噛まれると、一瞬驚いたように噛まれた箇所を覗きこんだが、後はむしろ面白そうに却って腕を突きつけてくる。

　口をひらいて放してやるしかなかった。

　青白味を帯びた確かな歯の跡へ、みるみる血液の朱がさしてゆく。その様を、まぢかの燭のもとに二人は額を寄せるように見た。卓上に童の後頭部が載せられ、小さな頭を木の板へ押しつけるように腕が突き出されている。

　両の糸切り歯の二つの跡だけがいつまでも白い皮膚に鮮やかだ。燕嘉にとってみれば意外なほどに小さな幅である。つくづくと眺めて、溜め息をもらす。

「小さな歯だ」

　やにわに袂から少年の脇腹に触れていた左手を抜き出し、両の手で顎の蝶番に力をかける。華奢な顎はさしたる抵抗もなく開くより他に術がない。

　口腔は闇であったが、灯かりの下へ向けると蛍石のように半透明の小さな歯がわずかに反射する。親指を差しこむと糸切り歯に触れ、あたった爪がかちりと鳴った。

　その音に、眼前の秀麗な眉が残忍につりあがる。そうした表情を一瞬でも含むことを、本人は知るまい。またそうした一面を人に見られることをも許さないであろう。

　童はすでに目を閉じていた。くちびるが触れやすいように、力なく仰むいて。

　脊髄を灼かれるような、感覚がある。苦痛も快楽も具体的なものはなにひとつないのに、人外の美貌の幽鬼のくちづけはいつでも彼を何か焦躁の淵へ追いつめる。目には見えない感情の絶頂にいて、燃えさかる炎の沼の底のない淵へ陥とされまいと必死にあがくのだ。

　彼はたまらず自ら帯を解いてしまう。からみつく衣のなかでもどかしく身動く半裸体を好むのは燕嘉であったが、夜ごとの指先に従ううちに童のからだがすっかり覚えてしまった反射でもあった。

　今では燕嘉が望むからなのか、自ら衣の中でもがき白い四肢を闇にさらすことを自虐的に望んでいるからなのか、それとも衣越しに触れる肌の熱をもどかしく感じるからのか、彼自身わからなくなっている。

　舌を搦めているうちに、自分でも気づかないうちにすっかりむきだしになっている下肢の内側へ細い指が這いこんでくる。自分とは別の生き物のようにからだが過敏にふるえ、危うく崩れて卓からはずれた肩を抱き込まれて支えられる。

　燭の灯は未だ消されていない。灯が眩しく滲む。

　この分では、今宵はまずは自分は灯に照らされて達せられるのだろう。

　痴態を眩むような灯の下にさらさねばならぬのだ。悔しさに滲んだ涙がこぼれて胸へ落ちた。すぐにその上を細い指がかきまわす。

　吸われながら、切れ切れに声が洩れる。下腹がはるか遠くにあるような錯覚に捕らわれる。

　ようやく、口腔を開放される。外へ放たれる吐息が自分のものではないように冴えた外気を打つのが耳に聞こえてきた。

　燕嘉の瞳はじっとこちらを見ている。冷水を浴びせるような冷酷な光は、却って脳裏を熱く焦がす刺激となる。

　……燕嘉は、人の乱れる姿を眺めるのが好きなのだ。くちびるを離したのも、童の表情を見下ろすためだろう。彼はそれを知っていて、屈辱にいっそう全身が熱くなるのを感じた。

　不意に視界が壁面の高いところから天井へと移動した。嘉が、小さな肢体を床に横たえたのであった。

　左肩に若芽のような匂いのする右足を膝の裏側から手を添えて抱えあげ、上体を屈めて、衣とからあうみだらな姿態を眺め下ろしている。恥辱に瞳をいからせて見上げることすらも、もはや反射であった。

　強い力で握りこまれ、のけ反った。弓型に反った背は床を離れ、肩と後頭部の頂に近いところが上半身を支える。自由な左脚が半狂乱のうちに折りまげられた。吐息が乱れ嗚咽がまじるのを制御する術もなかった。

　狂態は彼の意志ではない。燕嘉の意志によって彼の全身が操られるのであった。

　そり返って闇に悶える白い喉に、燕嘉は触れることさえしなかった。じっと眺め下ろすのみ。冷酷な、しかし、この上なく美しい無表情であった。

　灯の下で、少年は果てた。

　果てる刹那に自分の口を手の甲でふさいだが、達した後もなおその手を退けなかった。嘉が強引にはがそうとすると、白い前歯がその皮をくわえて離さない。

　寝台に運ばれ、珍しく優しい仕種で前髪を梳かれて、遠のいていた意識が戻り始める頃に、ようやくその手を離す。

　青痣に血が滲んでいるのを燕嘉のくちびるが吸った。手を取られながら、童は未だに燭を点したままの燕嘉を恨めしげに見上げ、やがて手の甲のわずかに滲みるような感覚に焦れてくちびるを噛んだ。

