼吸が止まる。

　痛みと嫌悪とを、むせながら、喉が無意識に嚥下した。

「そう、いい子ですね」

　口の端にあふれた唾液を舐め取って、しゃがれ声が囁く。

　頭を抱えるようにして、額にこつんと額を合わせられた。

「いい子だ、つかさ」

　嘲るように、囁かれる。

　その響きに、覚えがあった。合わせた頭蓋骨から直に伝わる振動が、朦朧とかすむ意識の底の何かを呼びさます。

　あれはまだ、幼い頃の記憶。たしかに、憶えている。

◆

　父は読書にこもり、まだ若い後妻は地元のテノール歌手を別荘に呼んだ。歌手は後妻とは銀座の音楽ホールでなじみだったが、秋からの独逸留学を前に、偶然帰省していたらしい。

　歌手は、華やかな容貌の若い男で、ビロードのようにやわらかく、弦楽器のように甘い声をしていた。

　姓は、雨宮といった。名前までは、聞かなかった。

　彼はサロンのピアノを自ら弾き、母に乞われるままに甘い声で歌った。後妻は歩き始めたばかりの義弟を抱いて長椅子に座り、幼い私は一人掛けの肘掛け椅子におさまって、雨宮の歌を聴いた。

　音楽に関心があったわけではない。後妻のよく聞くオペラなど、甲高いソプラノが嫌いだったくらいだ。

　雨宮もまだ若く、とりたてて歌の技巧が優れていたわけではなかったように思う。

　ただ、素晴らしい声を持っていた。やさしく、深く、甘い。それは魂の琴線に触れるよりも、直に体の芯に響く、ある種のエロスを秘めた声だった。聴くだけで、やさしく全身を愛撫されているように感じられた。

　歌曲の好きな後妻はもちろん、まだ十の私にも、それは至上の快楽だったように思う。

　義弟の昼寝などで後妻から解放されると、雨宮は私にピアノを教えてくれた。

　別にピアノに興味があったわけではない。強いて言えば、私を気にかけてくれる雨宮に興味があった。

　父は典型的な旧世代の男で、家庭のことには無頓着だった。また封建的価値観の持ち主で、使用人と家人が馴れ合うことを徹底的に嫌い、距離を置かせた。

　実母は幼い頃に亡くなり、若い後妻は義弟に夢中で、むしろ私を疎んでいた。私がいなければ、自分の産んだ義弟が家督を継げると思っていたようだ。

　今となっては、いずれも意味のないことだが、それが幼い私をとりまく当時の環境だった。

　そんな中、雨宮だけが私に興味を示してくれた。

　単に、珍しかったのだろう。由緒正しい家柄と、それにふわさわしい富、華やかな家の中にあって孤立する子供。

　つかさがピアノを弾いてくれれば、私は歌だけ歌っていられる。

　彼はそう言って、ピアノの練習曲ではなく、伴奏を私に教えた。彼の滞在はほんの数日のことで、満足に弾けた覚えはない。何という曲だったかさえ、今では憶えていない。

　それでも雨宮は熱心に教え、失敗すれば叱り、うまく弾ければ誉めた。頭を抱え、こつんと額を合わせる。

　よくできました、いい子だ、つかさ。

　真正面から目を覗き込んで微笑む。父も後妻も、生活の世話をしてくれた使用人さえ、踏み込まなかった距離に、雨宮は易々と入ってきた。

　幼い頃に知った唯一の他人の体温は、今でも体のいちばん深いところに残っている。