ローズ・オックスハート。渦巻くブロンドに、きつい印象のエメラルドの瞳。真紅のドレスに包まれたグラマラスな肢体。ルックスだけなら文句なしの美女を、悪友と呼ぶべきか、天敵と呼ぶべきかで、俺は少し悩む。

　いずれにせよ、いきなり予告ナシに遭遇するのはすこぶる心臓に悪い。俺にとってすべての女性はエンジェルだが、ローズだけは例外だ。

　ローズとのつきあいはそう長くない。だが、短期間の思い出は、どれも災厄に満ち満ちている。つまり俺にとっては災厄の女神で、一般的に言えば、トラブル・メーカーなのである。それも、特大級の。

「久しぶりね、カーマイン」

　俺の事務所の戸口に立ち、逆光を背負って、ローズは微笑んだ。猫のように光る瞳が凶々しい。

　数年ぶりの天敵の、あまりにも突然の来襲に、俺は危うく椅子ごとひっくり返りそうになった。昔は高級だった皮張りのアーム・チェアは、年月を経て微妙に後ろに傾き、油断をすると重心を後ろに持って行かれるのだ。

「なあに、ここは。ちょっと見ない間に荒れ果てて、探偵事務所というよりまるで遺跡ね。最近赤毛のプレイボーイ探偵の噂を聞かないけれど、肩書きはまだ探偵なの、カーマイン？」

　事務所の中を見回しながら、ローズはずけずけと言った。こっちの動揺なぞ気にも止めていない。

「まあな。おかげさまで、細々と探偵してるよ。そっちの肩書きは相変わらずの遺跡荒らしか、ローズ？」

　デスクの下に膝をつっぱって、ひっくり返りかけた体を支えながら、俺はやり返す。

　ローズは間近に顔を寄せ、艶然と微笑した。

「あら、カーマイン。遺跡荒らしって誰のこと？　私は今も昔も考古学研究者よ。あなたが半年もいなかったキャンパスの研究室にまだ籍があるもの」

　俺とローズとは、かつて同じユニバーシティのキャンパスにいた。ただし、学部は違うし、俺のほうは半年足らずで退学している。

　当時、開業したてのブラッド探偵事務所は繁盛していた。社交界の淑女の間で、赤毛の美青年探偵がちょっとしたブームになったのである。豪邸の庭で迷子になったペット探しや、ベッドルームでの失くしものなど、実にどうでもいい事件で毎日のようにお呼びがかかった。探偵業というより、有閑淑女の遊び相手に忙しく、とても大学へ通う暇などなかった。

　事務所に閑古鳥の鳴く今となっては、嘘のような昔の栄華だが。

　彼女たちの間での流行が沈静化し、俺もティーンと呼ばれる年代を過ぎると、依頼は途端に減り、今の惨状というわけだ。

「まったく、大学をやめてから仕事が暇になるなんて、皮肉ね」

　俺の苦い回想を見透かしたように、ローズが鼻で笑う。

　後方に傾いたチェアの中で強引に体を起こした俺は、デスクに頬杖をついてローズを睨んだ。

「で、レディ。いったい何の用ですか？」

　商売用の硬い声で問いただす。そもそも何で、この女は突然こんなところへ来て、俺を嘲笑っているのか。

「まあ、そう怖い顔をしないで、カーマイン。せっかく依頼を持ってきたんだから」

　ローズが人差し指で俺の鼻の頭をつつく。

　ぞんざいな仕草にムッとしながらも、「依頼」という言葉に俺は黙りこむ。

　やっていることは盗掘まがいの遺跡荒らしだが、パトロンの祖父が金持ちとかで、ローズは財界には変に顔が利くのだ。ローズが持ち込むのだからかなり厄介なヤマだろうが、それに見合う甘い汁もあるはずだ。

「フン、どんな依頼だ？　言っとくが、殺人とか強盗とか、ポリス向きの荒っぽい依頼は無理だからな？」

「ええ、わかっているわ」

　我ながら情けない確認に、ローズが真顔でうなずく。

　俺はただの探偵じゃない。通常の探偵にはない、甘いマスクと社交術が武器の、財界というか裕福なご婦人たち専門の社交派探偵なのだ。流血沙汰のゴツイ事件や、入り組んだ謎の推理を依頼されても困る。

　ローズはレースのハンケチーフを取り出して、デスクに置いた。

「この石の保管をしてほしいの」

　畳んでいたレースを広げると、中には玉石を削ったリングが据えられている。

「何だよ、これは？」

　何の石だろう。ほとんど黒に見える半透明の石は、光に透けたところだけ、深いパープルの影を落とす。たぶん、紫色の石なのだ。

　大きな楕円形のリングで、指なら二本はまとめて入る。幅も広く、よく見れば、二本のリングがぴったりと重ねてあるようだった。何で接着されているのか、二つのリングは一つに重なって、持ち上げても離れない。なめらかな石の表面、二つのリングにまたがって、見たこともない象形文字が刻まれている。

