目を塞がれ、手足を拘束され、逃げ場のない状況での感覚の逃避かもしれない。今、私をなぶっている男は、記憶の甘い声とはまったく違う、乾いたしゃがれ声だというのに。

　嫌悪に思えていた感情が、やがて陶酔に呑み込まれる。痛みに思えていた感触が、徐々に愉悦を伴う。耐え難い恥辱でさえ、恍惚に昇華する。

　剥き出しの下半身を握られ、私は身悶えた。

　細く骨張った指が、他人に触れられたことのない部分を執拗に弄ぶ。五本の指はピアノの鍵盤を叩くように機械的に、だが内なる複雑な激情をはらんでバラバラに動き、情動を追い詰める。

「若いですね。こんなに濡らして。震えていますよ、つかさ」

　吐息を吹きかけられて、全身がわななく。先端からあふれた露を、舌ですくい取られて小さく喘ぐ。

「いい声だ」

　しゃがれ声が、愉しげに笑う。

　次の瞬間、鋭敏な器官はビロードのような感触に包まれた。根元まで、口に含まれたのだ。

　温かく濡れた舌がねっとりと這い、吸い上げる。視力を封じられた肉体が、与えられる触感を増幅して受け入れる。

　鼻からうめき声が漏れた。猫が喉を鳴らすような、奇怪な声だった。

　それでも一度抜けてしまうと、あとは制御が効かない。だらしのない、人声とは思えぬ音が喉を這い上っては外に漏れる。

　縛りつけられたままの手足が勝手に揺れて、古い椅子をきしませた。

　椅子のきしみと、耳慣れぬ自分の喘ぎ、性器に濡れた舌の絡む音とが、闇に包まれた意識を埋め尽くす。

「……ぁ、はっ……！」

　達するまでに、そう時間はかからなかった。他人に与えられる刺激に慣れていなかったせいもある。

　くすぶっていた熱いものは、脈動して噴出した。生温い、他人の口中に。

　自分の脈動に合わせて嚥下する音に、忘れていた羞恥がこみ上げる。

「せっかちですね、つかさは」

　しゃがれ声が忍び笑いを漏らす。青い匂いが鼻先をかすめる。

「まだ、これからなのに」

　吐息のかすかな風だけで、体が震える。もはやどんな刺激も、快楽としてしか感じられない。

「いい子だ。力を抜いて」

　舌先が、今度は肛門に触れた。

　膝を持ち上げられ、開いた両の足首を肘掛けに縛りつけられているのだ。ひくつくひだの中まで、舌は容易に入り込む。

　ぬるつく感触は、唾液だけではない。放出したばかりの自分の精液だ。それを、内部に塗り込められている。

　舌に替わって、指が入り込んだ。指にもたっぷりと粘液が絡んでいる。

「ふ、ン」

　指を差し込まれて、抑えきれず声が漏れる。一点、耐え難く全身を震わせる部分がある。

　甘さでもなく、快楽でもなく、衝撃に近い。未知の感覚が、そこにある。

「ここですか、つかさ？」

　囁かれて、首を左右に振る。

　否定ではない。肯定でもない。むしろ懇願だったかもしれない。

　やめろと叫びたいのに、それだけの単語を並べられない。口を開けば、正反対の言葉を口走りそうで、ただ首を振る。先ほど放出したばかりのはずの雄が、再び痛いほどに張りつめている。

　男が立ち上がる気配がした。

　椅子の中に拘束されたままの腰を強く抱き寄せられる。

　熱く猛ったものを、肛門にあてがわれた。一気に、貫かれる。

「……っ、は……ああっ！」

　衝撃に悲鳴を上げる。

　からだが壊れるかと思うほどの衝撃だった。意識が飛ぶかと思うほどの感覚だった。内部のひだが裂傷の熱さに痙攣しながら、それでも異物を呑み込んだ。

　目に見えず、離れていた相手の熱が、自分の内部に痛いほどの律動を刻む。

「あ、ウ、ン、あっ」

　頭を振り、腰を揺する。何が起きているのか、自分でもわからない。

　目を塞がれ、手足を戒められた状態で、勝手に体が動く。手足の戒めが食い込んだが、痛みは甘い痺れを呼んだ。

「つかさ、つかさ……っ」

　繰り返し名を呼ばれる。しゃがれた声は、掠れてほとんど音を失くしている。荒い吐息が耳を打つ。

　前後に揺すぶられ、たまらず声を上げる。苦痛と快楽、いずれの声ともつかない。突き上げられると、あふれた涙が目隠しを熱く濡らした。

「あ、足を解け！」

　悲鳴に近い命令に、男は従ったらしい。

　自由になった両脚が、意に反して男の腰に絡みついた。腰を抱いていた男の手が、のたうつ頭を支える。きつく、男の腕に抱きしめられる。冷たいとばかり思っていた男の、血潮の温かさと、鼓動に包まれる。

