大秦はかつてない領土拡大のため、戦に次ぐ戦を繰り返していた時期である。戦場はいくらでもあった。

　実戦経験の豊富な班鐘の副官としての従軍だったが、出番はすぐに来た。十余名の兵を連れて斥候に出た先で、敵の一隊に出くわしたのである。

　突如林道を塞いだ敵兵。その数、およそ百。

　互いの存在に気づいてから、複雑な駆け引きはいらなかった。

　大軍が隊列を整える前に撃破すべし、ただそれだけの単純な判断で、嘉は攻撃命令を下した。短い号令をかけながら、自らも大刀・月季花を担ぎ、自軍の十倍近い敵陣の中央へと突っ込んでいく。

　主と同じく初陣だった黒皇は恐ろしく速く駆け、敵を穿つ楔の先端となった。まだ白々と新しい月季花の刃が一閃すると、血しぶきが飛ぶ。馬から転げ落ちた鎧兜を他の馬が踏みつぶす。

　林道は一瞬にして戦乱の坩堝と化した。

　斥候兵して軽装で嘉に着いてきた兵たちも、勢いにつられて敵軍へと突進する。次の者が遅れれば、敵の奥深くへと突き進んでいく嘉の背ががら空きになるのだ。とにかく続くしかない。

　敵軍のほうが、よほど驚いたことだろう。遭遇から、接触までに二呼吸と要していない。しかも狭い林道に固まった多人数である。後方では、事態の把握すら遅れたようだった。

　半丁ほど斬り伏せて、重なる隊列の最後尾の馬上の主と目が合う。

　恰幅のいい体を鎧に包み、派手な白馬、、長柄の槍になびかせた房飾り。この隊を率いる将のようである。

　嘉は狙いを、その男に定めた。黒皇が真っ直ぐに白馬を目指して脚を速める。敵将も、馬上で槍を上段に構える。

　すれ違いざま、嘉は敵の槍の穂先を眼の横にかわし、長柄を左手に掴んだ。そのまま小脇に抱え、馬脚の勢いに乗せて、柄尻を敵の鳩尾に押し込む。

　数秒こらえて、敵将の身体は馬からすっぽ抜けた。宙に浮いたその身体を、右手の月季花で薙ぎ払う。

　後は、後続の馬が踏みつぶした。

　敵陣完全に駆け抜けてから、馬首を返す。

　将を失った敵の軍は総崩れになり、四方の木立へと霧散していた。嘉のほうへ逃げて来る者もいたが、黒皇の黒々とした影を見るや、直角に曲がって木々の茂みに転げ込んで姿を消した。

　嘉はそれ以上は追いはせず、林道の真ん中に敵将から奪った槍をかざした。柄尻になびく五色の房飾りを目印に、嘉に着いて敵陣を縦断してきた兵たちが集結する。一瞬の接触でこちらに負傷者はなかったらしい。

　十余名の兵を再び並べて、嘉は帰営した。

　大将の班鐘は、斥候の暴走とも言うべき開戦報告にたいそう驚いたようだったが、敢えて何も言わなかった。

　翌日、敵陣から降伏の使者が送られて来た。

　林道での一戦で筆頭の武将を失い、戦意を喪失したという。王からの帰順の条件を申し渡し、駐屯兵を残して、本隊は引き上げた。嘉の初陣の速すぎる終息であった。

　そもそも、彼らの戦は国の存亡をかけた熾烈なものではない。部族同士の小競り合いに国家統一という理念を一方的に持ち込んだのは、大秦のほうなのだ。

　晋の弱体化で空洞化した大陸に各々勢力を広げた五胡の民、十六国。それらを再び統一し、かつて大陸を支配した漢民族のような大国を作るのが、現王・苻堅の展望である。統一された経済制度、統一された交通路、それらを基盤に行き交う豊かな物資、裕福な民の暮らし、豊かに花開く文化。苻堅の理想は高く、それゆえに険しかったが、それでも王は自ら軍を起こし、側近たちは支持した。

　当時、これほどの理念を持った男は、広大な大陸のどこにもいなかった。

　目的ある秦軍の強さに圧倒され、儀礼に則った軍使から降伏の条件を示されると、大抵の民族は従った。和睦の条件はきわめて簡素、かつ王の理念に直結するものである。通貨と轍の統一、それに兵役。いわゆる租税さえも課さない。経済制度と交通路整える役所だけを置いて、をそれぞれの民の統治はその地の民長にそのまま委ねられた。

