やっぱりダメだった。落ちたのだ。私は茫然と立ちすくむ。

　前と後ろの番号があって、私の番号だけがきれいに抜けている。最初からそんな気はしていた。予感が当たって、気が抜けただけだ。

　ほとんど眠れずに迎えた受験の朝は、三十八度の熱があった。ぐるぐる回る目で読んだ英語の長文は、何の話だったかも覚えていない。手のひらがやたらと汗ばんで、鉛筆を何度も握り直した。帰宅する頃には、三十七度まで熱は引いていたのだけれども。

　小さい頃から、極度の上がり症で、ここ一番と言うところで決まって失敗する。本当はちゃんとできるのにね、という慰めとも嫌味ともつかない言葉にも慣れている。今回もパいつものターンだ。

　ただ今回は、高校受験という、失敗するにはあまりに重要な場面だっただけで。

　一緒に受験した尚ちゃんと真紀ちゃんと、一緒に来なくて良かった。用事があるからと嘘をついて、わざと時間を遅らせて来た。二人はもう、合格証書を受け取って帰ったのだろうか。

　掲示板を見るために集まった人の波はもうだいぶ引きかけている。

　あまり長いこと一人で突っ立っていると、あの子は落ちたのだと指を差されそうで、私は逃げるようにその場を離れた。

　発表を見たら、すぐにお母さんに電話をする約束をしている。お母さんは、私が尚ちゃんと真紀ちゃんと一緒だと思っている。

　でも見渡してみたところで、近くに公衆電話がない。校舎の中に入ればあるかもしれないが、合格証書を渡す窓口のすぐ横から落ちた連絡をするなんていやだ。

　思うより先に、私の足は、まっすぐ学校の外へと向かっている。

　早くこの学校の敷地を抜け出してしまいたい。私が春から通うはずだった、尚ちゃんや真紀ちゃんは合格した、この学校。校舎は白くて、校庭には緑色の砂が敷き詰めてある。中学校よりも大きな体育館、フェンス沿いに並んだ常緑樹。

　私は足早に門から飛び出す。

　校門脇の柱には、黒々と学校名が彫り込まれていて、いかめしい筆文字が私を追いかけてくるような気がする。私はさらに足を速める。

　高校前の大通りを歩く人たちが、みんな合格者に見える。実際、すれ違い、追い抜いていく何人かは私と違う合格者なのだろう。

　いたたまれなくなって、私は路地を一本入り込んだ。まだ人がいる。さらに路地を折れて、奥へ。

　あたりはすっかり、住宅街になった。平日の昼間だから人通りは少ない。

　同じ市内に住んでいるけれども、このあたりにはあまり来たことがない。道に迷うかもしれない。家に帰るには、少し方向がずれてしまった気がする。

　ふと不安にも思ったけれど、見たことのない風景に紛れ込んで、私はどこかで安心している。

　だって、家には帰りたくない。

　お母さんはたぶん叱ったりしないだろう。何も言わないか、残念だったね、仕方なかったねと言って抱きしめてくれるかもしれない。でもお母さんは、絶対にがっかりした表情をする。

　私は志望校に落ちてしまったのだから、私もお母さんも、結局がっかりするしかできないのだ。

　そして春からは、すべり止めで受けたミッション系の女子高へ通うことになる。クリスチャンでもないし、尚ちゃんも真紀ちゃんもいない、憧れていた佐々木くんもいるわけがない、女子高になんか行きたくなかったのに。

　行かなければならないだろうか。浪人してしまえないだろうか。私はふと考える。

　大学受験では浪人くらい当たり前なのに、何で高校受験はそうじゃないのだろう。何で、行きたくもない高校に行かなければならないのだろう。

　それくらいなら、どこへも行かずに、自分で勉強して大検を受けたりしてはいけないのだろうか。

　あのミッション系のお嬢様学校へ通うより、いつか見たドラマのように、たとえば喫茶店でアルバイトをしながら、自分で勉強をするほうが楽しいんじゃないだろうか。

　そんなことをちょうど考えたとき、目の前に、魔法のように可愛い喫茶店が現れた。

　まだ早い春の陽だまりに、オレンジ色のレンガの壁、パンジーの植木蜂を並べた石段、開け放した木製のドア。窓にはレースのカーテンが揺れていて、「ＴＥＡ　ＲＯＯＭ」の文字が並んだコルクボードが下がっている。

