ローズから預かった石を内ポケットに隠して歩き始めた途端、俺は様々の災厄に見舞われた。なるほど、これが言い伝えの効果らしい。

　いわく、愛に不誠実な者には災いをもたらす。

　眉唾だとばかり思っていたが、あのローズがわざわざ忠告するだけの効力はある。ただ悪い偶然が重なっただけ、というにはあまりにもヘビー過ぎるトラブルに、俺は毒づいた。

　俺はいつだって真摯で誠実に生きているのに、いったい何でこんな目に遭う？

◆

　俺の事務所は、既に盗賊団に知れている。事務所には戻らず、どこか外で、日曜まで過ごす他にあるまい。そしてどうせ過ごすなら、金と女つきベッドのあるところがいい。

　まだ若き未亡人は、俺がまだ十代だった頃のお得意様で、この頃はお呼びがかからなくなって久しいが、行けば歓迎してくれるだろう。

　ところが、アテははずれたようだった。

　豪奢なソファにくつろいだ女主人は、俺よりずっと若い男を足元にはべらせていたのである。

　一時期は毎日のように話し相手に呼んでくれたのに、すっかりお呼びがかからなくなったわけだった。

「今日は何の用かしら、カーマイン？」

　肘掛にもたれて、女主人は冷たく微笑した。

　彼女の足元の男は、まだ少年と呼べる年頃だ。丸みの残る頬をうつむけて、何故か小刻みに震えている。こめかみには、玉の汗を浮かべている。どうも、様子がおかしい。

　俺は、女主人の顔を見た。

「悪いけれどお引き取り願えるかしら？　ごらんの通り、取り込み中よ」

　顎をしゃくって示された足元を、改めて凝視して、俺は仰天した。

　彼女の足元には、貴重なホワイトタイガーの毛皮が敷かれている。その上には、何故か顔面蒼白でうずくまっている美少年。そして彼の両足首には、まだら模様の大蛇がグルグルに巻きついていたのである。

　美少年は、浅い呼吸にパクパクと口を開閉し、ほとんど白目を剥いている。その脚をグイグイ絞めつけながら、大蛇が盛んに金属を擦り合わせるような威嚇音を発している。しかも、美少年の股間にもたげられた鎌首は、どうやら俺に向けられているらしい。

「いま、あなたが来た途端にね、ニシキヘビのマーブルちゃんが興奮しちゃって大変なの。普段はおとなしいコなのに。ねえカーマイン、あなた何かヘビを刺激するものを持っている？　お願いだから、私の可愛いナルシスちゃんが絞め殺される前にそっと静かに出ていって」

　俺は、それこそ一言も発さず、後ろ脚でリビングから脱出した。

　我が麗しの未亡人は、いったいいつから、あんな物騒なペットと、いたいけなナルシスを飼うようになったのか。

　その後の美少年の運命は俺の知ったこっちゃないが、とりあえずしばらくは寄りつかないほうがよさそうだ。

◆

　ロック・スターを夢見るお嬢様で、自分の部屋の他に、バンド仲間とロックをやるための離れを持っている。盗賊団に追われる探偵を数日間匿うという無茶も、ロックなスピリットで引き受けてくれるに違いない。

　離れ自体は万全のセキュリティに守られた社長宅の敷地内にある。数日を隠れて過ごすには持ってこいだろう。

　まず彼女に電話をして、セキュリティとガードマンを何とかしてもらい、こっそり離れに侵入する算段を立てる。例のごとく、令嬢と懇意になりすぎたあまり、家主である社長本人とはあまり折がよくない。

　家主に内緒でうまく匿ってもらえれば、あとは約束の期日までのんびり過ごせばいい。なかなかうまい計画のはずだった。

　ところが、計画はまたしてもトラブルに見舞われた。

　令嬢に通用門を開けてもらい、敷地に一歩入った途端、番犬のイーグルが飛んで来て、ものすごい勢いで吠え出したのである。

　何度か出入りしている屋敷で、イーグルとは令嬢より先に懇意になっていたはずだった。犬を慣らすのは探偵・カーマイン様の特技の一つだ。じゃれつかれることはあっても、吠えられたことなぞない。

