裸眼ではひどい近視で、風呂場の湯気と相まって、ほとんど何も見えなくなる。慣れた家の中で、通常不都合はないのだが。

　今日に限って、衣服を脱いで浴室に一歩踏み出した途端、足下がヌルリと滑った。

　ぼやけた視界がグルリと回転し、湯気の中に天地を見失う。風呂場のタイルに後頭部を打つかと思えば、ポフンとやわらかい感覚に沈み込んだ。

　視界の左右にせり出したやわらかいピンク色の物体は、感触から推測するにビーチ用のエア・ボートだ。随分昔に、ビンゴの景品か何かでもらった記憶がおぼろにあるが、使いもせず、捨てるのも面倒で、袋詰めのまま押入の底にしまっておいたはずだ。

　それが何故、しっかり空気の入ったふくらんだ状態で、風呂場の床なんかに転がっているのだろう。

　しかも表面には、何かヌルヌル滑るものがたっぷりまき散らしてある。偶然やものの弾みなどではなく、明らかにこれは作為的な罠だ。

「ハハッ、見事にかかったな」

　得意げな声に脱衣所を見上げると、赤毛の友人が腰に手を当てて仁王立ちしている。

「カ、カーマイン？」

　仰向けにひっくり返った間抜けな姿勢を跨ぎ越えて、友人も浴室に入ってくる。

　足下のエア・ボートを器用に避けつつ、戸を閉めたところこからすると、一緒に入るつもりなのだろうか。それにしては、浴衣を着けたままだ。

　いい加減にからげた裾から、下着ではないものが一瞬かいま見えたような気がして、無駄に心拍数が上がる。その髪と同様に、彼は下半身の毛も燃えるような赤毛で、エロティックだ。

　眼鏡をかけていないことを後悔しつつ、同時に彼の足の下から逃れようともがく。だが、もがいた手足はエア・ボートの表面をヌルヌル滑り、空回りしたまま、腰を下ろした友人の体重に押さえ込まれた。

「いったい何ですか、これは。カーマイン」

　抗議しながら、大腿部のあたりに載っている、彼の浴衣に包まれた裾の中身が気にかかる。下着と呼ぶべき布の感触はなく、ただ体温が伝わってくる。

「何って、いつものローション」

　にやりと笑って、彼は手にした瓶を傾けた。

　業務用サイズの、白いポリ容器。ラベルには「アルギン酸ナトリウム」の標記がある。コンブ等の海草に含まれるヌルミ成分で、いわゆる業務用ローションの主成分だ。研究所に出入りの薬品会社から取り寄せている。

　が、見慣れた瓶からとろりとこぼれたそれは、うっすら見慣れぬピンク色を帯びて、重く甘い芳香を放っている。

「に、今日はちょっと、ポート・ワインを垂らしてみた」

　指先をピンクの舌でぺろりと舐めて、笑ってみせる。

「ちょっ！」

　アルコール分を直に粘膜に塗り込まれるのはたまらない。なけなしの抵抗を試みたが、完全に押さえ込まれてしまっている。寝技で立ち向かうには、無謀すぎる相手だった。

「へーきへーき、本当にちょっとだし、香り付け香り付け」

　胸の真ん中に垂らして、ヌルリと塗り広げる。

「な、何をするつもりですか」

　科学者の性分で、あらゆる可能性を想定しては、実験して確かめるのが日常的な癖である。が、この友人の奇抜な発想を安易に試すほどの蛮勇はない。発想がまるで子供で、その後に及ぼす影響をまったく想定していないのだから。

