鬱

な

春

　俺も子供の頃は、むしろ好きだったと思う。友達と競うように手袋を外し、ほんのり温かくなった土に触れ、わずかに萌え出す草の芽を摘んで遊んだ。若い女性教師の春物スカートの裾がひらひらとまぶしかった。

　それがここ数年で、死ぬほど嫌いになった。花粉症という間抜けな病が発症したせいである。

　まずかきむしりたいほどに目が痒い。常に鼻がムズムズする。意図せぬタイミングでくしゃみが出る。一回くしゃみをすると、三十発は止まらない。頭がぼうっとして、わけもなく体力を消耗する。

　薬を飲めば飲んだで、とろけるほど眠い。眠いというより、五感が遠のいて、自分でも起きているのだか寝ているのだかわからない状態になる。顔の半分を覆うマスクに、花粉対策ゴーグル眼鏡をかければなおさらだ。

　さらに春になると、どういうわけだか、親戚が見合い話を持ってくる。

　推測するに、学校を卒業したお嬢様方が次の進路を探してということなのだろうが、あいにく俺のほうにはまったくその気がない。せっかくこの歳まで気ままな道楽生活をしてきたのに、何だって今さら何とか財閥令嬢とか、後々面倒くさそうなお嬢様連中の進路になってやらねばならんのだ。

　第一、温室育ちのお嬢様タイプは俺の好みじゃない。花粉で麻痺した頭で見合い写真を見たところで、心地よい刺激になるわけがない。

　ゆえに、俺は春が大嫌いだ。

◆

　そして今年の春は、どうやら自分史上最悪の春になりそうだった。

　これまで俺の縁談には具体的に絡んできたことのなかったおふくろが、ついに見合い話を持ってきたのである。見合い、というのもおかしいかもしれない。直接、一人のお嬢様を連れてきたのだ。

　おふくろが最初にうちに連れてきたのは梅の咲く頃で、趣味の句会のメンバーと紹介された。ほとんどがおふくろの年代のメンバーの中で、彼女一人だけが飛びぬけて若かった。最初から、嫌な予感はしていた。

　二宮小百合といういかにもな名乗りで、彼女がお辞儀をすると、藤色のセーターの胸元がぷるんと揺れた。俺はほとんど逃げるように、その場を離れた。

　男だったら、好きな奴は好きだろうが、どうしても俺は巨乳が苦手なのだ。何故と聞かれても感覚的なものだから説明のしようがない。本人に言うと怒るのだが、おふくろも姉貴も、家系の女がみんな洗濯板だったせいだろうか。

　そして今日の小百合嬢は、清楚な白いブラウスで、ふわりとした腰回りに比べて胸のあたりだけやけに窮屈そうに見える。

　うたた寝から目覚めた俺は、いきなりそんなものを目の当たりにし、恐ろしく狼狽した。

　小百合嬢は、気付けば俺の斜向かいに腰掛けていた。角のソファにはおふくろが陣取り、ばあやがカップに紅茶など注いでいる。俺が背もたれから跳ね起きると、おふくろが上機嫌で声をかけてきた。

「あら、崇哉さん。小百合さんがいらしているのよ。あなたも一緒に紅茶をいかが？」

　小百合嬢が、少し困ったような笑顔で会釈する。

　それはたしかに、薬の副作用とはいえ、居間のソファなんかで無用心にうたた寝していた俺が悪い。

　だからと言って、せめて一声かけて起こせばいいものを、来客をいきなりその場に通して、人の寝顔をそこに置いたまま、お茶をはじめる神経はいかがなものか。

　令嬢という人種を見れば、挨拶もそこそこにどこかへ逃げていく俺の習性を、よくよく知ってのこの仕打ちである。さすがにおふくろだが、感心できるやり口ではない。

　俺は、勢いよく立ち上がった。

「まあま、崇哉さん。ばあやがお茶を入れているのよ。急に立ったら危ないじゃないの。落ち着いてかけて、少し小百合さんとお話されてはいかが。今日は明日からの歌会の準備でお越しいただいているの」