　まるで、物語から抜け出てきたような喫茶店だ。

　こんな住宅街の真ん中にあって、お客さんが来るのだろうか。

　思わずドアから中を覗き込むと、誰かのお尻が見えた。

　ジーンズのお尻が左右に揺れて、その上で白いフリルのリボンがはずんでいる。腰のあたりから、何かの棒がにゅっと伸びている。低く鼻歌が聞こえていて、棒はそれに合わせてリズミカルに動いている。

　お尻が振り向いて、顔が見えた。赤いバンダナで前髪を隠した、目のぱっちりした人だった。

「あ、いらっしゃい」

　体を起こして、その人はにっこりと笑った。

　身軽にこちらへ寄って来て、開け放したドアから、石段の下の私の腕を取る。

「どうぞ。床掃除いま終わったとこだから」

　その人は、左手にモップを持ち、黒無地のＴシャツの上から可愛らしいフリルのエプロンをつけている。

　まだ若い男の人に見えるが、どうやらこのメルヘンチックな喫茶店の店員さんらしい。

　ほんの軽くだけれど、タイミングよく腕を引っ張られて、私は石段を三つ上った。そのまま店内に招き入れられ、開け放しだったドアが閉まる。ドアについていたベルが、カラランと鳴り響く。

「店長！　もう開店しちゃっていいですよねえ？」

　店の奥に叫びながら、返事を待たずに、店員さんは窓際のテーブルの椅子を引いて、私を座らせた。

　店内は外に比べると薄暗く、窓からレースのカーテン越しに差し込む日差しがやさしい網目模様を落している。床も壁も木目の見える板張りで、まだ新しい木の香りがする。

「大丈夫、寒くない？　窓閉めたら、いまから空調入れるから」

　店員さんがてきぱきと動き回る。掃除中だった店内が、みるみるくつろいだ空間に変わっていく。

「はい、お待たせ。ご注文は？」

　戻ってきてにこにこと聞かれて、私は初めて気がついた。物語の中のような光景に見惚れてばかりいたけれど、ここは現実の喫茶店で、この人は店員さんなのだから、私は客ということになる。

　そこで私はすっかり慌ててしまう。だって一人でこんなお店に入ったことがない。何よりも、徒歩で合格発表を見に来ただけだから、お金を持っていない。

「あ、あのう」

　おずおずと声をかける。店員さんはぽんと手を叩いた。

「あっと、すみません。メニューをお見せしていませんでしたね。こちら、本日のオススメは三種のベリージャムのスコーンと、いちごのレアチーズケーキです。春らしいでしょ」

　素早くメニューを差し出して、すらすらと説明を始める。

　クレヨンで描いたカラフルなケーキのイラストを、コルクボードにピンで留めた、手作りの可愛らしいメニューだ。

　これも彼が作ったのだろうか。思わず、メニューと店員さんとを見比べてしまう。

「これはねえ、店長の昌子さんの手作り。一昨日からギックリ腰で安静にしているので、オレはしがない臨時バイトです」

　私の疑問を読んだように、彼は笑ってお店の奥を指差した。ここからでは、花模様のレースのカーテンの向こう側はよく見えないが、コホンという咳払いが聞こえた。店員さんが、苦笑して人差し指を唇に当てる。

「いけね。ギックリ腰は禁句だった。店長、まだまだ若くて美人なんですけどね。さあて、注文注文。どれにしましょうか」

「……え、あ、あのう」

　再び注文に話が戻る。私はまた、恐る恐る声を発する。

　あんまり可愛いお店だったから覗いていただけで、実はお金も持っていないなんて、言ってしまってもよいものか。

「あのう、わたし、その」

「はい」

　店員さんは、期待に目を輝かせながら私を見つめている。

　ごほうびを欲しがるときのうちの犬のペスと同じ目だ。そう思ったら、余計に本当のことを言い辛くなった。どうしよう。電話をかけて、お母さんに迎えにきてもらおうか。

ｎｅｘｔ．