　そうして大秦は、恐るべき速度で領土を拡大していったのである。

　燕嘉という男はまさに、そのような時代に武将として大秦に存在したのであった。

◆

　そう言って、王は嘉を重用した。

　実際、戦場での嘉は派手すぎるほどに目を引く。馬上しなやかな細身の体つきに、不釣り合いなほど巨大な大刀。兜をはねあげて、風に踊る髪、血飛沫に晒した白い美貌。

　彫像のように動かぬ表情の中で、切れ長の眼の奥だけが時折凶光を放ち、血の雨を降らせる。

　彼の愛馬・黒皇が黒い馬体を戦場に現わすだけで、周囲の空気は一変した。自軍には無謀とも呼ぶべき常軌を逸した勢いを、敵陣には無造作に薙ぎ払われる死の戦慄を。

　心理戦の要素をも含む秦軍の戦いには、まさにうってつけだった。秦は圧倒的に強い。逆らうより、和睦の合理的な条件を呑むほうがはるかにいい。誰もがそう思い知る。

　燕嘉の出た戦場は、早々に決着がついた。

　潁は、嘉の身の回りの世話をするために常に従軍したが、どの戦場にもせいぜい数日しか留まることがない。連日移動が続き、戦地に着いてしまえば数日で引き上げだ。

　嘉は従軍中も平素とほとんど変わらず穏やかな様子で、数多の敵を斬った後でも興奮の色さえ見せない。ただ帰途の馬上でだけ、わずかに表情を緩めた。

　華々しい軍功を土産に、早く沙氏の元へ帰りたいのだろう。

　そんな嘉を、沙氏もいつも同じ穏やかさで迎えた。

　周囲がどうあろうと、この夫婦には関係がないのだ。弓競べのときと同じように、まるで何事もなかったかのように、二人は日常に戻る。

　以前よりは嘉は勤勉に王府へ行くようになったが、自軍の練兵以外にはほとんど興味を示さず、出仕を怠けて沙氏と昼寝している日もある。出陣の命があったときだけが、自分の役目と決めているようだ。

　そんな日々を繰り返すうちに、嘉の軍功は積み上がり、気づけば位階を上り詰めていた。

　景和が言うにはまだ未熟な国家である大秦では、位そのものはそれほどの意味を持たない。燕家も名門であり、妻の沙氏はもとより王の親族であったから、俸給もさして増えたわけではない。

　だが短期間に国内外にその存在感を知らしめた事実というものは、肩書きそのものよりもはるかに重く周囲に受け止められた。

　大秦で第一の武将といえば、今や燕嘉である。堅実に王の元で働き続けてきた班鐘将軍は重鎮として控えているが、何かと噂にのぼるのは嘉のほうだった。弓競べの一件もそうだが、わずか十数名ので百の敵を破ったり、華々しい一騎打ちをしてみたり、やることなすことがとにかく桁外れに派手なのだ。

　しかも、もともとが文官の出とあって、政治や諜報にも明るかった。本人は興味が薄く知識をひけらかすことはないが、話題に上れば王や景和とも対等に渡り合える。

　何より嘉は、王が理想とする漢民族の制度や軍略、文化や思想にまで精通していた。燕家はもとより漢の出の細作を抱えることで王家に仕えて来たし、嘉は病弱だった幼少時から燕・沙両家に所蔵する膨大な漢の書物を読みあさっている。その知識量は、他民族への関心の薄いこの国では異例なほどで、漢に傾倒する王をもうならせた。

　まさに王の求める急所の武力と知力を兼ね備えていたのである。

　加えて、母親譲りの中性的な美貌である。噂ばかりで滅多に王府に姿を見せなかった男が、伝説的な軍功を掲げて戦地から凱旋し、それが一目見たら忘れ得ぬほどの美形と来れば、人々が騒ぐのも道理である。

　美男にも関わらず浮いた噂ひとつなく、王の親族の沙氏と睦まじい夫婦であるということも、好感を与えた。沙氏の王府での影響力が、夫を引き立てているのもまた事実なのだ。

　嘉は、時に恵まれたのである。

　そして同時に、羨望と嫉妬の的にもなった。

　出る杭の角がせめて尖らぬよう、沙氏が陰に日向に細やかな心配りをしているが、嘉の存在そのものがどうにも派手すぎる。内心面白からぬ、と思う者があっても無理はない。

　燕嘉その人は豊かな才にこそ恵まれているが、人となりとしては他人への関心がきわめて薄く無愛想、むしろ変人の部類に入るのだ。明るく社交的な沙氏や景和が傍らにいて緩衝材の役目を果たさなければ、他人と衝突する場面も少なくない。