「サウス・アメリカのさる遺跡で発掘されたものよ。サウス・アメリカの他の古代文明には見られない文字で、未知の文明の可能性があるわ。私はこれをさる富豪に託して、研究支援をお願いしたいの」

「ふうん、さるさると胡散くさい話だな。それで、どうして俺が預かる必要がある？」

　俺は鼻を鳴らして遮った。一見もっともらしい説明だが、ローズの話には必ず裏がある。

「実はね、これを狙った盗賊団に追われているのよ。ここへ来るのにも、奴らをまくのに随分と手こずったわ。私がおとりになって奴らを引きつけるから、取引の期日まで預かって欲しいのよ」

　やっと災厄の片鱗らしきものが見えてきた。それでも、ローズにしてはあまりにもヒロイックな言い分だ。

　俺は頬杖をはずして、ニヤリと笑う。

「少し違うな、ローズ。お前が盗賊団に追われているんじゃなくて、盗賊団からお前が盗んだんじゃないのか？」

「あら」

　薬指を優雅な仕草で唇に当てて、ローズはとぼけた。細長い指には、幅広の金地に古代文字を刻んだ、どう見ても年代物というか、貴重な文化遺産にしか見えない指輪が光っている。

「それは名探偵の推理かしら、カーマイン？」

「いや、ただのカンだよ。お前、気に入ったんだろう、その石が？」

　じっと顔を覗きこむと、ローズは小さく肩をすくめた。

「ええ、そうね。学術的見地から価値を認めているわ。金目当ての連中に適当に売りさばかれるくらいなら、しかるべき機関に託して発掘研究を進めるべきよ。サウスのバーで知り合った男が、偶然にも遺跡荒らしの盗賊団でね。ベッドへ着いていくフリをして、そいつが鼻歌でシャワー使っている隙にいただいて逃げてきたのよ」

「はん、やっぱりな」

　本当だとしたら、実に間抜けな話である。恐らく遺跡荒らしの男と知り合ったのが偶然だった、というのは嘘だろう。ローズのことだ。そこから計算ずくだったに違いない。勿論、そうだとしても充分に間抜けな盗賊団ではあるが。たしか以前にも似た話を聞いたことがある。

　ローズは、自分から進んで盗掘はしないが、盗掘者からさらに盗む手口は常習らしい。いわく、金目当ての遺跡荒らしとは違って、考古学にも造詣のある相手に売るから、貴重な遺産の価値を守ることには貢献しているのだという。

「ったく、やっぱり危ない話じゃないか。この盗掘者荒らしめ」

　要するに、盗品の保管をして欲しいのだ。なまじな知り合いや、ましてポリスには頼めまい。それにしても、こういう背景を隠したままで話を進めようとするのが、こいつの災厄たる所以だ。

「別に危なくなんかないわよ。私がおとりになるんだもの。あなたがいわゆる探偵として役立たずなのは知っているし。ただ、誰にも秘密で、石を保管してくれればいいだけ。取引がうまく行ったら報酬もはずむわ、カーマイン」

「フ、ン」

　冷静に聞けば相当に失礼なことを言われながら、俺はただ曖昧にうなった。事務所が火の車の現在、報酬という言葉には弱い。

　俺が煮えきらないでいると、ローズが耳元に唇を寄せてきた。

「まあ、ね。私がこの石を欲しくなったことも認めるわ、カーマイン。そうじゃなきゃ、価値なんて最初から認めないもの。闇の色をしているのに、じっと見つめていると深い底からパープルが浮かんでくる。謎めいて、きれいじゃない？」