「ナニって、ナニでしょ。お仕事でお疲れのところ、俺のヘソクリまで取り戻してくれたドクターに感謝を込めて、ローション・マッサージでも」

　ピンクのローションをまとった指が、情欲を誘う巧みさで皮膚の上をすべり、腋の下の敏感な部分をからかう。

「や、やめてください！」

　どうにもいけない。建前と本能と、趣味と実益と、何もかもを一緒くたにして稼いできたこのフェロモン男の悪い癖だ。友情と愛情と劣情を、取り違えて平然と笑っている。

　体をつなげたところで、この男の心は手に入らない。

　わかっていて、紳士の皮をかぶったケダモノの所業を拒むことができない。恋情の伴わない単なる行為でも楽しめてしまえる業の深さは、同じ男なのだ。

　第一、この疲労困憊した体にそんないかがわしいマッサージを受けたら、相当なダメージになること確実である。

「いつも言っているでしょう！　私相手にそういうのは……ンッ！」

　だが抗議は乱暴なキスに遮られ、器用な愛撫の指先に、肉体が気持ちとは裏腹の反応を起こす。

「……ごちゃごちゃうるせーな。何だろうとヤルこた同じだろ」

　荒々しいキスの合間に、友人がとがらせた口で抗議する。

「それともアレか、俺が単にお前をヌルヌルにして突っ込んでやりたいだけだって言えば満足か？」

　まつげの互いに触れる至近距離で卑猥なことを囁かれ、思わず赤面する。言葉そのものより、そんなことを言われて、興奮した自分が恥ずかしかったのだ。

　だが案外、そうなのかもしれない。

　彼が自分を欲してくれている。ただそれだけの事実があれば、その裏にある感情が甘い恋情であれ、肉体的な、もしくは金銭的な打算であれ、まぎれもなく彼が望むことなら、同じことなのかもしれない。

　この赤毛のケダモノはそもそも、ヒトのように愛だの恋だのを複雑に考えたことなど、生まれてこの方ないかもしれないのだ。そしてそんな奔放な存在にこそ、惹かれてやまないのではなかったか。

　いったい何を、こだわっていたのだろう。

　こうして抱き合っている現状は、どうしていいかわからないくらいに幸福で。これ以上、何を望むというのだろう。

　改めて、視線を合わせる。見下ろしてくる琥珀色の瞳は、つまらないこだわりなど瞬時に焼き尽くす熱を帯び、静止できずに目を閉じる。

　もう一度、唇を合わせる。さっきよりもやさしく、さらに深く。キスだけでも怖いほどの官能は、決して彼の罪ではないのだ。

　ローションを帯びた彼の指が、鎖骨をたどり、下方へ滑って、肋骨の凹凸を数える。それでなくともこういうことには器用な指先が、潤滑剤のなめらかさをまとい、未知の快感を伝えてくる。

　さらに下方へと降りた指が、骨盤をかすめて、足の付け根に触れた。リンパ節の上を軽く押されて、思わず吐息がうわずる。普段は触れても何ともないところだ。それが日によって、今日は疲れているせいか、特に過敏に反応してしまう。

　わずかの反応を見逃さず、同じ場所を執拗に攻められて、息を詰まらせる。決して計算ではなく、獲物に対する野生の反射だから、加減を知らないところが始末に負えない。

「ン、ふ、……ア！」

　こらえきれず、甘い喘ぎが喉を擦る。胸の突起を舌でねぶられると、もう抑えが効かない。浴室に反響する自分の声に、いっそう羞恥がこみ上げる。

「あ、ア……ん、ぁ、カーマイン、も、もう」

　首に手を回してすがると、耳たぶを噛まれた。彼が着けたままの浴衣がしっとり濡れて、火照った肌に変に冷たい。

「もう、挿れたい？」

　囁かれて、何度もうなずく。慣れないローションの感覚に、体中が熱くとろけそうになっている。地獄の業火も、ここまでは熱くないかもしれない。早く、この快楽の地獄から抜け出したい。

「まだ、早いだろ」

　だが懇願はあっさり却下されて、矛先を他へ向けられる。

　背中とエア・ボートの間にヌルリとすべり込んだ指が、肩胛骨の輪郭をなぞる。空気袋を組み合わせたエア・ボートは凹凸に富み、圧力で容易に形を変える。その隙間を、愛撫の指は自在に動き回る。

　肩胛骨から脇腹を伝った指が、尾てい骨にたどりつく。尾の退化した人類のそこは、本来何もない部分だが、何故かそこにペニスでも生えているかのように下腹に響いた。ローションを帯びたこの器用な指先は、何もない部分にも快楽を生み出すのだろうか。