　必然、とくに燕嘉の躍進で己の領分を侵されたと感じた者から、妬まれた。

　こと地方の守を任されている王族たちにとっては、腹立たしい対象だったに違いない。常に王の傍らにあり、戦の最前線へ赴き、武功を立てて取り立てられる。そんな嘉の武勇伝を遠い物語として聞き流すには、彼らにはまだ王府への未練がありすぎた。

　否、王・苻堅への未練と言うべきかもしれぬ。暗愚だった前王を退けて王位についた苻堅は、前王ゆかりの親族を太守として地方に遠ざけ、中央に強力な専制体制を構築した。それぞれの赴任地を守る王族には充分な俸給を与え、待遇も厚くし、次から次へと戦に駆り出されるの中央とは異なる平和な日々、不平を言う者はほとんどいない。だが逆に、高い理想を抱いて出兵を繰り返す王のために直接貢献できないことを、もどかしく感じる者もいた。荒々しい騎馬の民の血を濃く引く者ならなおさらだった。それほどに、苻堅王は慕われていた。

　苻賀という男がいる。現王の叔父に当たるが、前王の従兄弟でもあったため、南陽の守として封じられた。彼自身は前王への思い入れはほとんどなく、今ではむしろ苻堅王の信奉者であった。前王にはなかった王者の器を苻堅に見いだし、青く壮大な理想を抱く若さを微笑ましく見守った。

　中央からそう遠くない南陽から、苻賀は頻繁に王府へ訪れた。王の顔を見に来るのである。その赴任地の名から、王府では南陽公と呼ばれた。

　だが王は、南陽公が王を思うほどには、彼に関心がなかったらしい。

　前王の血縁にはもとより警戒があったし、王の理想を助ける特別な才知や武勇があるわけでもなく、南征に対する考え方が決定的に異なっていた。

　南、すなわち脆弱化して南下した漢民族の国・晋を、ゆくゆくは征して秦の統一下に置くのが王の考えであった。王は漢民族の歴史、文化、強固な国制を認めた上で、それらを統一国家の中に取り込みたいと思っているのだ。

　だが多くの者は、それを諫めた。その勢い衰えたりとは言え、漢民族の国家の重みは、北の騎馬の民ほどに軽いものではない。少なくとも今の秦の国力でひっくり返せるものではないと、口を揃えて戒める。王の信頼篤い景和でさえ、南征に関しては未だ時ではないと、頑なに首を横に振るのだ。

　結局、たまに王府を訪れては、年長の王族であることを笠に南征を思いとどまるよう説教する南陽公は、王にとってはむしろ煙たい存在であった。相次ぐ出兵に忙しい時期ならなおさらである。

　そこで、王に受け入れられない南陽公の鬱憤は、そのまま燕嘉に向いた。ちょうど王が出兵に忙しくなった頃と、燕嘉が王に重用され始めたのは同じ時期で、苻賀には嘉の存在ゆえに自分が疎まれ始めたように見えたのかもしれぬ。

　燕嘉の初陣から間もない頃、王府で南陽公と嘉がばったり出くわした。

　南陽公のほうは、弓競べの騒ぎや王府での噂から、嘉を知っていた。しかも直接の面識はこれが初めてになるのだが、そのことに気づいていなかった。

　一方の嘉は、王府への出入りを長く怠けていて、ようやく顔を出し始めた頃である。王府では馴染みの南陽公・苻賀の顔を、うかつにもまだ知らなかった。

　これは燕嘉殿、と馴れ馴れしく呼ばれ、対応に窮した。

　相手はどうも、こちらの顔を知っているようである。だがこちらには覚えがない。いったい、どこの誰なのか。そもそも他人の顔を記憶するのは苦手である。沙氏か景和でもいればうまく仲立ちしてくれるのだが、今日は練兵に顔を出しただけなので生憎と二人ともいない。

　微妙な沈黙が二人の間に落ちた。こういう間を丸く納められるほど、嘉は社交術に長けていない。しかもそうした内面の戸惑いが表情にさえ出ないのが、無愛想たるゆえんである。

