儀式の地点に達するまでの間、花婿と花嫁は客室のゲストには会わず、控え室で待機する。それはしきたりでもあったし、こちらにとっても好都合だった。俺がキャロルの格好でゲストの間をウロつけば、替え玉だとバレてしまう。

　俺が何とか控え室に戻った直後、船は出航した。

「遅かったじゃないの、カーマイン！　どこまで行ってたのよ。イーグルだけ先に戻ってくるし、何かあったんじゃないかと心配したわ」

　太ったマネージャー姿のキャロルが、詰め寄ってくる。

「ま、一回りぐるっと。イーグルとは途中で二手に分かれてね。よしよし、いい子だ、イーグル」

　階上で別れたイーグルは、ちゃんとキャロルのもとに戻っていたらしい。つくづく賢い犬だ。俺はしゃがんでイーグルの顎と頭を撫でて、感謝の意を示した。

「に、してもキャロルのご友人どもはスゲエなあ。ロックでパンクでモヒカンで、イーグルよりごっつい首輪つけてるのとかいたぜ？」

「そりゃあそうよ、あれが私たちの盛装なんだから。儀式でも派手に盛り上がってくれると思うわ」

　意味ありげに、キャロルは微笑んだ。

　今日は本来、ロックでパンクな連中が騒ぐような儀式ではないだろう。が、花嫁替え玉バラしの仕掛けが入るならば、なるほどふさわしいギャラリーに違いない。

　キャロルと反対に、リプトン夫妻は不安そうな顔をしている。夫妻はまさか替え玉バラしをやるとは思ってもいないし、それどころかキャロルに殺人予告が出されているとまともに信じているのだ。

「そのう、大丈夫なのかね、キャロル？　招待したお友達の中に、ニック、だったかもいたんじゃ」

　ニックの名は、依頼のときにもキャロルから聞いた。キャロルのバンドのドラマーで、最近キャロルにプロポーズしてフラれた男だ。「スポンサーはいるけど、ハズバンドなんかいらない」というフラれ方では、さぞかし傷ついていることだろう。

　そういう複雑な立場の男を、この複雑な儀式に呼んでしまうところが、実にキャロルらしい。俺も人のことは言えないが、恋心を解するにはあまりにも気性がサッパリしすぎなのだ。

「ええ、パパ、ニックも呼んでるわ。でも心配しないで、あのゴリラ、私の前ではウサギみたいにおとなしいから」

　キャロルは一言で切り捨てる。

　この高飛車な自信はいったいどこから来るのだろう。俺はゴリラウサギ呼ばわりされるニックとやらに同情し、同時に、キャロルは案外アーサーとお似合いなんじゃないかと考える。過剰な自信家同士、気の合う部分もあるだろう。

　突然、コンコンとドアをノックされた。室内の全員が口をつぐみ、緊張する。

「アーサーです。キャロル、入ってもよろしいでしょうか」

　俺が頷いてから、マネージャー姿のキャロルがドアを開けに行く。

「儀式まではまだ少し時間がありますが、儀式に使う琥珀『鳳華』をお見せしようと、早めにお邪魔しました」

　長身のアーサーに続いて、アタッシュケースを提げた男が入って来る。よりにもよって、アカシである。

　俺は危うく出かけた声を何とか呑み込み、袖で口を押さえた。アカシのほうが落ち着いたもので、いつものポーカーフェースを崩さない。

　視線に気付いて、アーサーが紹介する。

「ああ、失礼。こちらは、琥珀の保管をお願いしている財団ＲＥＤのドクター・アカシです。同行のガードマン二人は、ドアの外に立たせておきますので」

　アーサーはアカシを連れてつかつかと進み、奥のテーブルにアタッシュケースを置かせた。ガードマンは開け放したままのドアの外に立った。

　アカシが電子錠を解除して、アタッシュケースの蓋を開ける。

「これが儀式に使う、琥珀『鳳華』です」

　ビロードの台座に埋め込まれていたのは、思っていたよりもずっと大きな石である。金細工の枠にはめられた「鳳華」は大人の握り拳ほどのオーバル型で、琥珀にしては珍しく、縁にカット加工が施され、キラキラ光を反射している。