　不可思議な感触に捕らわれた瞬間、アヌスにいきなり指を挿れられた。ペニスほど大きくはないが、逞しい節の形のはっきりと感じられる、男の親指が左右で二本。本来なら容易に入るはずのない異物を、潤滑剤のぬめりが一息に呑み込ませたのだ。

　ローションに混入された微量のアルコールが、粘膜に浸透して痺れるような目眩を誘う。学生時代にこっそり型取りをして、マスターベーションに使っていたこともある親指が、前立腺の裏側を探り、やさしく撫でるように、やがて追い立てるように攻め立ててくる。

「アッ、カーマイン、待って、ふ、ああァ……ン！」

　情けない声が漏れて、抑えきれなかった熱があふれ出る。脈動を刻む奔流に赤面しながら、早すぎる暴発をわびる。

「す、すみません」

　だが彼はまったく気に止めず、それどころか愛撫の指を止める気配もない。

「かまわねえよ。後でまとめて洗ってやる」

　無造作に親指を引き抜き、両脚を開いて肩に担ぐ。暴発の名残にひくつくアヌスにローションを注ぎ足し、自らのペニスにもたっぷり滴るほど注いで、突き入れる。

「ン、クッ！」

　一気に根本まで差し込まれ、脳裏に火花が散った。発散したばかりのはずの情欲が、再び鎌首をもたげる。

「力、抜けよ。歯、食いしばんな」

　間近に囁かれ、こわばっていた唇を宥めるように舐められる。口を開いて受け入れると、内部を丹念に愛撫された。体の中で、彼の鼓動が熱く疼く。挿し込まれた舌とペニスとで、二人の体はどちらが始まりともつかず溶けてつながっている。まるでウロボロスの輪のように。

　音を上げたのは、こちらが先だった。

　奥深くを貫いたまま身動きしない楔に焦れて、ねだるように腰が動き出す。このケダモノはひとたび貪り始めたが最後、やめてくれと泣いて哀願するほど責められるとわかっていて、欲望を抑えきれない。

「ン、ンン、ウ、ふ……ンう、ア……ッ！」

　口をキスで塞がれたまま、何度も繰り返し高みへ追いつめられ、突き落とされる。ケダモノのほとばしりが腹の中をいっぱいに満たすまでに、飛びかける意識の中で何度達したか覚えてもいない。

　案外、理性の効かないケダモノは、こちらのほうなのかもしれなかった。

◆

　情欲を煽るための指先ではない。たっぷりシャボンを含ませたスポンジで、情交の名残を洗い流してくれているのだ。ついさっきまでは、シャンプーで髪を泡立ててくれていた。

　友人の手は本当に器用で、全身をゆだねていても不安がない。全身が鉛のように重く、身じろぐ気力すら残っていないのが本当のところだが。

　鎖骨のくぼみや脇腹、足の付け根と、さっきまでとはまったく別の心地よさで触れてくる。抱き支えてくれている腕や胸板の感触から察するに、濡れた浴衣をさすがに脱いだようだ。直に伝わってくる彼の体温に包まれ、ついうとうとと眠りに落ちかけた途端、

「ふ、アッ！？」

　悲鳴が漏れた。中に、指を入れられている。

　指の腹が粘膜の凹凸をなぞり、奥から入り口へと導くように上下する。彼自身が注いだものを、かき出してくれているのだ。

「い、いいですよっ、そんなところ。自分で……ァ」

　慌てて逃げ出そうとしたが、体に力が入らない。それどころか、ローションと溶け合ったミルクがあふれ滴る感触に、新しい快楽が駆け抜ける。

　赤毛の友人は中指を突っ込んだまま、股間に視線を落とし、ニヤリと笑う。

「ハイハイ、次のラウンドはフトンでな」

　際限なく欲望を訴える、慎みのないペニスをなだめるように撫で上げて、赤毛のケダモノがウィンクを寄越す。

　……どうやら、今夜も眠れそうにないらしい。

　そうして赤面しながら明日の休暇の口実をなけなしの理性で考える現状は、どうしていいかわからないくらいに幸福で。これ以上、何を望むというのだろう。

　こちらから伸び上がってするキスは、ポート・ワインのとろけそうに甘い味がした。

Fin.