　耳のすぐそばに、男の荒い息が響いている。男はしゃがれ、かすれた声で、譫言のように私の名を呼び続けている。

　記憶と、声が違う。記憶の声は、こんなに乾いて掠れてはいなかった。

　だが、響きが同じなのだ。どこか甘いやさしさとともに、魂の境界を易々と踏み越えて、直に触れてくる、他人の体温。

「……ア、あ、雨宮……っ！」

　絶頂が脳裏を白く灼いた瞬間、古い記憶の名が口をついた。

　しゃがれ声の男は、驚きに身を震わせながら、溶けた内部に熱を放った。

◆

　ひどく遠くから、男はしゃがれ声でそう告げた。

　背を向けているから遠くに聞こえるのか。実際に、手の届かぬほど遠く離れているのか。目を塞がれたままの私には、見えない。

「あなたは知らないかもしれませんが」

　男の声は、哀れなほどに乾いている。

「あの日、奥様があなたに盛った毒を、私が代わりに飲んだのです」

　言われてみれば、そんなこともあったかもしれない。

　あの夏の終わり、雨宮は急病で倒れ、慌ただしく病院へ送られた。戸板に載せて運ばれる姿が、彼を見た最後だった。

　彼が倒れた理由も、その後どうなったかも、定かには覚えていない。おそらく、誰も教えてくれなかったのだ。私自身も、己を傷つけるかもしれない真実をあえて考えようとはしなかった。

　東京に戻ってすぐ、後妻は離縁され、義弟を連れて出て行った。理由は何も知らぬまま、子供の私はただ事実だけを受け入れた。

　その後漫然と時が過ぎ、父が亡くなって、私は東条の家督を継いだ。

「あなたの身代わりに、などと思っていたわけではありません。それほどあなたに執着があったわけでもない。ただ、家督争いの中心に立たされている、まだ幼い子供を不憫に思っていた。いや、むしろ優越感だったのかもしれない。裕福だが暗い家に縛られたあなたより、才能と未来への希望にあふれた私の方が、はるかに幸福だという驕りがあった。あなたの手から紅茶のカップを取り上げたのは、ほんの悪戯だったのですよ。それが」

　男は、言葉を切った。

　しゃがれた声が、ひきつれて、音を失くしたのだ。

　私はまだ、椅子に手首を戒められている。足は床に触れていたが、彼のそばへ行くことはできない。

「それがまさか、命を奪うほどの猛毒を飲むことになろうとは。涼しい顔をして、あなたはまるで口を付けていなかった。奥様が入れたお茶や菓子を、あなたは決して口にしたことがなかったのですね」

　男の問いに、私は押し黙る。そう、だったかもしれない。私は今でも、信頼する者の手を経たものしか口にしない。

「あなたが飲むはずだった毒が、私の喉を灼いた。私は命を取り留めたかわりに、声を失ったのです。歌声の他には、何も持たない私だったのに。あのとき気まぐれで、あなたの毒さえ口にしなければ」

　自嘲気味に、彼は笑った。

　笑い声も、乾ききってしわがれている。まだ三十代のはずだが、老人のような声だった。

「雨宮」

　私は呼びかけた。遠くにいる彼にも聞こえるように、はっきりと。

「雨宮。私はピアノを見にここへ来た。この別荘はじき人手に渡る。その前に、お前に教えてもらったピアノを、見に来たんだ。まさか、お前がいるとは思っていなかったが。もしかしたら、意識のどこかでお前に会えることを期待していたのかもしれない」

　雨宮は、黙っていた。

「雨宮。今は、どうしている？　気まぐれで雨宮という名の歌手を探したことがあるが、お前は見つけられなかった。今の私は、もう家に縛られるだけの子供じゃない。東条の名を継いで、わずかだが財もある。雨宮、もしお前が望むなら」

「つかさ」

　思わぬ強さで、しゃがれ声が遮る。

「いけません。私はあなたを、私の声を奪ったあなたを憎んでいるのです。心の底から」

　記憶の甘さとはかけ離れた、冷たく、乾いた響きだった。

　声は遠く、ひどく遠くに聞こえている。

「雨宮、私はお前に何ができる？　私が今こうしているのも、お前の声を奪った対価だとしたら。私はお前に、何を償える？」

　重ねて問うても、そこには闇と沈黙があるだけだ。

「雨宮。せめて、目隠しを取ってくれないか。お前の顔を見て、話したい。雨宮」

「できません」

　ささやかな願いさえ、雨宮は拒絶した。押し殺したような、低い声だった。

「できません、つかさ。私はあなたを憎んで、この十年生きてきたのです。声を失い、夢を絶たれ、絶望の底で。あなたを憎み、呪い続けた、醜い私の顔を、どうか見ないでください」

　呑みあぐねた嗚咽がかすかに響く。打ち消すように、床を打つ鈍い音がする。

「私はあなたを、憎んでいるのです」

　聞こえぬほど遠くで、しゃがれ声は繰り返した。

◆

「……雨宮」

　もう一度呼びかける。

　答えは、ない。

「雨宮。ならば、ピアノを弾いてくれくれないか。お前の教えてくれた曲を、せめて思い出せるように」

　最後の懇願が、彼の耳に届いたのかどうか。

「あのときから、音が少しも狂っていない。このピアノ、お前が調律してくれていたのだろう？」

　遠くかすかに、すすり泣きは、ひきつれて途絶えた。

　目を塞がれ、手首を戒められたまま、闇と沈黙の中に私はただ待ちわびる。

　記憶に残る、あの甘くやわらかな響きを。