　そこへ、王が通りかかった。景和も一緒である。

　助力を求めて、嘉が視線を泳がせる。その視線を受け止めたのは王で、王は開口一番に嘉を呼んだ。

　燕嘉殿、ちょうどよいところに。次の出兵のことで急ぎ相談したいのだが。

　そしてそのまま、王は嘉の腕を取って歩き出した。

　王には南陽公が見えていたが、数刻前に南征を諫められたばかりであったので、顔を合わせたくなかったのである。実際、急いでもいた。動き出した理想への実現に、王は時を急いていたのだ。

　嘉は何も言えないまま、慌ただしく王に続くほかなかった。

　結果、一行はほとんど南陽公を無視する形で、その場を去った。景和が簡単な挨拶を残しはしたものの、南陽公の耳に届いていたかどうか。

◆

　嘉のほうも当初は不幸な行き違いと思いながらも、それを寛容に取りなすほどの対人能力は持ち合わせていない。理不尽な当たりには、せいぜい無視をするくらいしか対処のしようがない。

　周囲からは、相当険悪に見えたことだろう。

　そんな折り、燕嘉率いる軍が山賊に襲われた。南陽公の領土からほど近い、山道を進軍中にである。

　険阻な隘路で、軍列は細長く伸びていたが、嘉が自ら瞬く間に斬り捨てた。被害もなく、四半刻の休止を挟んで何事もなかったように軍はまた動き出した。中央に報告をしたのは、任務を終えて帰り着いてからである。

　よからぬ噂が立った。

　南陽公の差し金ではないか。

　通常、軍は野盗などに襲われるものではない。まして、せっかく長く伸びていた軍の輸送隊ならともかく、指揮官のいる本隊が襲われたのである。少しでも知恵のある山賊ならば、まず避ける一行である。たとえ襲撃が成功したとして、得られる対価に対する危険が大きすぎるのだ。

　山賊はわずか十名ばかりで、盗賊というより刺客というほうがしっくり来るほどひそやかな動きだったという。

　人々が勘ぐるのも、無理はなかった。

　真偽のほどは、定かでない。よもや、南陽公本人に聞く者もいない。

　当の嘉は、どうでもいいようであった。そもそも、他人への関心が極端に薄いのだ。襲っては来たが瞬時に斬り捨てた山賊の素性など、気にもかけてはいまい。詮索するほうが面倒なのだ。

　出兵先での面倒や、王府で嘉の耳に入る噂などは、右から左へ抜けて行くらしい。

　そのかわりに、旅の土産などを呑気に沙氏に持ち帰る。

　戦に慣れ、戦地が遠くなるごとに、嘉は珍しい土産を沙氏のために持ち帰るようになった。美しい色の玉石、複雑な紋様の織物、西方の凝った技法の工芸品。

　沙氏は王府で噂になっているような嘉の武功については取り立てて聞き出さず、嘉の持ち帰る土産を素直に受け取った。

「あら、これは何かしら」

　嘉が無造作に袋から取り出した品物の中から、沙氏が小振りの木箱に手を伸ばす。ぱっと目を引く輝く玉石よりも、まず中身のわからない謎めいたものに興味を示すのが沙氏の常である。

　木箱は沙氏の両手に収まるほどの大きさである。幾重にも縛ってある紐をほどき、蓋を開けると、中には黄色味の強い土がぎっしり詰まっている。指先で土を掘ると、中から小さな焼き物が現われた。

　形状からすると、茶器のようだ。素朴な焼き肌。つまみ蓋と注ぎ口のついた急須のようなものが一組と、口の広い湯飲みが四組。だが問題は、その大きさだ。

「まあ、小さい」

　感嘆の声を上げ、沙氏は土を払いながら急須をつまみ上げた。実際、茶器と呼ぶにはそれはあまりに小さく、女性の手のひらのくぼみにすっぽりと収まるのだ。湯飲みには、嘉が親指の先を突っ込んだだけで、いっぱいになった。