　濃いハチミツ色の琥珀の中心には、不思議なことに、花らしきものが封じ込められているようだ。わずかに開きかけたつぼみの、褐色の花びらは、幾重にも重なり、伝説の鳳凰つまりフェニックスの飾り羽根のようにも見える。なるほど「鳳華」の名で呼ばれるわけだった。

「琥珀はもともと樹脂の化石で、まれに昆虫等を内包することがありますが、この『鳳華』は、花を包含している点で大変に貴重です。水分が多く、組織のやわらかい花が、いかにして樹脂の中に取り込まれ、形を留めたまま化石化したのか、大自然の奇跡としか言えません」

　琥珀から目を離さずに、アカシが解説する。そういえば、コイツは鉱物学者で、ちょいと専門はずれるだろうが、要は石マニアなのだった。

「どうぞ、もっと近くでご覧になってください。ご両親も、マネージャーの方も。我が家のものとは言いながら、普段は上海の施設博物館で保管しておりまして、こんな機会でもないとなかなか見られないのですよ」

　貴重な琥珀を台座ごと持ち上げて、アーサーが招く。誘われて、皆が「鳳華」に吸い寄せられる。

「美しく、それ以上に魅力的な石でしょう？　開きかけたつぼみのみずみずしさをそのまま封じ込めた『鳳華』は、その神秘性と美しさで見る者を魅了し、たちまち虜にする。あなたを一目見たとき、この『鳳華』がふさわしいと直感したのですよ、キャロル」

　歯の浮くような口説き文句を、アーサーが補足する。

　たしかに、不思議に魅惑的な石ではあるのだ。

　だがここで問題にすべきは、この石がキャロルにふさわしいと、アーサーがどこで判断したか、だ。最初に出迎えたときにも、同じことを言っていた。

　キャロルはアーサーのことを知らないと言っていたが、どうやらアーサーのほうは、一方的にキャロルを知っているようだ。

「儀式では『鳳華』を、こうして帯に通して玉飾りとして使います。大海原の上、船の舳先で、花婿が花嫁の腰に玉飾りをかけ、二人で愛を誓う。チャン家代々に伝わる大切な儀式です。どうか儀式の前に、御心を開いていただきたい」

　アーサーは胸の前に手を当てて頭を垂れた。どうやら事前に口説きに来たらしい。

　俺は内心、うへえと舌を出す。そんな大昔のハリウッド映画みたいなこっ恥ずかしい構図を、博物館級の琥珀まで持ち出して、俺がこの男と演じなければならないのか。

「軽く予行演習しておきますか、キャロル？」

　アーサーは琥珀を通した帯を両手に捧げ持ち、そう提案した。

　花嫁衣装を着た俺ではなく、キャロル本人に向かって。

　居合わせた全員が、ギクリとする。この場で花嫁衣装を着てキャロルに扮しているのは俺で、キャロル本人は黒スーツに黒ウィッグにサングラス、服にも口にも含み綿までして太ったマネージャーに変装している。にもかかわらず、何故アーサーは、キャロルに向かって予行演習を持ちかけるのか？

　アーサーの鋭い視線に、キャロルが思わず後ずさる。

　できた隙に、俺は二人の間に入った。これで何とか、形を取り繕える。

「これは、失礼」

　ゆっくりと、アーサーはかぶりを振った。表情は変わらず、何を考えているのか読みとれない。

「キャロル。こうして腰に手を回しますので、どうか驚かないでください」

　アーサーが帯を持った両手を広げ、俺に近づく。結婚式でよくある指輪の交換と違い、公衆の面前で花婿が花嫁を抱きしめるスタイルになるとは、婚約の段階でなかなか大胆な儀式だ。

