いや、ここは研究所で室内なので、蛍光灯が黄色いのだろうか。目の前にあるパソコンのモニタも、全体に黄色く変色している。人工石の含有成分を示す円グラフの色分けのあまりの眩しさに、眼鏡をはずしてまぶたを揉む。

「お疲れみたいですネ。ドクター・アカシ」

　声をかけられて、振り返る。はずしていた眼鏡をかけると、褐色の肌に白い歯を見せて、化粧気のないあどけない笑顔が覗き込んでいた。

　アレキサンドラ・ラーエ。皆には愛称でサンディーと呼ばれている。まだハイ・ティーンの若さだが、飛び級で既にマスター・コースを修了し、リサーチ・アシスタントとしてプロジェクトを手伝ってくれている天才少女だ。

「どうぞ」

　取っ手のついたペーパー・カップを手渡される。

「ありがとう、サンディー」

　たちのぼる湯気のスパイシーな香りは、チャイだろう。インド系の彼女は、祖母直伝の茶をポットに詰めて持って来る。スパイスをたっぷり入れて煮出したミルクティーは、飲むと頭がスッキリする。

「スポンサーへの報告会は、先週済んだのですよネ？」

　隣のデスクの椅子を引っぱり出して、サンディーも腰かける。彼女もここで一休みしていくつもりらしい。

「ええまあ、何とか」

　報告期日の直前に、アパートを追い出された友人が転がり込んできて、それは大騒ぎだったのだが、どうにかこうにか間に合わせた。

「珍しいですネ。ドクター・アカシは、いつも報告会には余裕で臨むのに」

　不思議そうに、サンディーが黒い瞳をくりくりと動かす。何か面白い理由でもあるのかと視線が尋ねているが、曖昧に目をそらし、湯気に曇る眼鏡に表情を隠す。

　今回のことはごくごく私的な事情で、同僚に話すつもりはなかったし、継続して現在の疲労困憊の原因でもあるのだ。

「ドクター、ホントに顔色がよくないです。今日はもう帰ってお休みになったら？」

　思いがけない彼女の提案に、慌てて首を横に振る。

「いえ、そういうわけには」

　たしかに今日はもう期日の迫った仕事はないが、まさかそんな私的な理由でエスケープするわけには行かない。第一、家に帰ったところで、疲労困憊の原因である友人が待ちかまえているのだ。体力の回復には逆効果だろう。

「じゃあ、仮眠室で三十分だけでも横になったら。少しはラクですヨ」

　語尾ににじんだ苦笑をどう受け止めたのか、サンディーは小鳥のように首を傾げた。頭頂部にまとめた縮毛がクルンと弾む。彼女なりに、常にオーバー・ワーク気味の同僚の体を心配してくれているのだ。

「ああ、それは魅力的な提案ですね。昼間っから恐縮ですけど、そうさせてもららおうかな」

　チャイを飲みながら、目を細める。実際、体はキツイのだ。

　もともと研究成果に対して年間報酬が支払われる研究員に、勤務時間帯の概念などは、あってないようなものだ。超過勤務手当がつくわけでもなく、恒常的に泊まり込むクレイジー・ワーカーは珍しい。

「ドクター・アカシがここしばらく不眠不休だったのはみんな知ってますから、誰も咎めやしませんヨ」

　サンディーが声高に周囲を牽制しつつ、何度も頷く。聞こえているはずの周囲は何も言わず、サンディーの不謹慎な提案を黙認してくれるつもりらしい。

　不眠不休の原因の八割方は、報告書ではなく、寮に転がり込んできた友人のせいなのだが、本当のことを白状するわけにもいかない。曖昧に頷いて、感謝の意だけを伝える。

　と、サンディーが口元に手を当てて、顔を寄せてきた。

「あのネ、ドクター。私、見ちゃったんです」

　ひそめた声で耳打ちする。

「み、見たって、何を？」

　内心ひやりとしながら、聞き返す。

　まさか、同僚には一切口にしていない今回の騒ぎの一端を、垣間見たとでも言い出すのだろうか。他人に決して見られてはならない場面が、深夜とはいえ、この研究所で繰り広げられたのだ。もし彼女が、ありえないはずだが、何らかの弾みにエレベーターでの情事を見てしまったのだとしたら。

　周囲を用心深く見回してから、サンディーが小声で続ける。

「見ちゃったんですヨ、私。昨日、地下道のオリエンタル・マーケットで、ドクター・アカシが山のように食材買い込んでいるのを」

　何だ。

　懸念していたような事項ではなく、安堵に肩を落とす。

「昨日はドクター、珍しく定時上がりでしたでしょ。どこかへお出かけでもするのかと思いきや、鼻歌混じりにお魚やらお野菜やら買い込んでるんですもの。拍子抜けしましたヨ」

