懐胎した沙氏の体調は、あまり思わしくなかった。

　とにかくまず、食が細くなった。沙氏は本来、食欲は旺盛なほうである。少なくとも、夫の嘉よりはよっぽど食事に執着があった。通常の食事の他に、果物等の間食を習慣にしていたほどだ。

　それが、体内に異物を孕んでから、一切の食物を受け付けなくなった。煮炊きした温かい物は、湯気のにおいだけで吐き気が来る。咀嚼する必要のあるものは、口の中で噛んでいるうちにえずきはじめる。水気の多い果物等を騙し騙し流し込んでみても、すぐに吐き戻してしまう。

　見る間に、沙氏は痩せた。ふくよかだった頬は鋭角に削げ、豊かだった太股や尻の肉はごっそりと落ちた。

　食が細ると、そのまま体調の不良につながった。終始蒼い顔をして、身動きをするのもだるそうだった。眩いばかりだった笑顔もはかなく弱々しくなり、少しでも無理をすると貧血を起こす。

　半年も経てば安定するもんさ、と喬は笑っていたが、腹が膨れて目立つようになっても、沙氏の容態は回復しなかった。

　大事を取って、夜は早く朝は遅くまで休ませているうちに、いつのまにか床に就いている姿が当たり前になった。

　嘉は、心配した。

　そして沙氏の身を案ずるあまり、王府へなぞ行かなくなった。

　出陣を命じられても断わった。軍律違反で処罰するぞと王に脅されても、頑として従わない。

　嘉にとっては沙氏がすべてで、彼女が望んだから、王府へ行き、戦地へ赴き、武功を立てたのだ。王府での地位や信用を失ったところで、少しも怖くない。

　王とて沙氏の身を案ずる嘉の気持ちはわかる。王自身、頻繁に沙氏の気に入りの姪を見舞いに連日訪れているのだ。

　不安げに自分を覗き込む二人の男を並べて、沙氏は笑った。

「そんなに毎日黙りこくって顔ばかり眺められても、困ってしまいますわ。お二人とも、お忙しいのでしょう？」

　沙氏らしい陽気な軽口はしかし、床に就いたままの女から発せられているのだ。明るく陽気に響いた沙氏の声は、今は掠れて聞き取りにくい。

　嘉も王も、ますます顔を曇らせて、穴の開くほどじっと沙氏の顔を見つめるしかできない。

「はいはい、王も旦那様も邪魔ですよ。そうも辛気くさい顔で枕元に居座られたら、奥様がゆっくりできませんよ。さっさと行ってご自分の仕事をなさってください」

　沈みがちな部屋の空気を、ときどき喬が踏み込んできて蹴散らす。

　それでも王は、春蝉が見舞いのすももを食べてくれるまでは、等と言い訳し、嘉に至っては、春蝉が休む邪魔はしないからと、子供のような口答えをして動こうとしない。小さく肩をすくめて、喬は鼻息を荒くする。

　実際、嘉がいくら側にいたところで、沙氏の容態は変わらない。それどころか、沙氏に気を遣わせるのだ。ごくたまに訪れて、沙氏の気分がいいときだけ、短時間の笑い話をして帰る景和のほうが、よほどためになっていた。

　それでなくとも、沙氏には知己が多い。いちいち全部通していたら、沙氏の体力が保たない。面会が叶うのはほんの一握りの人間で、ほとんどは見舞いの品だけを預かって帰す。

　沙氏は、沙家でも王府でも外にいても常に華やかな存在であったから、人々はその不在をいっそう強く感じたに違いない。

　どうやら、沙氏殿の病は重いらしい。

　あちこちで噂になった。夫の燕嘉までもぷっつり王府に顔を出さなくなったことがまた拍車をかけた。王の見舞う頻度が極端に高いことも、噂を裏付けた。

「このままでは私はいつか、生きている内から死んだことにされてしまいそうですわ」

　面会を断わった知己から届く大仰な見舞いの文面に、沙氏がため息をつく。

「私は病気ではありませんわ。お腹に子供がいるだけ。身ごもった女性なら、程度の差はあれ、不調になったりすることもあるでしょう。心配性の叔父様と旦那様のせいで、すっかり重篤な病ということにされてしまっております」

　枕に頭をつけたままで、沙氏が王と嘉とを交互に睨み、唇を可愛らしく尖らせる。

　だがつんと尖らせた唇は、血の気がなく白茶けて、まさしく病人にしか見えない。痩せた頬には、えくぼとのかわりに頬骨に沿ったくぼみができた。

　王も嘉も何も言えず、沙氏に向けて笑みらしきものを作ってみる。

　沙氏は小さくため息をついて、二人から目をそらした。寝付いてからすっかり見飽きてしまった天蓋に視線を移す。

　杞憂に沈んだ叔父や夫の顔を見ているよりは、気が楽だと思ったのだろうか。

　仰向いて夜具に覆われた薄い身体の中心で、腹だけが不気味にぷくりと膨れている。産み月までわずかにあと一月。お腹の中の赤子は順調に、それどころか痩せた沙氏の身体に不釣り合いなほど大きく育っているようだ。