　アーサーは肩幅広く腕も長く、女性としては大柄なキャロルはもちろん、男性標準体型の俺ですら、楽にすっぽり包み込んでしまうだろう。

　うう、予行演習と本番とで、二度も男に抱きしめられねばならぬとは。

　と、絶妙のタイミングで、今度は俺とアーサーの間に、また別の人間が割り込んだ。

「そろそろお時間です、ミスター・チャン。『鳳華』をお預かりします」

　冷静な制止は、アカシである。

「そう、ですか。では、続きは本番で」

　アーサーは残念そうに肩をすくめ、『鳳華』を持ったままの両手を広げた。

「あなたをこの腕に抱きしめるまでは、思いのほか障害が多いようだ。それでも私は辛抱強く待ちますよ。『鳳華』は、あなたにこそふさわさしい、キャロル」

　奇妙な微笑を浮かべて、アーサーが意味深な台詞を口にする。アーサーの鋭い視線は、また俺ではなく、キャロルを見ている。触れたら焦がれそうな熱を帯びて。

　マネージャーに扮したキャロルが不安げに俺に視線を寄越す。リプトン夫妻も落ち着かない様子だ。賢いイーグルもまた、耳をピンと立ててキャロルの足元に寄り添っている。

「ミスター・チャン、『鳳華』をこちらに」

　不穏な空気を断ち切ったのは、飽くまでも冷静なアカシの声だった。テーブルにアタッシュケースを広げて、辛抱強く待っている。

「お待たせしました。儀式前のプライベートにお付き合いいただいて感謝します、ドクター・アカシ」

　アーサーはやっと、『鳳華』をアカシに預けた。

「では儀式の会場にご案内します……キャロル」

　琥珀を手放したアーサーは、また俺とキャロルを見比べながら、曖昧な位置に腕を差し出した。この男、どこまで俺たちを試す気だ？

　当然のように、マネージャーに扮したキャロル本人ではなく、花嫁衣裳の俺がその腕に手をかける。

　その俺の隣に、アタッシュケースを持ったアカシが並んだ。

　ベール越しに覗いたアカシは相変わらずのポーカーフェースだが、生真面目ぶった横顔にわずかな不機嫌の色が窺える。

　さてはコイツ、俺を抱きしめようとしたアーサーに嫉妬しやがったな。本来、立ち位置はアーサー側だろうに、せっかく知らん顔を通してくれていても、こんなところでバレたらどうする気だ。

　まあ、既にあっちもこっちもいろいろバレていそうで、どうにも複雑な様相で、これからの儀式はいろいろ大変なことになりそうなんだが。

　とりあえずアカシの心理だけは、俺にもわかるらしい。

　ベールの下で、不謹慎にも俺はこっそり苦笑した。

◆

　フェニックスを象ったフィギュア・ヘッドから、幅一メートルばかりの細いテラスが長く続いている。テラスの最奥には紫檀の台が据えられ、その上に「鳳華」が安置されている。

　神聖な式場に、ゲストの姿はない。ゲストは二階の船室のバルコニーから、二人の儀式を見守るという寸法らしい。リプトン夫妻とキャロルも、バルコニーに顔を揃えている。

　おいおい、こんな見せ物ショーみたいな状態で、俺が儀式とやらをやるのかよ。

　内心うんざりしたが、顔に出すわけには行かない。傍らのアーサーが、俺を振り返る。

「後悔はありませんか、キャロル」

　テラスの端に立ち、アーサーは今さらのセリフを口にした。

　そんなことを今ここで聞くくらいなら、儀式の日取りを決める前に、本人の意志を聞けばよかったのだ。今さら聞かれたところで、この場にいるのはキャロル本人ではなく、身代わりに過ぎない。

　ベール越しに、俺はアーサーに憐憫のまなざしを向けた。

　だがアーサーの黒い瞳は、俺を見てはいなかった。

　俺を通り越して、別の人間を見ている。俺を通り越し、もっと高い位置の、ガラスに隔てられた親族席。そこにいるのは、リプトン夫妻と、マネージャーに扮したキャロル本人。

　間違いない。アーサーはキャロルを見ている。

　やっぱりコイツ、替え玉に気付いている！

　にわかに俺は緊張する。はじめに車を降りたとき、アーサーはたしかに変装したキャロルに視線を向けた。あのときから、既に気付いていたのだろうか？　玉飾りの予行演習も、俺ではなく、キャロルに向かってしようとした。最初から、アーサーはわかっていたのじゃないか？　そう考えるほうが、何もかも自然だ。

　俺は不意に、アカシの言葉を思い出す。アカシは花嫁に化けた俺の正体を、一目で見抜いた。俺の変装にミスがあったわけじゃない。俺に魅了されているアカシにだけは、たとえ着ぐるみを着ていても、わかるのだと言う。

