まだ体がだるく、もう少しまどろんでいたかったのだが、潁がいささか気色ばんで自分を見下ろしているのに興を覚え、素直に身を起こした。

　潁は普段から気持ちの悪いほどに物静かなたちで、翡は潁の怒りの表情を見たことがなかった。いつか自分に食事を強制したときでさえ、冷淡な言葉とは裏腹にひどく沈着な態度でむしろ和らいだ顔をしていた。

　怒りの表情を持っていないのではないかと、思っていた。

　傍若無人な燕嘉が取るどんな行動にも、水面のように穏やかな微笑か、或いは燕嘉によく似た無表情で、まるで感情がないようにふるまう。翡と同じ漢人でありながら、人の嘉の下僕として歯がゆいほどに従順で、決して逆らおうとはしない。嘉の影のように足音をひそめ気配すら殺して仕えている。

　同じ漢人でありながら、翡の誇りを微塵もわからなかった畜生であった。

　翡は何かにつけて潁を嫌っていた。その長身も、静かすぎる瞳も、隙のない流れるような身ごなしも、翡とは著しく異なっていていちいち神経に触れるのだ。また、燕嘉に心底服従しきっているその性根は、理由もわからず憎かった。

　その潁が、心なしか動揺している様子なのである。表情はさほど変わりがないが、瞳がわずかに熱を帯びているように見えるのだ。

　翡は起き上がって、敷布の上に胡座をかいた。潁は午前に寝台の敷布を取り替えにくるのである。ことに翡が燕嘉の御寝に仕えるようになってからは一日も欠かせなくなった。寝巻の裾が乱れて細い下肢がむきだしになったが、それも潁を乱す計算のうちであった。

「…そこを退いてくれ」

潁は漢語で静かに言った。しかし低い声であった。

　なにかに動揺しているのは確かだ。それを聞き出そうと、翡はさらに挑発した。嘲るような笑みを浮かべながらゆっくりと脚を組み直し、腕をのばして大きくのびをしたのである。

　すそが乱れて裸体が白日の下に所々覗く。粉を吹いたような、真っ白な伸びざかりの肌に、うっすらとした痣や歯形が散らされている。言うまでもなく燕嘉がつけたものである。

　潁が、燕嘉が翡を抱いて眠るのをあまり好もしく思っていないことを、翡は知っていた。

　それが翡に対する同情からくるものか、そこまではわからなかったが、嫉妬に似た感情も確かにあるらしいことを薄々感じ取っている。

　だから、煽ってやろうとしたのだ。

　だが潁は存外に表情を変えなかった。ただじっと、無表情に翡の目を見つめるのである。その目はどこかしら燕嘉の目に似ていた。或いは、黒目が大きい分、燕嘉よりも吸いこまれそうな錯覚に陥りやすい。

　翡はぞっと背筋が寒くなるのを覚え、目をそらせた。

　舌打ちして、寝台を飛び降りる。

　潁は黙って部屋を出ていった。

　あれは、絶対なにかに怒っているにちがいない、翡はその背を見送りつつもう一度舌打ちした。

　夕方、翡は湯をとらされる。

　燕嘉の部屋を一歩でも出るときは常に潁に付き添われていたから、このときも潁は香のたちこめる浴室の入口に立ってじっと翡の挙動に目を注いでいる。

　ごく初期のうちは嫌がる翡を無理やり潁が洗ったものだが、潁とて好きでそれをやっているわけではなかったし、翡もまた潁に触れられるのをひどく嫌がるようになったので、このような形となったのであった。

　たらいに湯を張って、翡はふと水面に映った自分の耳に何か光るのを見て、手をやった。

　金属の輪に澄んだ緑色の玉の小さな欠片がさがっている。形に見覚えがあった。……嘉が、そっくり同じ物をしていた。

　光を透かすとも、吸いこむともつかないような不思議な石で、月明かりの下には沈黙してしまうが、何かのはずみで光ることがある。

　その燕嘉の肩越しの幽かな光に翡は何度も見惚れていた。そして驚嘆すべきことに、石そのものは闇に沈みこんでしまっても、どこから集めるものか、どこを透かすのか、あたりの幽かな光を吸収して落とす影は鮮やかに輝くかわせみ色であった。

　かわせみを、翡翠と呼ぶ。その不思議に美しい石が先であるのか、翡翠の羽の色が先に由来するのか、その石も翡翠（ひすい）といった。

　燕嘉はその石をいつでも肌身離さずつけている。燕嘉にはどちらかと言えば、燃えるような色ながら冷たく冴えている、彼の名刀「月季花」の柄尻を飾っている紅石のほうが相応しく見える。

　だが燕嘉がその冷たさには不似合いなほどのやさしくやわらかい色をしたその石を、特別な感情のもとに愛惜しているらしいことは翡も感じていた。

　それとまったく同じものを、嘉は翡の耳に与えたのだ。

　そればかりか、彼に「翡」と命名した。翡翠は漢音であったから、翡にもその響きの由来はたどることができる。

　背中にちくりと視線を感じて振り返ると、潁がいつもと変わらない様子で見ていた。

　水面のような無表情の、しかし目は正直であった。

　翡はその瞳の深さからわずかな感情の揺れを敏感に感じ取り、唇をゆがめて笑った。視線が耳飾りに注がれていることは明らかだった。よほどの由来のある石なのだろう。さしもの潁が、あのとうりだ。