　ドーベルマンに吠えられ、歯を剥いて威嚇されるという初めての体験に、俺は慌てた。どうして今日は、蛇に威嚇され、犬にまで吠えられるのか。

　そうこうしている内に、邸内のガードマンが駆けつけた。

　その場は令嬢が取り繕ってくれたものの、オレが邸内にいることが、恐らく家主にも知れた以上、何日も滞在することは困難である。

◆

　亭主の出張とタイミングが合えば、数日くらい匿ってもらえるかもしれない。

　幸い、彼女は家に一人だった。この家は蛇だの犬だの厄介なペットは飼っていなかったはずだし、他に妙な生き物が潜んでいないことも確認しつつ、俺は奥に向かった。

　マダムはキッチンにいた。

　いい匂いの湯気がフワフワ漂う中を、忙しく立ち働いている。なかなかいい光景だ。

「いいタイミングで来たわね、カーマイン。ミートパイが焼きあがったところよ。味を見てくれない？」

　マダムはダイニング・テーブルに俺を座らせるなり、熱々のミンチがあふれているパイの皿を俺の前に置いた。ちょうど腹も減っていた頃合で、俺は上機嫌でかぶりついた。

「どう？　久しぶりだから自信がなくて」

　マダムがカウンター越しに俺の様子を覗く。腕には小ぶりのボウルを抱え、泡だて器で何やらかき混ぜている。

「エクセレント！　美味しいですよ、とっても」

　親指を立ててウインクする。

　マダムはうれしそうに微笑んで、またレンジに向かった。ボウルの中のものを、鍋にぶち込んでいる。通いのメイドがいたはずで、マダムが料理している姿を見るのはちょっと珍しい。