　俺には理屈はわからないが、同じことが、キャロルを一目見たアーサーに、起こったのだとしたら。

　だが、もしわかっているのなら、何故、アーサーは替え玉だと叫ばないのだろうか？　相手の意向も確かめず婚約の儀式に呼びつける強引なアーサーが、見え透いた嘘を何故指摘しない？

　アーサーの黒い眼差しは遠く、深く、光を吸い込む闇の底に、悲しみを秘め、ただキャロルだけを映している。俺にはわからないが、これが恋に魅了された者の目なのだろうか。

　もしもここでアーサーが花嫁は偽物だと叫べば、この縁は破談になる。まさに同じ理屈で、キャロルは替え玉バラしでこの縁をブチ壊そうとしているのだ。

　だが逆に、もっと穏便に、アーサーがキャロルにまっとうな縁談の申し込みをしていたとしたら、果たしてキャロルは応じただろうか？

　少なくともキャロルは、リプトン氏の仕事のつながり以外には、アーサーのことを知らなかった。アーサーの顔も、人となりも、今日初めて見るのである。見ず知らずの男の求婚に興味を示す気まぐれは、キャロルの性格からすると、ありえない。普段から親しくしていてさえ、バンド仲間のニックのように、手酷いフラれ方をするのだ。

　キャロルの気性なら、多少強引な方法で彼女の気を引いて、存在を認めさせてから、彼女に選ばせるほうがまだ確率は上がる。

　そう考えればアーサーは、一見無茶に見えて、もっとも有効な手段を取ったのかもしれない。

　少なくとも、キャロルはこの場にいるじゃないか。たとえ、替え玉バラしの恐ろしい罠を仕込んではいても、この場で彼女をその気にさせるチャンスはある。アーサーが「鳳華」を見せに来たのは、キャロルへの必死のアプローチだったのではないか？

　楽団が演奏を始める。

　東洋古来の、丸い筐体に張った二本の弦を弓で引く楽器だ。やわらかな音色はどこかもの淋しく、祝いの曲を奏でていてさえ、哀愁を帯びる。

「……行きましょう」

　俺に向かって、アーサーは宣告した。先ほどまでの自信に満ちた笑顔ではなく、刑場へ赴く罪人のように沈鬱な表情だった。これから起こるだろう惨劇の筋書きを、彼は予測しているのだ。

　さすがに俺が、アーサーに同情の念を覚えたとき。

「むぐおおおおおおっ！」

　人間のものとは思えない雄叫びが、間近に響いた。

　振り向くと、俺に向かって突進してくるゴリラが一頭いる。

「キャロルは誰にもやらない！　キャロルはオラんだ！」

　ゴリラは真っ赤な顔でそう叫び、俺を抱え上げた。お姫様抱っこなんて可愛いものじゃない。両手で俺の腰をつかみ、頭上に高々と持ち上げたのである。

「ちょっ……！」

　叫びかけて、俺は口を押さえた。今ここで、花嫁が男の声を出すのはまだマズイ。かわりに、バルコニーに乗り出したゲストたちが悲鳴を上げる。

「ニック！　やめろ」」

　バルコニーの声援を聞くと、俺を持ち上げたゴリラの名前はニックというらしい。つまりは、キャロルにフラれたバンド仲間、哀れなゴリラウサギのニックである。

　キャロルめ、何がウサギのように大人しい、だ。コイツは正真正銘のゴリラじゃないか。

　驚いて立ちつくしていたアーサーが、さすがに一歩身じろいだ途端、ゴリラは吠えた。

「近づくな！　オラに近づいたらキャロルを海へ放り投げる！」

　ニックは叫び、本当に俺を投げそうに振り回した。正直あきれた怪力である。腰をがっちりつかまれて、抜け出す隙がない。

「キャロル、オラと一緒に逃げてくれええええ！」

　俺を頭上に抱え上げたまま、ニックは甲板を走り出した。ゲストが騒ぐバルコニーの下を抜け、船尾へと走って行く。

　あまりの事態に、誰も彼もが呆気にとられて見送るばかりだ。殺人予告からキャロルを守るために呼んだ警備員たちも、まさか探偵の俺がゴリラにさらわれるシチュエーションは想定していなかったらしい。口を開けて棒立ちしている。