　あいつめ。妬いている。あれほど燕嘉に惚れこんでいる奴だ。

　翡は頭から湯をかぶった。耳飾りの先から水滴がぽたぽたと垂れた。

　翡は早死にした嘉の妻、沙氏のことを知らない。

　館の誰とも口を聞こうとしなかったし、第一族の言葉がよく聞き取れなかった。聞き取ろうともしなかった。

　ただ自分を抱きながら嘉がたまに紡ぎだす睦言を、燕嘉は閨房では滅多に言葉を発さなかったが、聞くだけであった。

　翡が聞き取るのは、ただ「翡」という掠れたような響きばかりである。

　その響きにどのような感情が込められているのか、記憶が背景にあるのか、一度放たれてしまうとそれはもう音のもたらす結果でしかなくなる。

　むやみに身体を熱くするような蠱惑と、哀しいほどに切ないいたわりだけが、翡の感覚に波紋を残し、やがてそれらはかき消されてゆく。

　くちびるが触れるくらいに近づけて、その名を呼ばれるのが翡は好きであった。恐ろしいばかりの燕嘉でさえも、その冷たい瞳が視界からはずれるせいか、このときにはすがりついてくるような頼りなさがある。

　けれどそれは一瞬だけだ。

　その後決まって石ごと翡の耳をきつく噛むのである。薄い肉が半分噛みちぎられてしまいそうに熱く痛む。そうなると、燕嘉はもう恐ろしいのであった。

　最低限生命の安全を維持するために翡は抵抗せねばならなくなる。あまり昂らせない程度に、殺されない程度に。

　潁は、燕嘉が「翡」の音にこめる感情の背景を知っているようであった。

　燕嘉がその名を呼ぶ度に、刹那瞳が遠のく。心の奥底では少なからず動揺しているのだろう。翡は低い位置からじっとそんな潁の様子を面白そうに観察していた。

　よほど大切な石なのだろう。それも、潁と嘉の信頼に関わるような。

　翡の臆測はとおからずであったが、ただ一点では大きく読み違えていた。

　燕嘉が翡に石を与えたことは、燕嘉が潁に与えてきた千億の想いには、はるかに及ばない出来事である。ただ潁は、その石の背後にあるほかの何者かのために心を痛め、動揺しているだけなのだ。

　ある日翡は姿をくらました。

　幼少に忍びの技を仕込まれた潁の目を逃れるのだから、容易ではない。だが逆に、その技は盲点ともなりえた。子供だましの手は通用しなくとも、子供そのものの策には陥りやすい。

　屋敷の隅の、大きな空甕の中へ入りこんで一眠りすることにした。

　小さな翡なら楽に身体を隠せる。手足を屈めて丸くなると、程よい球面が背にあたった。なかなか居心地がいい。

「なに、あんた。何してるの」

卑女の一人が見つけて驚いて覗き込んだが、子供らしい笑みを浮かべて、

「隠れんぼ」

の仕種をすると、笑って行ってしまった。

　子供の悪戯である。

　さすがの潁もそこまでは気がまわらなかった。生真面目なたちである。外へ逃げずに、潁を困らせるために隠れんぼをするなどとは思いつきもしなかったのである。

　夕闇が濃くなって、このあたりは沼沢が多くて危険だからと、潁は屋敷の外へ出ていった。

　翡は甕を抜け出して嘉の部屋へ戻り、何食わぬ顔をして寝台の傍らの床に転がった。窓から月光が落ちるちょうどの位置である。

　間もなく蹄の音がして、嘉が帰ったらしいことが知れた。

　今日はどうも機嫌が悪いようだ……。

　いつになく甲高い嘉の声を耳にして、翡は眉をひそめた。

　機嫌が悪いと、夜にひどく手荒くなる。無理な体勢ばかり強いるのである。

　こんなことならいっそのこと、本当に逃げ出してしまえばよかった。翡は溜め息をついたが、本気で後悔はしていない。逃げたところで、すぐに潁か、夜目の効く黒皇か、結局は燕嘉に捕まってしまう。

　燕嘉にはこの世に不可能なことなどないにちがいない。それならばせいぜい大人しくして、折檻されぬようにしたほうがよほど賢いというものだ。

　今の状態も、やりようと気の持ちようによってはそう悪くもない。

　満足な食事と、決して寝心地がよいとはいえないが、屋根の下の寝床がある。潁に言わせれば自分を「所有している」主である燕嘉にも最近は慣れ、好意的な感情がよぎることさえある。

　とりあえずは、今の状態を乗り切ることが先決であった。

　ほどなく燕嘉は現れた。

　潁がいないものだから燭を点され忘れた寝室の闇に、透きとおるような冷たい人影が立ちはだかる。美貌はどこか神経質にしかめられいよいよ魔性のように浮かび、細いばかりの肩はヒステリックに頼りなげだ。