「これはいったい、何に使うのでしょう。子供用にしても、小さすぎますわ」

　沙氏が問いかける。

「使わない。ただ飾るそうだ。通りすがりの村でもらった」

　言葉短く、嘉が答える。実用品ではないのだ。

「服従の印だそうですよ。『私たちのうつわはこんなに小さい。うつわの大きいあなた様にすべてを委ねます』という意味なのだとか」

　嘉の荷物を片づけながら、潁が補足する。部族の長がこれを捧げて嘉に面会を求めたとき、潁も傍らにいたのだ。旅程の山間にあったごく小さな村で、戦などはしていない。

「まあ」

　目を輝かせて沙氏が笑う。

「こんなに賢く従順な人たちの村にものものしい軍隊で押しかけるなんて、こちらのほうがよっぽどうつわが小さく見えてしまいますわね」

　沙氏は、こういういわく話が大好きなのだ。嘉は曖昧に笑って首を傾げる。嘉にとっては、沙氏が笑っていれば、いわくはどうでもいいらしい。

　沙氏が蓋を開けて片目で中を覗く。急須の口はちゃんと通じていて、実用には小さいが、茶を煎れるだけの機能はあるようだ。

「ねえ、旦那様。これを、差し上げたい方がいらっしゃるのですが、私から差し上げてもよろしくて？」

　顔を上げて沙氏が尋ねる。反射のように嘉が頷く。沙氏の願い出に、嘉が否やを言うことはまずない。

　沙氏は上機嫌で、茶器を木箱に戻し、元通りに土をかける。土は輸送用の緩衝材である。

「それと、そのうち旅行に行かせてくださいね。旦那様にご迷惑はかけませんから」

　だが今度は思いがけない沙氏の申し出に、嘉が即座には頷きかねる。

　旅行というほどではないが、沙氏の親類の家に遊びに行って、そのまま一泊したことは何度かある。大抵は嘉も一緒だ。それを、改まって旅行に出たいとなると近場ではなかろう。しかも、まるで一人で行くような口振りである。一人でいったいどこへ行くというのか。

　それらのことを一気に問いただせずに、嘉はただ目を瞬かせた。

「……ご旅行なら、旦那様が連れて行ってくださいますよ。どちらへ？」

　横合いから潁が口を挟む。沙氏とて、嘉の言わんとしていることはわかるはずだ。

「いいえ、一人で参りますわ。行き先は、南陽」

　沙氏の答えに、嘉が今度こそ言葉を失う。援護を求める視線を向けられても、潁も戸惑うだけだ。

「南陽なら何日もかかりませんし、爺やに馬車で連れて行ってもらいますわ」

　沙氏がきっぱりと言い放つ。

　南陽、つまり南陽公・苻賀を訪れるというのである。王府で噂になっている、南陽公と燕嘉との不和を念頭に置いてのことだろう。

　たしかに沙氏になら、二人を中和することができるかもしれない。人柄、続柄、王への影響力を並べれて考えれば、むしろ彼女が適任とも思える。彼女は燕嘉の妻で、苻賀の親族で、王の気に入りの姪なのだ。

　だが単身で、渦中の人を訪れて何ができるというのか。

「……行くなら、私が送る」

　ためらいがちに、嘉が申し出る。

　だが沙氏は自信に満ちた微笑みを浮かべたまま、否とも応とも答えなかった。

◆

　嘉は何か言いかけたが、沙氏が無事で笑っているのを見てしまえば、どうでもよくなったらしい。彼女が山のように持ち帰った南陽からの土産を見て、あの南陽公がと呆れながら苦笑する。

　嘉が戦へ出ている間、沙氏もまた彼女の戦地へ赴き、大量の戦利品を納めて戻ったのだ。

　異国土産の小さな茶器を手土産に、小者に過ぎない夫の面倒を見てくれと懐柔したのか、燕嘉を虐めれば自身の格を落とすと説教したのか、沙氏自身の王府での影響力に物を言わせると脅迫したのか、当人たちの他にはわかるまい。あるいは、どれもが正解なのかもしれぬ。南陽での滞在は三日ほどだったという。

　効果は、てきめんだったらしい。

　南陽公は以降、理不尽に燕嘉に突っかからなくなったし、王府へも以前ほどには頻繁に王府へ顔を見せなくなった。出兵続きで気の立っている王に疎まれぬ法も、沙氏が耳打ちしたらしい。

　そんな妻の労を、嘉は異国から持ち帰った翡翠の耳飾りでねぎらった。

　森と湖水の碧をそのまま吸ったような色味の翡翠は、沙氏の好きな石である。奥まで光に透けるようでいて、覗き込むとやがて碧の霧に包まれる。月明かりにかざして見るのが、沙氏はとくに好きだった。