　オイオイ、どこまでマジだよ、このゴリラ！

　俺が出方をうかがっている内に、ゴリラは船室の裏側の梯子に取り付き、ものすごい勢いでよじのぼりはじめた。不運なことに、梯子はそのまま天高くマストまでつながっている。

　ニックは片方の肩に俺を担ぎ、片腕だけで梯子を精力的にクリア、あっと言う間にマストのてっぺんに上り詰めた。

「キャロル、政略結婚なんかやめて、オラと逃げるだ！　一緒にこの大海を泳いで逃げるだ！」

　俺を肩に担いだまま、胸を叩いてニックは咆哮した。マストのてっぺんの雄大な景色、空は青く、海も青く、風がゴウゴウと吹き渡っている。

　オイオイ、タイタニックごっこをさせられるかと観念していたのに、これじゃまるっきりキングコングじゃないか。

　しかも酒に酔ったキングコング氏は、自分の肩でこめかみに指を当てているのが、愛しのヒロインではないことに気付いていない。重さといい、大きさといい、キャロルとは全然違うはずだが、まったく気付かない神経の図太さは表彰に値する。

　さて、この窮地をどうしたものか。

　キングコング氏を何とかうまくなだめてここから降りないと、甲板まで相当な高さがある。落っことされたら大怪我だろうし、ゴリラと一緒に海に飛び込んでやる義理もない。

「オイ」

　キングコング氏の耳元に、俺は低い声で呼びかける。

　マストのてっぺんの会話なら、ゲストたちに聞かれることはない。どうにか穏便に、キングコング氏に話をつけるしかない。俺がキャロルでないとわければ、さすがに海に飛び込もうとは言わないだろう。ただし、逆上したキングコングにうっかり投げ落とされないよう、慎重に事を進める必要がある。

　だが、そんな余裕はないようだった。

　マスト下に、ゲストたちが大勢集まって騒ぎ始めた。その騒ぎに煽られ、キングコング氏もますます興奮し、俺の声など耳に入らないようだ。ヘタをすると、このまま勢いで、俺を担いだまま海に飛び込みかねない。一刻も早く何とかしなければ。

　と。

「ニック、アンタは本当にバカね！　その酒癖何とかしなさいよ！」

　ゲストをかき分けて、一人の女が甲板から叫んだ。黒いスーツに真っ赤な髪、海風を切ってよく通る声は、変装を解いたキャロルである。素顔をさらし、何故かアーサーにエスコートされている。

　どうやらキャロル本人が、替え玉花嫁のネタばらしを実行してくれたらしい。こうなれば、俺も変な遠慮はいらない。

「キャ、キャロルが二人！？」

　甲板のキャロルと肩に担いだ俺とを見比べてうろたえるニックの目の前で、俺はベールを脱ぎ捨て、風に投げた。

　結い上げた髪はキャロルと同じストロベリー・ブロンドだが、顔がまったく違う、バッチリメイクの迫力美女に化けたカーマイン・ブラッド様である。

「うぐ、わああ！」

　間近に俺様の顔を見て、ニックは失礼な叫び声を上げた。

　危うくそのまま放り出されそうになり、俺はマストの梯子にどうにかしがみついた。いきなり手を放すなってのに！　宙にぶらぶら浮いた足を、強風が煽り上げる。真っ赤な衣装の裾がめくり上がり、バタバタと風を切る。ニックは俺の裾に顔を突っ込む形になり、目をふさがれて無駄に暴れる。

　俺は素早く、甲板を見やった。

　甲板には、悲鳴を上げ、右往左往するゲストたち。その間を、ようやく機能し始めた警備員が動いている。

　四人一組で引き回している黄色い物体は、どうやら救命用のエアボートだ。落下物を受け止めるクッション代わりのつもりらしい。なかなか気が利くじゃないか。

「ホレ、確保！」

　俺は叫ぶと、裾の中でモガモガしているニックの顔を思い切り蹴り飛ばした。

「ぐぅわはあ！」

　奇怪な叫び声を上げて、ニックの巨体が宙に浮き、重力に従って落ちていく。

　甲板の警備員がわらわらと動き、エアボートでどうにか巨体を受け止め、身柄を確保する。この高さからじゃ、ちっと痛かったかもしれないが、まあせいぜい打撲程度で済んでいるはずだ。