「ああ、忙しくて、しばらくジャンク・フードばかりでしたからね。和食が食べたくなって」

　落とした肩を、小さくすくめ上げて見せる。

「お食事、ドクターがご自分で作るんですか？」

　興味津々に、サンディーが聞いてくる。口の重い人間からあれこれプライベートなことを聞き出すのが、年若い彼女には面白いらしい。

「ええ、作りますよ」

　愛想良く答える。おふくろの味の和食が好きで、自炊しているという事実は、他の同僚にも話したことがある。

「ウソ、ですネ」

　だがサンディーは、頑として否定した。

「あの食材の量は、絶対一人分じゃありません。私の計算に狂いはありませんヨ」

　実は彼女は、数学のエキスパートなのだ。人工石の透明度、発色、強度、生産効率を最適化するための数量計算を担当している。数字の誤差には、同僚の誰よりも厳しい目を持っているのだ。

　そのサンディーが、真顔で断言する。

「恋人、ですネ？」

　飛び出した意外な単語に、思わずカップの中にチャイを吹き出す。

「その顔は図星ですネ。この頃、ぼーっと宙を眺めていることが増えて妙だと思ったら。あの食材を料理してくれる、恋人が待っているんでしょう。ドクターったら独身寮にお住まいなのに、バレたらまずいですヨ」

　デスク脇のボックス・ティッシュを何枚も引き出して口を拭いながら、畳みかける彼女を振り返る。

「いや、あの、料理は本当に私が」

　これは純然たる事実だ。居候の友人は、料理どころか掃除も洗濯もしない。

「じゃあ、いそいそ食材を買い込んで、腕によりをかけてお料理を作ってあげたくなるような、それは可愛らしい恋人ってことですネ」

　訂正されても、頷きかねる。彼女の使う単語は、あの無神経な友人を指すにはあまりに甘く響きすぎるのだ。

「いや、本当に、決してそんな上等なものでは。宿なしで宛もなく、ふらりと迷い込んできただけで……その」

　正直に言う必要もないものを、覚えず口走ってから手で口を押さえる。

　片手では隠しきれない耳の先まで、血が上っているのがわかる。

「……何だかドクターったら、野良猫に居着かれたみたいですネ」

　やや経って、サンディーが助け船のような感想を洩らす。

「そう、そうなんです。料理もしないし、部屋を散らかすばかりで、全部私が面倒を」

　視線を泳がせながらつけ足すと、サンディーの黒い目がじっと覗き込んでくる。本当に猫か、その程度の存在と思ったのか、あるいは極度の照れ隠しと取って見逃してくれたのか。彼女の本音はわからない。

「ドクター・アカシと猫ちゃん、ネ。毛並みは何色なんです？」

「巻き毛の赤」

　反射でつい答えてしまってから、また手で口をふさぐ。

　本当は、もっとしゃべってしまいたいのかもしれない。言う必要もないし、言えるわけもないのだが、やけに口だけが軽いのだ。肉体の疲労は、そのまま表情筋の緩みにもつながっている。

　何度か瞬きをしてみても、昨夜触れた赤い巻き毛のやわらかさがまだ唇に残っている。

「もう、いいですヨ。お困りのようですから、これ以上は追及しません。でもお体は大切にしてくださいネ。目の下にクマができてます。さ、ドクター、仮眠室へどうぞ」

　とうとうサンディーは呆れたらしい。吹き出したチャイの残ったペーパー・カップを取り上げられ、仮眠室のドアを指し示される。

　促されるまま仮眠室に逃げ込んで後ろ手にドアを閉め、小さくため息をつく。

　たった一言二言サンディーに訊かれただけの響きが、甘く舌先に残っている。これから三十分の仮眠を取ったところで、まともに仕事ができそうにはない。

　それに、今日こそは出かける予定がある。

　ついでに、彼女の指摘の通り、独身寮に友人をかくまっている状況、というのも考えた方がいいのかもしれなかった。

◆

　まだ布団を出していないコタツ机に足先だけを突っ込み、座布団を二枚並べた上に、器用に体を丸めて、頭から半てんをかぶっている。はみ出した赤毛が青い畳の上に渦を巻き、毛並みだけ見ると、まるで本当に猫だ。

　宿なしになった友人が家に転がり込んでからまだ数日だが、姿を見るときの半分は、この格好で寝ている。することがないと、すぐに寝てしまうのだ。猫ではなく、人間だというのに、これだけグウグウ眠れるというのも一種の才能だろう。