　デスクの上の石を指先で弄びながら、ローズが小さくつけ足す。ぽろりと本音を漏らすとき、ローズの頬はまるで少女のようなバラ色になる。

　こういう出方をされると、どうにも弱い。

「……ったく、最初から素直にそう言えよ。で、いつまで預かればいいんだ？」

「引き受けてくれるの、カーマイン？

　途端にキラリとローズの猫目が光る。

　俺はまたハメられたかと自覚しながら、うなずいた。仕方がない。多少あがいたところで、結局こいつには振り回される。昔からそういう因縁なのだ。

　ローズは素早く石をハンケチーフでくるむと、俺の手を取り、握りこませた。

「お願いね、肌身離さず持っていて」

　囁いて、離れ際にチュッと頬にキスをする。それがたとえ災厄の女神だろうと、美女からのキスを受けるのは悪くない。

「期限は日曜の正午まで。直接取引場所まで持ってきて欲しいの。このカードの住所。取引相手は大邸宅に住まう美しき未亡人よ、楽しみにしていて」

　俺はヒュウと口笛で答える。美しき未亡人。そういうゴールがあるのなら、多少の災厄もオプションのうちだ。

「じゃあね、カーマイン。日曜に」

　気軽なデートの約束をしに来ただけのように、フラリとローズが出ていこうとする。とっさに腕を掴んで、呼び止めた。

「待てよ、ローズ。ローズは日曜までどうやって過ごす？　その盗賊団とやらに狙われているんじゃないのか？」

　本当は、最初に気づくべきことだったろう。

　ローズを前にすると、ジェントルマンの理性より、自己防衛本能が先に働くのは、過去のトラウマゆえだ。

　だがローズは、今さらの俺の懸念を鼻で笑った。

「あら、私には最強にして最愛のボディーガードがついているから心配ないわ。これからマイクと二人で、ヤツらをからかいながらバカンスでも行こうかと思っているの」

　マイクというのは、ローズのボディ・ガード兼ボーイ・フレンドらしい。

　そういえば、前にも一度紹介された記憶がある。ゴツくてデカくて、岩のように無口な男だった。どうも俺とは正反対のタイプが、ローズの好みのタイプらしい。

「そうそう、私の心配より、自分の身の安全に気をつけたほうがいいかもしれないわよ、カーマイン？」

　依頼を受けた途端、ローズは不敵な笑いを見せた。

「何だよ？　まだ何か危ない裏があるのかよ？」

　腕を引き寄せて、体ごと抱きこむ。ローズはフンと鼻で笑った。

「別に、そんな大そうなことじゃないわ。ただね、その石のリング、祭事に使われていたものらしくて『愛に不誠実な者には災いをもたらす』という言い伝えがあるの」

「言い伝え？　そりゃまた古風な」

　ローズにしては、随分としおらしいことを言うものだ。言い伝えどころか、死者のかけた首飾りを奪うことさえ、ためらわない遺跡荒らしの癖に。

「そうよ、ただの現地の老人たちの言い伝えよ。でも、プレイボーイのあなたには言っておいたほうがいいかと思って」

　細いウエストをくねらせて、ローズは俺の腕を抜け出した。大抵の女なら金縛りになる俺の抱擁も、彼女には通用しないらしい。

「人聞き悪いな、ローズ。俺はいつだって真摯で誠実だぜ？」

「あら、そう？」

　俺の殺し文句も、軽く聞き流す。

　そしてローズはヒラヒラと手を振って、ドアではなく、何故か反対側の窓を開けた。

　窓の下は、ダウンタウンの狭い裏路地だ。

「お待たせ、マイーク！」

　身を乗り出し、声高に叫んで、ローズは無造作に窓から飛び降りた。事務所は中二階にあるから、窓から地面までは数メートルの高さがある。

「お、おい！？」

　慌てて駆け寄り、窓から見下ろす。

　狭い路地にパラシュートのように広がった赤いドレスは、たくましい男の腕にフワリと受け止められた。

　つまり、最強にして最愛のボディ・ガード様の登場というわけだ。

　褐色の肌をした大男のマイクは、ローズがここにいる間中、窓の下で待機していたらしい。

　ヒョイとローズの金髪を黒いメットに押し込んで、マイクがバイクのエンジンをかける。タンデム・シートに股がったローズは、ドレスの裾がめくれて白い太股があらわになるのも気に止めず、愛想よく手を振った。

「じゃあね、カーマイン。表にいる熱烈なファンによろしく言っておいて！」

　赤いドレスの裾を風に翻して、爆音とともにバイクが遠ざかる。

　途端に、表が騒がしくなった。鋭く叫び交わす声、派手なタンデム・バイクの粉塵を追いかけていく数台の車、ドンドンドンと叩き壊しそうな勢いで事務所のドアを叩く音。

　推理するまでもない。ローズにリングを盗まれた間抜けどもが、追って来たのだ。

「表のファンって……やっぱり尾けられてたのかよ、この疫病神！」

　俺は舌打ちして、あたりを見まわした。事務所のドアくらい、すぐに破られる。逡巡している暇はない。

　身を屈めてデスクの下にもぐり、床板をはがす。少々情けないポーズだが、こういう非常時のために、隠し通路のひとつも整備しているのが探偵事務所というものだ。ちなみに大家にもは秘密の改造である。バレるとマズいので、使うのも今日が初めてだ。

　素早く身を隠して、床板を戻す。子供騙しだが、街の雑踏に逃れるまでの時間稼ぎにはなるだろう。

　ローズに握らされたままだった石を確かめると、暗闇ほのかに、謎めいた光を放った。

　まるで、その後の災厄を予告し、嘲笑うかのように。