　やれやれ、悪漢が捕まって、一件落着といったところか。

　俺は窮地を打開してくれたキャロルに向かって、親指を立てた。

　だがキャロルは、アーサーと向かい合って手を握り合っていた。マストの上も下も見ちゃいない。

「アーサー、あなた、私を知っていたの？　騒ぎになったときに、真っ先に私のところへ来てくれたわ」

　変装を解いたキャロルは、まっすぐにアーサーを見つめている。

「ひどい姫だ。国際音楽祭で審査員席に投げキッスをして、誘惑したのはあなたじゃありませんか。私はあなたの歌に囚われたんです、キャロル」

　アーサーは答えて、キャロルの左手の甲に口づけした。

　どうやらアーサーは、歌姫としてのキャロルを知っていたらしい。それどころか、その歌声に誘惑されたのだという。国際音楽祭の審査員とは、また意外な出会いがあったものだ。

「リムジンを降りたときから、私にはあなたしか見えませんでした。あなたは今まで通りで構わないのですよ。どこに住んでも、何をしていても、どんな服をお召しになっても構いません。私のほうから、今日のように駆けつけて、あなたをお守りします。どうか私に、あなたをお守りする役目をお許しいただきたい」

　アーサーは胸の前に手を当てて、騎士のような礼をした。この土壇場で、アーサーはようやくキャロル本人にプロポーズすることができたのだ。

　キャロルが伸び上がって、その唇にキスをする。

「負けたわ、アーサー。私、あなたの姫になる」

　宣言して、キャロルは明るく微笑んだ。

　手に手を取って微笑む二人に、周囲が拍手喝采を送る。

　歌姫キャロルに惚れ込んだアーサーが相手ならば、キャロルはこれからもずっと歌い続けられるだろう。しかも、どこに住んでも、何をしていても構わないと言う。たしかにこの男ならば、今日一日替え玉花嫁につきあった忍耐力と、決してあきらめない一途さとで、キャロルの気まぐれにも付き従うだろう。

　どうやらキャロルは、最高のスポンサーに恵まれたようだ。

　そしてアーサーは、一途な想いを叶えたことになる。強引でかなりメチャクチャなアプローチだったが、結果的には大成功だ。

　ドタバタした経緯はあったものの、今日のパーティーの目的は果たされたわけだ。ニックは貧乏くじだったが、おかげで狂言殺人予告もうやむやになり、リプトン夫妻も手を取り合って娘の幸福に感動している。

　これで俺の、花嫁代理という珍妙な任務も終了だ。

　ほっとした気分で、俺はマストの梯子を下に降り始めた。ベールはむしりとってしまったが、裾や袖が風に煽られ、手足に絡まって動き辛い。

　下まで降りたら、さっさとこのシャラズルした女装を脱ぎ捨ててやる。

　と、思った瞬間、ありえないほどの強風が吹き起こった。下の方から、文字通り体を持ち上げるように吹き上げ、俺の体を覆う花嫁衣装をまるで帆のようにいっぱいにふくらませる。

　そのとき、俺が握った梯子の一段が、潮風で錆びてボロボロになっていたのは、まったくの偶然、類い希なる不幸としか言いようがない。

「う、わ？」

　握っていたはずの梯子がいきなりすっぽ抜け、俺は背中側にそっくり返った。その背を支える物は、当然ながら何もない。ゆっくりスローモーションで、風の鳴る空に仰向けに倒れ込んで行く。

　空は、青かった。風がゴウゴウと、耳を打った。

　青い海と空の間で、赤い衣装の俺が宙に舞う。甲板の連中は、幸福な花婿花嫁に夢中で、上空の異変なんか見ちゃいない。

　落ちる？

　声を上げる余裕もなく、俺の体は風に翻弄され、やがて重力に引かれて落下した。赤い裾が手足に絡まって、何かにつかまることも、受け身を取ることもできない。

「カーマイン！」

　衝撃に体が砕ける寸前に、誰かが俺を呼んだ。

　誰の声か、認識するには至らなかった。