　感情をなくした幽鬼の如く、あざやかな刃物で切り裂いたような瞳に金属性の冷酷な光を宿し、一目で気の遠くなるような異質の美しさである。

　狂気に近い気が肌に突き刺さるほど感じられる。

　翡は竦み上がり、今宵こそ殺されると我知らず総毛立った。

「翡」

呼びかけた声にいつものやさしさはなかった。

「立て。こちらへ来い」

身振りで、何を言わんとしているのかわかったが、翡は金縛りにあったように動けない。

「翡」

　二度目の呼び掛けに弾かれたように立ち上がり、震える足を引きずるように魔性の神に近づいて行く。

　怒らせてはいけない。焦らせるのは良策ではあるまい。翡は必死に恐怖を降り払おうとした。やがてこの恐怖がそのまま、異常な熱さに反転するのはわかっている。心境を早く変化させねばならない。

　いきなり嘉の腕がのびて翡の小さな身体を鷲掴みにした。

　驚愕と、恐れと、痛みが走る。強い力で、顎を噛まれる。帯を解きもせずに裾をひろげられる。差し入れられた細い指が思わず呻きが洩れるほどの痛みを伴って尻と腿の肉に喰いこんだ。

　軽がると抱え上げられると千尺も地から離されたように感じられた。

　けれどようやく、自らに焚き染められた香の匂いに、白い花を嗅がされたときのように感覚がけだるく変化しはじめていた。熱の塊が下腹部から音もなくふきあげて全身がこだましはじめている。

　我を失ったふりをして腕を燕嘉の首へ巻きつけた。本当に半狂乱にならねば今宵は生きていられそうにない。

　それにしても、何故今宵はこんなにも燕嘉の心が乱れているのであろうか。

　燕嘉は器用にも立ったままである。その裾の内へ、震えの止まらぬ腰が導かれてゆく。嫌悪が背を走ったが、どうしようもなかった。

　突然、耳元に感じた視線に目をやると、潁が入口に立っていた。燕嘉は気づいていないらしい。どうにも動き出せずにいるらしい潁に、翡は嘲笑を浮かべた。

　よく、見ているがいい。

　翡は上へ逃れるように腕にかけていた体重を下半身に移した。肉の裂ける激痛が逆にここちよい熱さをもたらす…。

　振り返ると、すでに潁の姿はなかった。

　ふいにやさしく、燕嘉が翡を抱き直した。そのまま寝台へ運ばれる。いつの間にか表情から病的な険がとれている。翡の裾を整えるように軽くひき、自らも衣を整える。

　呆気に取られて燕嘉を見上げていると、ついと立って寝台を離れて行ってしまう。

　入口のところまで行って、子どもがよくするように肩を竦めながら心持ち踵を浮かせて、そっと廊下のほうを覗き見る。

　燕嘉には不似合いな、しかし愛おしくなるような仕種であった。

　闇にぼんやり見える後ろ姿はいつもよりもさらに華奢で、小さく、別人のように見える。

　再び戻ってきた嘉はおだやかと見える表情すら浮かべていた。

　安心したように、翡の傍らに横になる。そして後は手持ち無沙汰を紛らわすように翡の襟元から指を差し入れて、肌理の細かい肌の感触を確かめつつ、弄り出すのであった。

　翡は気味悪くもあったが、むやみに熱くなった肌を無遠慮にこすられるので、目を閉じて耐えながら、わずかに開いた口で苦しげに息をした。燕嘉の突然の豹変にからだがついてゆけないのだ。

「翡」

　声は掠れて、いつもの不可思議な魅惑といつくしみに満ちている。

　一体、この変化は何ゆえであろう？

　考えるまでもなく、翡は答えを見ていた。潁である。

　いつものように帰ったとき、出迎えの潁がいなかったので、機嫌を損ねたのだ。いつもは当然というように冷淡に潁を扱っているにも拘らず、いなければひどく傷つくらしかった。

　燕嘉にとって、潁は当然すぎる存在なのであろう。己の、一部なのだ。

　翡翠の耳飾りなどその比ではない。

　潁の姿が見えないだけで嘉の精神は不安になる。気を乱し、感情を鋭くし、魔性にとり憑かれる。だが、潁の姿を見るや、たとえそれが気配に過ぎずとも、落ち着くようであった。

　……馬鹿馬鹿しい。親にはぐれた子のような。

　翡はこみ上げる怒りにからだばかりでなく脳裏までも熱くなっていた。ただ胸にだけは、冷たい炎にやけ爛れたような屈辱感がある。

　あいつめ。

　指先で触れるばかりで少しも翡の焦躁には気づかない麗人の仕打ちに耐えながら、翡は下唇を噛んだ。

　やはりどこにも自分の居場所は用意されてはないのだ。すぐにでもこの窮屈な館を抜け出て行かねばならぬ。

　唇が裂けて、生温い血の味が舌に触れる。

　窓から煌々と蒼光を差しこんでいた半月が不意にかき寄せられた雲に覆われ、寝台の二人が闇に溶けた刹那、翡翠が幽かに残像を残して仄めいた。