「ハルミくーん、あなたまたやっちゃったんじゃないの？」

　レースのカーテンの向こうにいるのは女の人らしい。怒鳴っているわけでもないのによく通る高い声が、どことなくお母さんに似ていて、私はドキッとする。

「ええ？　何がですか、昌子さん？」

　店員さんも、ギクッと肩を縮ませながら振り返る。

「駅向こうの中学の生徒さんでしょ。制服に見覚えがあるもの」

　声だけが飛んでくる。店員さんはハアと首をかしげながら、私を振り返った。私はたしかに、制服を着ている。受かっていたら、学校に報告に寄ろうと思っていたから。

　少なくとも、喫茶店に立ち寄るなんて予定はさらさらなかった。

「……だから、中学生の女の子は、平日の午前にこんなお店に一人では来ないわよ。ちょっとお店の中を覗いただけなのに、強引に引っ張り込んじゃったんじゃないの。昨日から五人目」

　呆れたように、けれど明るく、店長の昌子さんは言い切った。

　店員さんが、怖いものを見るように私に目を合わせてくる。今度は、叱られたときのペスの目をしている。

　私は居たたまれなくなって立ち上がり、ぺこんと頭を下げた。

「ごめんなさい！　私、お金持っていないんです。あんまり可愛いお店で、ちょっと中を覗いてみたくなっただけで」

　そっと見上げると、店員さんはがっくりと肩を落している。ペスだったら、きっと耳も尻尾もヒゲまでも垂れ下がっている。申し訳なくて、私も小さく縮こまる。

　ところが、お店の奥からは店長さんがコロコロと笑う声が聞こえてきた。

「いいわよう、お店のインテリアを褒められるのは大好き。それにハルミくんは目が合うとみーんなお客さんだと思っちゃうのよねえ」

　店長の昌子さんは、声は私のお母さんに似ているけれども、もっとおおらかに明るい人のようだった。店員さんが目に見えて背を丸め、しゅーんとしおれる。

「あなた、いいのよ、お坐んなさい。今日のところはハルミくんがアルバイト料で奢ってくれるから」

「ええ、昌子さん、そんなあ。ギックリ腰ばらしたの、そんなに怒ってるんですかあ」

　ンー、コホン！と奥から咳払いが聞こえてくる。店員さんが、いけねと舌を出してバンダナの頭を自分で叩く。

　二人のやりとりときたらまるで漫才だ。私はつい、クスクス笑ってしまった。

「というわけで、何がいい？」

　店員さんに改まって聞かれて、私は小さく手を振る。

「そんな、いいです。帰ります、わたし」

「まあ、いいから座って座って。急ぎの用がなければ。昌子さん、あんなこと言っているけど、オレちゃんとバイト料もらってるし。まあ、数日限りの助っ人だけどね、ここ本当は昌子さん一人の店だから」

　店員さんに軽くぽんと肩を叩かれただけで、私は椅子に座ってしまう。力があるわけじゃないけれど、この人の動きは妙にタイミングがいい。

「それに、せっかく入ったのに、もったいないじゃん。こんな可愛い喫茶店でお茶もしないで帰るなんて。昌子さんのケーキ、すっごく美味しいんだよ」

　たしかに、私だってこのまま帰りたくはない。まるで物語の中のようなこの空間に、もう少しだけいたい。でも。

「急いではいないけど。でも、いいです、おなかすいてないし。私、やっぱり帰ります」

　私は小さく首を振って、うつむく。

　一瞬忘れていたが、呑気にケーキなんか食べている場合じゃない。現実に帰らなくちゃ。お母さんに結果を報告して、明日が締め切りの私立高校の入学手続きに取り掛からなくちゃ。

　帰るといいながら、立ち上がろうともしていないのだけれど。

「そう？　おなかすいてないんだ。うーん、じゃあ、ちょっと待ってね」

　店員さんは首をかしげて、奥に引っ込んだ。

　カチャカチャと食器のぶつかる音が聞こえてくる。戸棚を開くカタンという音、何かの容器の蓋を開ける軽い音、お湯をコポコポ注ぐ音。

　私のために、何かを作ってくれている音がする。

　ぼんやりその音を聞いているうちに、店員さんは戻ってきた。

「お待たせ。おなかすいてなくても、お茶なら飲めるでしょ」

　ソーサーとカップとスプーン、マットとポットとティーコゼー。四角いお盆からポンポンポンと、私のテーブルに並べる。リズミカルな手つきは、喫茶店というより手品みたいに見える。