「きれい。こんなに奥まで透き通るような翡翠は初めて見ますわ」

　夜の窓辺に身を乗り出して、沙氏が翡翠を月光にかざす。

　丸く満ち足りた月が、石を透かして手のひらにほのかに碧の影を落とす。今宵は月明かりがことさらに明るく、周囲の星が見えないほどだ。

　翡翠と沙氏とを見比べながら、嘉は手にした杯を口に運ぶ。

　木の椀の中は、甘い果実酒である。嘉はそれほどでもないが、沙氏が好きで、時々こうして二人で晩酌する。今日は満月だから、窓の側で飲みましょうと決めたのも沙氏だ。嘉はそれでいつも満足している。

「旦那様、とめてくださる？　自分では見えなくて」

　沙氏が耳飾りを嘉に渡して耳を差し出す。耳に通してある金輪に、穴を開けた翡翠を通すのだ。

　嘉は素直に受け取り、ふくよかな沙氏の耳たぶをつまんだ。無骨ではないが、それほど器用ではない手つきである。無言だが、どうも苦闘しているようだ。月明かりでは手元が暗くて見えないのとと、乱暴にして耳を傷めたり、結い上げた沙氏の髷を壊さないように気を遣っているのが気配でわかる。

　そんな嘉の様子にこっそり微笑みを浮かべながら、沙氏が反対側の耳を預ける。うなじの後れ毛が、月光に淡く透ける。

　喬に言われて水差しを運んできた潁は、声をかけられずにただ赤面して立ち尽くした。

　とにかく仲睦まじい夫婦なのだ。

　嘉が耳飾りと苦闘している間、潁はじっと気配を殺して待った。こちらに体を半分向けた嘉は視界の端に留めているだろうが、助け舟を出してくれる気配はない。

「あら、潁さん」

　両の耳に翡翠を美しく飾り終えた沙氏が、ようやく気づいて声をかける。

「あなたも一緒にいかが？　月を肴にいただくお酒は格別よ」

　言いながら、もう潁の分の果実酒を新しい椀に汲んでいる。

　潁としては夫婦の甘い雰囲気の中に居続けるのはいたたまれなかったが、沙氏も嘉もまったく気にしていない。周囲に誰がいようとも、この夫婦はこれが常態なのだ。

　置いた水差しと引き換えに渡された杯を、断りきれずに受け取る。

　一杯だけ飲んで早々に退散してしまえばいい。実は潁は、それほど酒が得意ではない。習慣的に飲み慣れないのだ。

　月に杯をかざして、沙氏と嘉と潁とで杯を口に運ぶ。

　と、一口含んだ瞬間、沙氏が口元を押さえた。指からすべり落ちた椀が床に転がる。うつむいた頬から、みるみる血の気が引いていく。

「潁」

　倒れかかる肩を支えて、嘉が潁を呼ぶ。呼ばれたところで、咄嗟のことで、潁もどうしてよいかわからない。

「ちょいと失礼」

　絶妙の呼吸で、喬が飛び込んで来た。

「奥様、こっちへ。旦那様はこちらでお待ちを」

　恐ろしく手際よく嘉の手から沙氏を連れ出し、さっと部屋を出て行く。廊下を歩く二人に、あちこちから沙氏付きの侍女が走り寄ってくる。

　どこか、予測していたような動きである。

　取り残された嘉は、困ったように潁を見た。潁もまた、困惑顔で見返すしかできない。

　たっぷり四半刻も待たされてから、ようやく喬が顔を出す。

「おめでとうございます、旦那様」

　やぶからぼうに言われて、嘉が喬に剣呑な眼差しを向ける。嘉に睨まれるくらい喬は昔から慣れたもので、微動だにしない。

「おめでたですよ、奥様」

　にんまりと目を細めて笑う。

　嘉が、ぱちぱちと目を瞬かせる。

「だから、やや子がいらっしゃるんですよ、お腹に」

　ここまで言われて、ようやく喬の言わんとしていることに潁も思い当たる。耳慣れない言葉で、なかなかつながらないのだ。

「それは、おめでとうございます」

　祝うというよりも面喰った声で潁が頭を下げる。

　それでようやく、嘉も自体が飲み込めたらしい。だが状態は変わらない。ぱちぱち瞬いていた目を見開いたまま、時を止めている。

「じゃ、奥様はもうお休みになりましたから、こっちもさっさと散会してくださいね」

　喬は伝えるべきことだけ早口にしゃべると、さっさと出て行った。

　再び取り残された嘉と潁はぼんやりと顔を見合わせて、それからすっかり温くなってしまった果実酒を一息に飲み干した。