　絶妙の間合いで、ずかずかと喬が踏み込んで来る。部屋の空気が沈みすぎないよう、喬はこの頃まめに沙氏の部屋を荒らすようにしている。

「はいはい、奥様はお召し替えの時間ですよ。王と旦那様は外に出た出た」

　喬とともに踏み込んできた女たちは、手にお湯を張った桶と手ぬぐい、清潔な寝間着を抱えている。沐浴のできない沙氏の身体を清めるのだ。

　女たちが枕元に手慣れた動作で道具を広げ、怖いもの知らずの喬が王と嘉の腕を掴んで引っ立てる。

　潁は、部屋の出口で待っていた。嘉が春蝉の側を動かないと言い張った場合に宥める役割に、喬に呼ばれていたのだ。

　今日の嘉は、喬の一言でおとなしく出て来た。王も一緒である。

　無言で帰って行く王を、嘉と潁とで門まで送った。

　外へ出ると、強い風が吹きつけた。舞い上がる黄砂が視界を煙らせる。誰も一言も口を利かない。

　黙りこくったまま、去っていく王の馬に頭を垂れる。

　王はいつもよりも緩慢に馬を歩ませたが、砂塵に紛れてすぐに見えなくなった。傍らにいる主の顔さえ、漂う黄砂に輪郭が霞むのだ。

「潁」

　小さく、主が呼ぶ。強い風に飛ばされてしまいそうな小さな声だった。潁は続きを聞き漏らさぬよう、主の唇を読んで待つ。

「私は、多くを望みすぎたのか」

　王を見送るためにうつむいたまま、嘉が呟く。前後の脈絡のない、いきなりの問いだった。

　或いは、風の中に捨ててしまいたい独り言に過ぎないのか。呼びかけておきながら、潁のほうを見ようともしない。

　答えあぐねて、潁はただ首を傾ける。

「私は、春蝉の他には、何も要らぬ。何も望まぬ。地位も、名誉も、富も……子も」

　うつむいた主の唇が噛みしめられる。顎の先がかすかに震えている。

「いっそ、あの膨れた腹を割いて、春蝉の苦しみを取り除けるものなら」

　掠れるほどに押し殺され、唇を読んでいなければ聞き取れぬほど低い声だった。咄嗟には、返す言葉を探せぬほど悲痛な声だった。

　それは。

　喉までこみ上げた言葉を、潁は呑み込んだ。

　それは、無茶です。それは、かえって奥様のお身体を傷つけます。それは、たとえ奥様のお苦しみを取り除くことができるとしても、奥様がお望みになりません。それは、そんなことをしなくても、きっと奥様はお元気になられます。

　どれもが、陳腐な言い訳だった。何を言っても、目の前にある事実に触れまいとする詭弁に過ぎなかった。

　主は、そのような応えを望んではいまい。

　何も、望んではいないのだ。沙氏の明るい存在の他には、嘉は何も。

　真正面から、強い風が吹き付けてくる。舞い上がった細かな砂の粒子が頬を打ち、目をくらませる。

　それでも嘉は、その場に立ちつくしたままだ。

　痩せた身体を風の中に頼りなく揺らし、抗いがたい夕闇の訪れにじっと耐えている。他人の慰めなど欲しない横顔は、潁の手の届くところにあるはずなのに、黄砂に紛れてひどく遠い。

　潁は、せめて自らの背で風からかばうように、主の正面に立った。少年時代と変わらず華奢な嘉の身体は、すっぽりと潁の陰に収まるのだ。

　それでも、子供の頃のように、潁の腕に身を投げ出してくることは、もうない。

　そうして主従は長い間、風の中にただ向かい合って立っていた。

◆

　赤黒い嬰児に幾重にも巻き付いた臍の緒を、喬がわあわあ泣きながらほどき、口に息を吹き込んだが、時既に遅かったらしい。

　嬰児はそのまま、小さな骸になった。

　沙氏は、寝たきりの床の上で、死んだ我が子のためにさめざめと泣いた。

　普段からろくにものも食べず、一昼夜の陣痛に苦しんだ後である。沙氏の喉からは苦しげな呼吸音が漏れるだけで、声もない。落ちくぼんだ眼からあふれた涙が、浮いた頬骨を伝い、音もなく夜具にしみた。