「お忙しそうですね、マダム」

　パイをたいらげて、声をかける。飲み物が欲しいところだが、マダムは気がつかない。

　キッチンとダイニングを隔てるカウンターには、アンティークなラジオが置かれ、交通情報を伝えている。

「あ、ええ。ごめんなさいね。夫が今夜、帰って来るの。珍しく、私のパイが食べたいなんて言うものだから。何年ぶりかしら」

　ラジオの騒音越しに、マダムはややずれた答えを返した。

　俺は立ちあがると、ラジオのボリュームを下げた。あなたのやさしい声が聞こえないから、とやろうとしたのだが、

「あら、つけておいてカーマイン。彼、ハイウェイで帰ってくるから交通情報が気になるのよ」

　あっさりとマダムに音量を上げられた。結果的には、さっきよりもむしろボリュームは大きくなった。

「事故も混雑もないし、小一時間ばかりで着くかしらね。いやだわ、マッシュポテトが間に合うかしら」

　マダムは楽しげに料理にいそしんでいる。

「ハハ、旦那様のお帰りね。あと小一時間と。フーン」

　俺の呟きには反応もしない。要は、ここにも俺の居場所はないということだ。

　と、突然ラジオが異常な音を発した。

　はじめプツプツと途切れていたスピーカーは、キィーとかガガーとかうなりはじめ、交通情報のかわりに、どこか古代民族のシャーマンのような甲高い奇声を上げ出した。

「いやだわ、カーマイン。何をしたの？　チューナーを戻してちょうだい」

　マダムが食って掛かる。ラジオの傍にいたのは俺だけなので、疑うのも無理はない。

　俺は両手を上げて、潔白を訴える。

「いや、何もしてませんよ。古そうなラジオですから、寿命では」

「嘘言わないで。見かけはアンティークだけど、先月あの人が旅先で買ってきたものなのよ。壊れるわけがないじゃない」

　マダムがボウルを置いて、レバーを上下する。だがラジオはますます異音を発し、ついにキーンと耳をつんざく高音の一点張りになった。

「おかしいわね。やめて、やめてちょうだい、カーマイン」

　だから俺は何も、と言いかけて、上げた手を左胸に当てる。

　内ポケットには、コロリと小さなリングの感触。俺はようやく、思い当たった。

　これも、この石のせいか。黒々と沈黙しながら、不気味なパープルの影を落とす、この石のせいか。

　大蛇の怒りを買い、賢い番犬を吠えさせ、ラジオまでも騒がせる。これもまた、この石の呼んだ災厄なのか。

　石を取りだし、アンテナにかざしてみる。

　ラジオは、もはや断末魔としか思えないような半狂乱の悲鳴を上げた。

　間違いない。すべてはこの呪われた石のせいだ。俺は首を左右に振り、悲しい微笑みをマダムに向けた。

「わかりました、マダム。俺はここにも置いてもらえないようだ。今日は帰ります。ご機嫌よう、ご主人によろしく」

　両耳を押さえながら、俺とマダムが会釈をする。

　マダムには、俺が何を言ったかは恐らく聞こえなかったろう。ただ小さく、手を振ってくれた。

◆

　最後に俺が思いついたのは、一人の男だった。

　あいつなら、どういう事情だろうと、多少の災厄があろうとも、俺を匿ってくれるだろう。何しろ、俺があいつの犯罪を見逃してやったこともあるのだ。

　昼の太陽のかわりに、夜の電飾に照らされた街を、俺はよろよろと歩き出す。

　都会は夜でも昼と同じように明るいが、夜の光は、何故だか光の輪の外のものを拒む冷たさがある。灯の下の平穏を破らんとする災厄の石を持った男ならば、なおさらだ。

　静寂と安らぎを乱す存在は、どこだってお断りに決まっている。

　そしてそれは、俺が最後の砦と思った男がいるはずのＲＥＤ研究所ビルでも、同じだったらしい。

　エントランスの自動ドアに、俺は盛大に挟まれた。

「えっ！　ちょっと、アンタ、何やってんの！？」

　制服のガードマンがすっ飛んでくる。

　何をやっているも何も、ドアが勝手に俺を挟んだのだ。どこの誰が、好き好んで自動ドアに体を挟ませるだろう。

　右のドアは突っ張った俺の手のひらと肘と膝に、左のドアは肩と頬にギリギリ食い込んでいる。

「おかしいな、故障かな。大の男が二人もマットに載っているのに、開かないなんて。アンタ、大丈夫？　わあ、ドアが顔にめりこんでるよ！」

　自動ドアのセンサー・マットの上で足踏みをし、首を傾げ、自動ドアと戦っている俺に、白髪混じりの爺サン警備員は同情に満ちた眼差しをくれた。正直、同情するなら開けてくれ、と切実に思う。

　と、腕に食い込んでくる左側のドアのドアの圧力が少し緩んだ。

　誰かがドアを押さえてくれたのだ。

「明らかに故障でしょう。私が押さえてますから、早くドアの電源を切って！」

　落ち着いた声が、ガードマンに指示を出す。爺サンがどこかへすっ飛んで行くと、間もなくドアは開いた。

「ハア、助かった。ったく、ドアに挟まれて死ぬなんて冗談じゃないぞ」

　ようやくドアの隙間を抜けだした俺は、膝に両手をついて嘆息した。

「いったい、どうしたんですか、カーマイン」

　呼ばれて顔を上げる。白衣姿で立っているのは、俺が尋ねて来た男、友人のアカシだった。

　コイツは、変わらない。俺を見て愛想笑いを振りまくこともないが、不機嫌な顔を見せることもない。勿論、吠えたり威嚇したり異音を発したりもしない。いつもと同じポーカーフェースで、ただ眼鏡のフレームに隠れた眉のあたりに少しだけ、驚きと微笑みとの中間の色が見える。

　ほっと、俺は安堵に頬を緩めた。

「どうしたもこうしたも、そのドアが勝手に……ああ、これも石のせいかよ」

「石？」

　問いかけられて、はっと口をつぐむ。往来で話すには、少々厄介な内容だ。

「カーマイン、二階のラウンジへ行きましょうか。コーヒーでもいかがです」

　俺の顔色を読んで、アカシが提案する。よく気のつくことだ。

　ガードマンの爺サンに礼と、自動ドアの保守サービスを呼ぶように言い残して、アカシは先に立った。

　二階のラウンジには、ソファとテーブルのセットがいくつかと、飲み物の自動販売機が置いてあった。

　奥にはカフェらしいカウンターもあるが、時間が遅いのでクローズドの札がかかっている。店内と思われるスペースの灯りも消え、廊下側の蛍光灯だけが白々と明るい。ラウンジには、他に人影もない。

　打ち明け話をするには、いい場所だった。

「で、いったいどうしたんです？　カーマイン」

　紙カップに買ったコーヒーを二つ持って、アカシが俺の隣に腰かける。

　いざ聞かれると、何から話せばいいか、俺は迷った。迷った末に、俺は周囲を見まわし、誰もいないのを確認して、内ポケットに手を入れた。

　さっきの自動ドア騒動で、うっかり破損したりしていないかも確かめたかったのである。

「これ、なんだがな」

　薄暗い光にかざすと、リングはうっすらパープルに透けた。この石は、明るいところでより、暗いところで見るほうが、本来の色を映すのかもしれない。

「これは、珍しい」

　アカシの瞳が、途端にキラキラと輝く。

　そういえば、コイツは石マニアというか、鉱物の研究者なのだった。

「石を削ったリングですね。何の石でしょう。水晶の類でもない。玉か、人口石か、見ただけでは、判断がつかない。不透明な黒色に見えて、影には色がある。しかも二つのリングをぴったり貼り合わせてある。隙間に接着剤も見えないのに。合わせ目が紫のラインになって、美しい」

　手渡してやると、ためつすがめつしながら、うっとりとため息を漏らす。

「何かよくわからんが、古代文明の貴重な遺物らしいぜ」

　さりげなく衝撃的なことを言ってみたつもりだが、アカシはとくに反応しなかった。

　石を眺めるのに熱中して聞こえなかったのか、そこにある物質の人為的文化的背景には、科学者は興味を示さないものなのか。いずれにしても、前提で引っかからないでいてくれるのはありがたい。