　口調はおっとりだが、おふくろの目には好戦的な光が宿っている。幾度となく連れてきた小百合嬢との見合いもどきの機会を、のらりくらり逃げ回っていた俺への挑戦だ。

　俺は寝ぼけ眼のままで、おふくろを睨み返す。

「俺、今から一月ほど出かけるわ。小百合さん、ごゆっくり」

　言い捨てて、応接セットを抜け出す。眠気のために足がふらついて、ポットを抱えたばあやが危いところで俺をよける。

「ちょっと、崇哉さん。どこへ行くの。週末はお花見の約束でしょう」

　おふくろの声に構わず、ドアの外へ出て、俺はため息をついた。

　本当に、一月ほど姿をくらまさねばならない。こういうときのおふくろは、手段を選ばず、相当にしつこいのだ。

　それでなくても、裏庭の桜をネタに、やれ観桜会だの、歌会だの、管弦楽の宴だの、うっとうしいイベントが続くこの季節、漫然と家にいるのは得策でない。

　花粉症のせいで、防御策を考える気力も体力も落ちている。

「ここは、国外逃亡しかないな」

　良いアイディアだと思ったので、口に出してみた。

　花粉と見合いの飛び交う日本を出てしまえば、どんなにすっきりすることだろう。そうだ、それがいい。

「また逃げるの、崇哉？」

　冷やりとした声が突き刺さる。いつの間にか、姉貴が立っていた。

「来てたのか」

　姉貴は、結婚して家を出ている。もっとも、嫁ぎ先は近所で、旦那も一族の系列役員なのだが。

「ランチに呼ばれたのよ。何かと思ったら、崇哉のお見合いだったのね」

　おふくろと小百合嬢と俺だけでは話がはずまないと思ったのだろう。おしゃべり好きの姉貴を呼んであったとは、周到なことだ。五歳になる甥っ子も連れて来ているとすれば、否応にも場が和む。

「で、逃げるわけ？　去年もたしか、この時期は海外だったわね。まったく、お気楽な身分だこと。あなたに御木本家の一員としての自覚はないのかしらね」

　しかも、姉貴は逃げ出そうとする俺を足止めするトラップになるというわけか。見事な計算だぜ、おふくろ。

「見逃してくれよ。姉貴」

　しかし、俺もここであきらめるわけにはいかないのだ。姉貴の目を、じっと見つめる。今はこんな図体だが、俺だって二十年前には可愛い弟だったのだ。

「……で、お相手の顔は見たの？」

　じろじろと俺を眺めてから、姉は切り出す。

「顔？　……ああ、まあ」

　実際のところ、豊満なバストが視界に入るたびに反射的に逃げていたから、顔の記憶はあまりないのだが。面長で純和風の、美人といえば美人だったように思う。化粧気がないので、その下で揺れる胸ほどには印象が残らなかった。

「挨拶は？」

「した」

　ごゆっくり、と言って来た。あれも一種の挨拶だろう。おふくろへのあてつけの意味がほとんどだったが。

「それでも、逃げ出したいのね？」

　姉がじっと、俺を覗き込む。大きくはないが黒目がちの姉貴の瞳に、裏の裏まで見透かされそうな錯覚に陥る。罪の意識もないのに後ろめたさに囚われる、幼少からの姉弟関係で培われてきた条件反射だ。

「じゃ、いいわ」

　存外にあっさりと、姉は言った。俺の言うことをすべて真に受けたわけではないだろうが、これ以上の不毛な問答はあきらめたらしい。

「あなたは人との関わりに無頓着なところがあるから、面倒くさいだけで逃げているんだったら承知しないところだけど。と、言っても崇哉にはわからないかもねえ」

　何となく、ヒヤリとする。どことは言えないが、やはり後ろめたいことはあるのかもしれない。

　が、とりあえず色恋沙汰に真剣になる気は、俺にはまったくないのだ。

「腫れた惚れたじゃなくてもね、人との関わりってあるものよ。家のことを抜きにして、姉としてあなたに自覚して欲しいと思うのだけど。でも今回のお母様のやり方には、私も賛同しかねているから。本人の気持ちに構わず縁談を進めるのよね、お母様は。だから、今日のところは見逃してあげる」

　姉貴は小さく肩をすくめてみせた。

　そういえば姉貴の結婚も、もともとはおやじが持ち込んだ話を、おふくろが横から強引に進めたものだった。結婚して六年も経った今、姉貴は後悔しているのだろうか。

「そのかわりと言っては何だけど、帰って来たら翔を遊園地にでも連れて行ってくれる？　あの子、崇哉おじさんと次にいつ遊べるか、そりゃあ楽しみにしているのよ」

　翔は、姉貴の子供で俺の甥だ。夏にプールに連れて行ったら、すっかり懐かれてしまったらしい。俺はことさら子供好きではないが、血縁のなせる技か、翔のことは可愛い。

「了解、商談成立。でも義兄貴が妬かないかな？」

　義兄貴は一族の一員らしく、毎日仕事で忙しくしている。休日もゴルフだのパーティーだの社交儀礼がわんさかあるから、翔に構う時間が充分に取れないようだ。翔がときどき、暇で遊んでやる叔父と比較しては文句を言っている。

「野暮ねえ。たまには私にもあの人とゆっくりデートする時間をちょうだいよ」

　姉貴は笑って、いま俺が出てきた部屋に消えた。

「それはそれは、ゴチソウサマ」

　かくして俺はどうにか虎口を逃れ、国外逃亡のチャンスを得たのだった。

ｎｅｘｔ.