　その手を握りしめて、泣くな、と嘉が懇願する。

　泣けば、それだけ心身を消耗する。沙氏にはもう、死んだ子のために涙を流す体力さえ、残ってはいないはずなのだ。

　だが沙氏は、天井を見上げたまま、声もなく涙を流し続けた。それが唯一の弔いであり、また脆弱な自分の肉体への罰ででもあるかのように。

　いつも明るく聡明だった沙氏の精神は、長い闘病生活の中でとうに失われていたのかもしれない。

　そうして二日後、沙氏の肉体も力尽きた。

　嘉に両手を握られたまま、泣き疲れた子供が寝入るように、沙氏は眼を閉じて、それきり目覚めなかった。

　病みやつれた頬と、涙に腫れ上がった目元を除けば、死に顔はむしろ穏やかに見えた。

　家中の者が、沙氏の死を悼んで泣いた。

　侍女も、台所女も、御者も、庭師も、馬番も心底から泣いた。沙氏は、誰からも愛されていた。家は、夫婦のものというより沙氏のものだった。

　数日の間泊まり込んでいた沙氏の両親も、ただ泣き崩れた。王府で知らせを聞いた王は、地を叩いて慟哭したという。景和や、王府の主だった者たちも皆泣いた。

　沙氏の死の床から広がる悲しみは、人づてに国の隅々まで覆い尽くすかに思われた。

　その中心にあって、嘉だけが、涙を流さなかった。

　嘉は、冷たくなった沙氏の手を握りしめたまま、凍りついたようにぴくりとも動かなかった。

　切れ長の眼を張り裂けんばかりに見開き、瞬きも忘れて、白く青ざめていく沙氏の顔を穴の開くほど見つめていた。医師が沙氏の脈を取り、臨終を告げても、握りしめた沙氏の手を離そうともしない。

　誰も何も、言えなかった。言ったところで、耳になど入らないだろう。

　潁がそっと近寄って、嘉の手を取る。

　沙氏の腕を食い込むほど握りしめた嘉の指先は、急速に冷えゆく死人のそれより、よほど冷たい。

　温めるように潁が両手で包むと、脱力してほどけた。そのまま、身体ごと沙氏から引き剥がす。

　無防備に潁に預けてくる主の身体は、糸の切れた人形のようにずしりと重く、命あるものとは思えぬほど手応えがない。白い顔の中に目は大きく見開かれたままで、ぼんやり沙氏を見つめている。

「潁さん。奥様の支度をするから、旦那様はお部屋へ」

　しわの中に涙をためながら、気丈に喬が言い放つ。

　女たちが、手に絹を捧げ、湯を張った水盤を運び込む。黄泉への旅路に出るために、硬直の始まる前に顔を整え、身体を拭い清めるのだ。

　沙氏の魂はもう、ここにはない。残された生者のためだけの儀式が始まろうとしている。

　潁は、女たちに一礼して背を向けた。

　腕の中に抱えた主の身体は、いくら力を込めても腕をすり抜けてしまいそうなほどに、頼りなく細かった。

◆

　王の手配で、棺の前に巨大な花道が用意された。国中から弔問の客が詰めかけて、長い長い列を作った。

　沿道には白い花と朱い篝火、上空に昇る悲しみの嗚咽。葬儀は悲しみに満ちていたが、大勢で集まって騒ぐことが好きだった沙氏に相応しく、どこか賑やかでもあった。

　潁や喬、使用人たちは葬儀の手配に忙殺された。

　ことさらに盛大な儀式を行なうのは、儀式に費やす諸々の手順で、故人を失った悲しみを紛らわす意味があるのかもしれない。形式をひとつずつ踏んで、沙氏の死を動かぬ事実に仕立てて行く。やがて薄れる、過去の歴史に並べて行く。

　だが嘉は、そうした生者たちの儀式に参加しなかった。

　喪主でありながら、ただ棺の傍らに座し、弔問の長い列には目もくれず、瞬きもせず、身じろぎもせず、花に囲まれた沙氏の顔をただ見つめている。嘉は、式の始まる早朝、そこに置かれたから、そうしているだけなのだ。

　儀式が盛大に長く続くほど、喪主は現世から浮いて見えた。弔問客が一人、また一人と、沙氏に別れを告げる度、棺の傍らの男はその場に取り残され、逆に彼岸へと遠のいて行く。

　燕嘉殿まで、あのままはかなくなってしまいそうな。

　うっかりと口をすべらせて、景和が眉を曇らせる。

　同じことを懸念していた使用人たちが一斉に目を伏せる。少々軽すぎる景和の口を人差し指で押さえる沙氏は、もういないのだ。

　嘉は目を開いたまま、周囲の雑音などまるで耳に入らないように、また現世の景色など目に映らないように、棺の中の沙氏を見つめている。

　棺からあふれた葬列の花が、死者と生者とを白々と照らした。