「依頼で、日曜まで預かる約束をしているんだが、いろいろとトラブルを招いてくれるんで、ほとほと困ってる」

　アカシがチラリとこっちに目線を向けて、また石に戻る。人の話を聞いているのだろうか。

「さっきの自動ドアの故障も、たぶんコイツのせいだ」

「何故、そう思うんです？」

　石から目を離さずに、アカシが尋ねる。薄暗い蛍光灯にかざし、片目で覗きこむアカシの頬に不吉なパープルの影が落ちている。

　俺は、ローズに聞いた石の言い伝えと、事務所を出てから遭遇した数々の奇妙なトラブルについて話した。

「言い伝えですか。随分とロマンチックですね、カーマイン」

　随所で丁寧な相槌を打ちながら、最後にアカシの述べた感想はそれだった。

「そりゃ、俺だって信じちゃいないさ。だが、偶然と言うには、あまりにも重なりすぎだ」

「どのトラブルもありえないことではないですが、現実に起きる確率としては低いでしょうね」

　アカシが、弄んでいたリングを指に通してみる。リングは径が大きいので、中指と薬指の二本を差しこんでもまだ余る。というか、指にハメる形ではなさそうだ。かと言って、腕に通すほどにも大きくない。

「で、これはどこにハメるものなんです、カーマイン？」

　アカシは今度は、俺の手を取って、親指に通した。親指だろうと、余るものは余る。楕円のリングは、安定感なくぶらりと垂れ下がった。

「俺が知るかよ。チェーンにでも通して、首からかけるんじゃないか」

　それじゃつまらない、仕掛けがあるのに、とアカシが小さく呟く。他に、愉快な用途でも思いついたのだろうか。

「で、な。アカシ。モノは相談だが、俺とこの石を匿って欲しい」

　ようやく、用件を切り出す。

「この石を狙っている連中がいてな、奴らに知れたんで、事務所には戻れない。あちこち隠れ場所を探したが、この石のせいでどこにもいられない。ここなら、何とかなるかと思って、来た」

　アカシが顔を上げる。石のリングごと、まだ俺の手を握っている。

　俺はその手を軽く握り返した。ヤツが俺に特別な感情を持っていることを計算に入れての行動だ。

　アカシはいつものポーカーフェースのまま、ぎこちなく硬直する。

　何度か寝たこともあるくせに、アカシのこういう反応は、ハイスクールの頃から変わらない。

「何せ、財団ＲＥＤの誇る鉱石研究所ビルだ。セキュリティはバッチリだろ？　できれば、最上階の博物館スペースか、ガードの堅い研究者スペースにもぐりこませてもらえるとありがたいんだが」

　打算を正直につけ足すと、アカシは小さくため息をついた。

「勿論、構いませんよ、カーマイン。私はいつだってあなたの言いなりです。あなたに頼られるだけで光栄ですよ。だからこんな、依頼人のレディたちにするような、心ないスキンシップ・サービスは不要です」

　握ったままの手を持ち上げてみせる。

　たしかに、この場には不似合いな光景だった。ここは昼間ならば公共の場で、お堅い研究所で、アカシの職場だ。昼間のカフェが賑わっている時間ならば、男同士で手を握り合っているのを見たら、俺だって異様だと思うだろう。

　アカシには、表面の愛想笑いは通用しないのだ。苦笑して、手を引っ込める。

　ところが、離そうとした手を、アカシはぐいと引いて胸元に抱え込んだ。

「カーマイン。私は、あなたがしたいと思ったときにしてくれる、そうでなければイヤなんですよ」

　アカシは真顔で、恥ずかしげもなく断言する。さらに、俺の手を両手で握ると、リングの上から親指に口づけた。

　これには、俺のほうが赤面した。

　力ずくで腕を振ったが、アカシの指は外れなかった。いつのまにか、俺の親指に引っ掛けたリングに、かすがい状に自分の指を差しこんでいたのだ。

「ああ。案外、こういう用途なのかもしれませんね、このリング」

　親指を支点に、クイクイとリングの楕円を揺らす。二人用のリングというわけらしい。

「ンなわけあるか、不自由な」

　これではまるで、手錠じゃないか。指を通した相手と向かい合ったまま、身動きも出来やしない。

「……愛に不誠実な者には災いをもたらす、ですか。まったく、心当たりが多そうですね、カーマイン？」

　小さく喉を鳴らして、アカシが笑う。

　二人の親指に引っかかったままの石のリングは、昼よりも深いパープルを帯びて見えた。