「はい、どうぞ」

　野いちご柄の白いカップから、甘い香りの湯気がフワリと立ち昇る。覗き込むと、口に含んでもいないのにそれだけで甘い。

　店員さんの視線に促されて、そっと口をつける。

　味は、香ほどには甘くなかった。むしろ爽やかな、木の香りがする。

「メイプルティーだよ。ホットケーキとかにかけるメイプルシロップのお茶。あんまり甘くないから、びっくりするでしょ」

　店員さんは、いつの間にか私の向かいの席に座ってしまっている。頬杖をついて、にこにこ私を見ている。

　私はこくんと頷いて、さらにもう一口飲んだ。

　今度は少し、苦いような気がする。香りはこんなに甘くてやさしいのに、何でだろう。

「メイプルシロップって、楓の木の樹液なんだって。木肌に傷がつくと、ゆっくりじわーっとしみてくる。痛む傷口をかばうものだから、甘くて、甘くないのかもしれないね」

　頬杖をついて、店員さんが小さく囁く。

　本当のことなのか、口からでまかせなのかはわからないけれど、妙に説得力があって、私はどきりとする。

　店員さんは、変わらずにこにこ笑ったままだ。大きな目に春の日が差して、いま飲んでいるメイプルティーみたいな色に見える。男の人なのに、フリルのエプロンがよく似合っている。

　ここはやっぱり、物語の中のお店なのかもしれない、と私は思った。

　ポット一杯分のお茶を飲んで、私はようやく立ち上がった。お店の中が、新しい木の香りに混ざってメイプルシロップの甘い湯気に満たされている。

「ごちそうさまでした。おいしかったです。ありがとう」

　店員さんと、レースのカーテンの向こうの店長の昌子さんにお礼を言う。

「どういたしまして。今度は彼氏といらっしゃいねえ」

　昌子さんの朗らかな声が返ってくる。結局顔を見られずじまいだったけれど、やっぱりお母さんの声に似ている。

　店員さんは立って、ドアのところまで送ってくれた。

「引き止めちゃってごめんね。またおいでよ」

　にこにこ笑って手を振る。

　二人にまたおいでよと言われても、私はたぶんしばらくは来ない。この近くの高校には落ちてしまったから、たぶん来る気にはなかなかなれない。

　それに、私がいつかまたここへ来たとき、このお店はここにあるのだろうか。

　一歩外へ出た途端、魔法のように消えてしまうような気がして、私は石段を下りたところで振り返る。

　店員さんと目が合った。

　何故か、店員さんは右手を差し出した。私はそれを握り返した。

　店員さんの手はちゃんと温かくて、すぐに消えてしまいそうには思えなかった。

　駅前の電話ボックスから、私はお母さんに電話をかけた。

　お母さんの声は、昌子さんに似ているけれども、あんなにポンポンと思ったことを言わず、私を気遣ってやさしかった。

「そう、じゃあ一人なの？　迎えに行こうか？」

　電話口で、慌てて首を横に振る。いいよ、一人で帰れる、と早口で言う。まるで怒ったみたいな声になって、自分でびっくりする。

「じゃあ、ごはん作って待ってるね。おなかすいたでしょ？」

　お母さんに言われて、さっきまではちっともすいていなかったおなかが、急にきゅんと切なくなる。おなかだけじゃなくて、胸のあたりもぎゅっと痛い。

　うん、じゃあ、と私はいい加減な返事をして、慌てて受話器を置いた。

　鼻の奥がツンとして、視界がふくらんでぼやける。急に涙があふれてくる。魔法が解ける。物語の中でメイプルティーを飲んだって、現実に帰れば、こんなに痛い。

　右手で目をこすろうとして、私はおかしなことに気付く。

　いつのまにか、ガーゼのハンカチが握られている。私のハンカチじゃない。だってこんなハンカチ、もう何年も使ったことがない。白い厚手のガーゼの角に、緑色で「ＴＥＡ　ＲＯＯＭ」と小さく刺繍されている。

　きっと、あの店員さんだ。別れ際に握手をしたときに渡されたとしたら、今まで気付かなかったのがすごく不思議だけれども。

　ガーゼのハンカチでそっと目を押さえる。

　やわらかな白いガーゼには、甘くて、甘くない、メイプルティーの湯気がふんわりしみていた。

Fin.