　いい加減に焦れて舌打ちを洩らしたところで、燕嘉が金属の覆いをかぶせて灯を消した。

　いつになくやわらかく耳朶のはしを噛まれる。軽い痛みに歯を強く噛み合せて耐え、帯すらも解いていない燕嘉の肩へ衣越しに爪を立てた。

　彼は知らなかったが、閨房で手の甲を噛むのは燕嘉の亡き妻・沙氏の癖であった。

　明け方灯かりに目を覚ますと手首が縛りつけられていた。

　今さら不可解ではある。すでにさほど抵抗しなくなったし、ことに昨夜は燕嘉の扱いが丁寧だったせいもあるが、きわめて従順であった。自分を縛らねばならない必要はないはずだ、と少年は訝った。

　或いは、燕嘉の遊戯の一つでもあるかもしれない。

　その燕嘉は、傍らに眠ってはいなかった。

　窓の外はまだ闇夜で、けだるく温まった体と幽かに露を含んだ風のぬるみがかろうじて鶏鳴の近いことを思わせる。目を閉じると、静寂がゆるく流れてゆく。

　ふと嗅ぎなれぬ幽かな芳香が漂っているのに気がついた。

　枕許の闇にぼんやりと白いものが見える。闇に透けるような白い花弁の花である。一抱えほどのうちに、灯にむけてあやしく花弁を開いているものもあれば、摘み取られてすでにしぼんでいるものもある。

　窮屈な身をひねって見慣れぬその花に顔を近づける。

　くらくらと目眩を誘うような幽かな香りであった。

　そこへ、燕嘉がどこからか現れた。影のようなしなやかさで寝台に乗りかかり、少年の体を仰むけに戻す。

　そのまま腹の上へ座り込んでしまったが、不思議と息苦しくはなかった。だが、むろん手首を縛られたままであるし、身動きは取れなくなった。眉をきつく寄せて燕嘉を見上げる。

　燕嘉の指先にあるものが燭の揺らめきに光った。細い金属の針である。

　ぞっとして、声を上げかけるのに、燕嘉の冷えたくちびるが重ねられた。

　口移しに白い花の香に似た乳液が流しこまれる。熱を帯びた味覚にはつめたく、しかし何の味もない。

　くちびるが離れた瞬間、くらりと軽い目眩があって筋肉が心地好く弛緩した。いったん弛緩した筋肉はけだるさを伴って重く沈むようであった。

　燕嘉が針を灯の中に炙るのをぼんやりと眺めながら、動けずにいるほかなかった。

「動くな」

　燕嘉の言葉がひどくゆっくりと耳朶に入りこみ、馴染の薄い語は意味を成す前に、拒みがたい惑溺の音として脳裏に消える。

　熱せられた針が少年の右の耳朶のふくらみに差しこまれた。

　一瞬の痛覚が意識を呼び覚ました。

　反射的に退けようとした顔をそれより早く嘉の細い指が顎を押さえて固定する。白い花の香のせいで、感覚が痺れ、反応が鈍くなっているようであった。

「……っ」

　抗う間もなく、引き抜かれた針はもう一方の耳朶を刺し貫いている。痛みは鈍く、比較的やさしく扱われていたが、それでも美しい無表情を前にしては身の凍る思いであった。

　動かぬ身をあきらめ、せめて目を閉じて恐怖から遠ざかろうとした。

　だから、嘉の細い指が耳朶に差しこんだものの光を見なかった。硬い金属の感触だけが恐ろしかった。

「もう済んだ。まだ痛むか」

　いたわるような声に驚いて目を開いたが、燭に浮かぶ白貌は常と変わらず冷たく美しく、それだけに神性の恐ろしさも伴っている。耳にあたる硬い感触が嫌悪感をもたらし、体は意識に拘らずますますふるえた。

　そのゆがんだ青ざめた表情の上に、嘉は白い花を無造作に散らした。幽かな香りがふたたび目眩を誘う。

　少年は小さく息をつくと、意識の遠ざかるに身を任せる。

　だが意識は去りがたく夢見のけだるさに陥ちこんでゆく。夢のなかで現と錯覚するときのように、現にいて夢と錯覚した。

　気がつけば、手首は解かれている。

　うつ伏せに動かぬ体を寝台に載せ、ゆるやかな調子で細い指がしきりにその大腿部を撫ぜている。ゆっくりと首をよじって振り返り、その指先の主を確認する。

　燕嘉は童の臀部の双丘の間へひたりと顔をうずめていた。伏せられた睫はしばらく動く気配がなかったが、やがて少年の視線を見上げるように開かれた。睫に覆われた切れ長の目を移動する瞳が光の加減で青く見える。

　鼻面をうずめたままで、静かに呼吸している。かすかな空気の流れでそれが感じられた。

　よくも平気なものだ。嫌悪はないのだろうか。

　あきれてしまう。だが、鼻腔を満たす涼やかな花のくらくらするような芳香に惑わされながら、或いは、そんなものなのかもしれないと思ってもみた。白い花が視界を覆ってほんのり明るい。

　痺れたような感覚のなかでやがて彼はやさしく呼ばれるのを聞いた。

「翡」

　それはあきらかに彼の名ではなかったが、何故だか自分を呼んでいるのにちがいないと思える心地好い響きであった。

　滅多になく掠れ、玉をこすり合わせるような幽かに響く嘉の声音が、夢の底までも染み入るように聞こえていた。触れるくちびるはかわいていた。