　畳の端を踏む気配に、もぞりと動いて目を覚ます。

「おー、アカシ。帰ったのか」

　寝起きのどこか視線の定まらない琥珀色の瞳は、普段の山猫のような印象の強さとは、また違った愛嬌がある。庇護欲を刺激する、というのだろうか。

「これ、あなたのですよね？　カーマイン」

　膝をついて、枕元に一冊の本を置く。化粧箱入りの刺繍だ。ビロードの赤に、金糸の刺繍が施されている。不思議そうに指先で触れて、友人はがばっと跳ね起きた。

「こ、これ？」

　化粧箱から中身を乱暴に引っぱり出し、逆さまにしてページを開く。間から、ドル札が何枚か畳に落ちる。

「意外な隠し場所で、正直戸惑いましたが」

　落ちた数枚のドル札をかき集め、友人が叫ぶ。

「俺のヘソクリ！　どうやって？」

　詩集などという、イメージとはおよそかけ離れたアイテムを、友人は一般人が思いつかないような用途、すなわちヘソクリ入れに使っていたのだ。

「ええ、ちょっと」

　実は今日は、職場から不動産屋に寄って来た。

　入居希望者のふりをして、現在は空き部屋である友人の元探偵事務所を見学させてもらい、大家の隙を見て背後から殴り倒し、隠し通路からヘソクリを取り戻したのだ。わざわざ大家を殴ったのは、友人を叩き出したことへのささやかな仕返しでもある。隠し通路は元通りに塞いできたから、貧血を起こしたからという嘘で管理人室に運ばれた大家も、何が何だかわかっていないはずだ。

　ついでに、二人で暮らしても手狭にならない別の物件の案内ももらってきたのだが、そちらは後日抜き打ちで見学に連れ出すほうがいいだろう。

「うひゃ、もはやあきらめてたんだが、まさか取り戻せるとは。アカシ、サンキュー！」

　ドル札を半端に挟んだ詩集を持ったまま、友人がギュッとしがみついてくる。このストレートな感謝の表現は、猫というより甘えん坊の子供だろうか。

　が、感謝のキスを受け、勢いで畳の上に押し倒され、ネクタイを抜き取られながら舌まで突っ込まれると、もはや子供の所行ではない。慌てて突き飛ばし、コタツの対角線へ逃げ込む。

「カーマインっ、私への礼にそういうのはやめてくださいって言ってるでしょう！」

　怒鳴ると、友人は不思議そうに首を傾げた。

　これはもう、彼の悪癖というか、習性なのだ。上流階級の淑女を相手に、正統派とは言い難い探偵業を営んできた中で、感謝も打算も愛情表現も、彼の本能の中に混沌と溶け込んでしまっている。感謝を伝えるリップ・サービスも、口先だけにとどまらず、舌やら手やら、さらにその先というか根本の下半身までついてくる。

　そういうのは、欲しくはないのに。

　耳まで赤くなっているだろうことを自覚しつつ、顔を背ける。体が反応するのはどうしようもない。惚れた弱みだ。

「……こんなことをされたら、勘違いしそうになるんです。さあもう、遅いですし、夕食にしましょう」

　小声で自分自身に釘を刺して、厨房へ逃げ込む。

　体だけが欲しいわけではないこちらの気持ちを知っていて、「友人」は平然と、こういうことを仕掛けてくる。複雑な情緒を理解しようとしない残酷さは、まるで子供だ。

「フーン。じゃ、俺、シャワー入ってくるわ。昼寝で寝汗かいた」

　寝乱れた浴衣の裾を整えもせず、ずかずか廊下を歩いて行く。

「カーマイン、風呂を沸かしましょうか？」

　遠ざかる気配にほっとしつつ声をかける。結局は、つい世話を焼いてしまう、こちらの性分が悪いのか。

「いや、いい。自分でやる」

　だが友人は振り返りもせずにただ手だけを振って、風呂場に消えた。

　あの分だと、風呂に浸からずシャワーだけで出てくるかもしれない。それまでに、夕食の支度を整えておかなければ。友人にまとわりつかれながらの食事の支度は、恐ろしく効率が悪い。包丁を握っているときに、耳元に息を吹きかけられたりするのは、どうにも苦手だ。

　今は集中して、ネギを刻むのが先だろう。

　そうして出来合いの総菜を混ぜた手抜きの夕食をコタツ机に並べ終わる頃合いに、友人は髪をタオルで拭きつつ、風呂から上がってきた。予想よりは時間がかかった。感心にも自分で風呂を沸かしたのだろうか。

「お、白和え」

　手抜きの出来合い総菜の一品に、うれしそうに目を細める。地下街のオリエンタル・マーケットの白和えは、甘みの強い味付けで、すっかり友人の気に入りだ。この国では一生食べずに済ませる人もいる調理法を、赤毛の友人が気に入って、箸を使って食べる図というのは何とも微笑ましい。

　和食と熱燗を並べた食卓の向かい側に、赤い巻き毛と輝く琥珀色の瞳、ニヤリ笑いを浮かべる口元。洗い立ての藍の浴衣に袖を通し、膝を片方立てて行儀悪く座っている。

　こちらの想いも告げられなかった頃から考えれば、それだけで奇跡のように眩しい光景だ。

　それどころか、この光景は毎晩で、時折極上の笑顔がこちらを向いては、料理の味を褒めたりする。

　こうして向き合っている現状は、どうしていいかわからないくらいに幸福で。これ以上、何を望むというのだろう。

　和やかな食事を済ませて、席を立つ。手早く食事の後片づけをし、全自動の洗濯機を回しつつ、入浴の支度をする。

　一人ならば味気ない日常の反復行動だが、同じ空間のどこかに赤毛の友人が存在しているだけで、気持ちの高揚する自分が可笑しくなってくる。

　ただそれだけのことなのに。

next.