鬱

な

春

　海外に一月も高飛びするのに、クレジット・カードなしでは厳しい。記憶の糸をたどると、おそらく一昨日のジャケットのポケットに入れっぱなしで、アトリエに置き忘れている。そう推理して、アトリエのドアを開けた。

　ジャケットはたしかに、アトリエのソファにあった。が、その中にくるまって、眠っている奴がいる。

　康介だった。このアトリエに出入りするのは、俺か姉貴か、後は宿なしのこいつくらいのものなのだ。

　人が勢い込んで家を飛び出してきたというのに、何故こんな間抜けな妨害に遭うのだろう。脱力して、俺はその場にしゃがみこんだ。旅行鞄を肩から下ろし、花粉避けのゴーグルとマスクをはずす。

　普段は家の車で送ってもらうのだが、今日ばかりは非常事態で、国道沿いを自力で歩いて来た。中はほとんどからっぽだが、旅行鞄もかついで来た。眠気を誘う薬はまだ、頭全体にぼうっと残っている。座った途端、俺なりの窮地からの脱出劇の疲れがどっと手足に流れて、気が抜けた。

　しゃがんだままで、人のジャケットを布団代わりにしている不届き者を恨めしげに睨んでみる。

　康介は目を覚まさない。規則正しい寝息が、ジャケットの生地の下から聞こえている。黒いジャケットから生えた手足は、横を向いて丸まっている。

　俺はジャケットの端を摘んで、引っ張った。びくとも動かない。布の端を、康介がしっかりと握っているのだ。

「離せよ、康介」

　声に出して呟くと、いきなりぱちりと目が開いた。

　そして予期せぬ勢いで、ジャケットは中身ごとこっちに飛びついてきた。元々引っ張っていた反動で、俺は後ろにひっくり返る。

「崇哉、崇哉、崇哉！」

　仰向けに転がった俺の首ったまにしがみついて、康介は俺の名前を連呼している。何と激しい目覚め方をするのだろう。こういう騒動の予感がしていたから、できれば起こさないようにしていたのだが。

「あのなあ、康介……」

「崇哉、崇哉、よかった」

　控えめに呼んでみるが、聞いちゃあいない。ますますがっちりと首に腕を絡めて、うわごとのように叫んでいる。こんな寝起きの抱擁を受けるいわれは、しかし俺にはない。

「寝ぼけんなよ、こら！」

　腕を回して奴の後ろ襟首を掴み、乱暴に引き剥がす。

　目と目が合って、康介はパチパチと瞬きし、ようやく我に返ったようだ。何なんだよ、いったい。

「夢を……見てた」

　康介は俺の上に乗っかって、襟首を後ろに引かれたままの状態で、呆然と呟いた。

　つまり俺はこいつのお昼寝の夢の延長に、巻き込まれたということか。

「崇哉が、帰ってこなくなる夢を見た」

　焦点の合わない視線を俺に向けて、寝起きの無表情を、くしゃりと泣き出しそうに歪める。おいおい、頼むから人の腹の上で泣くなよ。

　だいたい、見合いから脱走して国外逃亡をはかろうとしている俺には、こんなのに悠長につきあっている暇はないというのに。

「オレはアトリエにいて、崇哉はもう帰ってこないとわかっていて、それでもずっと長いこと崇哉を待っていて。ああ、もう崇哉には会えないんだって、誰もいないアトリエの景色を見ながら、ようやく思っている。思いながら、信じたくなくて、オレは動けない」

　勝手にたいそう悲しげな夢を見てくれるものだ。俺を見下ろす大きな目の、端のほうに涙がたまっている。

「そしたら、崇哉が呼んだ。目が覚めて、崇哉がいて、ほっとした、すごく」

　間近に目を合わせて、康介は少し頬を緩ませる。重ねた胸のあばらの感触は、巨乳から逃げてきた俺にはたしかに気持ちいいのだが。

　しかし、そろそろ出かけなければ。

　もしもおふくろが本気で、姉貴が時間稼ぎに失敗していたら、そろそろ方々に追っ手をかける頃合だ。ここなどは、すぐに見つかる。アトリエは、俺の日本での居場所の半分なのだ。

　起き上がろうと身じろぐと、上に乗った康介がまたぎゅうとしがみついてくる。

「あのな、康介。俺はこれから出かけるの、ここにはカード取りに来ただけなんだから。本日のあばらはもう充分に堪能させていただきましたから、いい加減にどいてくれませんか？」

「いやだ」

　言下に康介は拒絶した。ぎゅうとあばらを軋ませて、頑強にしがみついてくる。

　大人しく寝ぼけの抱擁につきあって、大人しく夢の話も聞いてやったというのに、このうえ俺に何をさせようというのか。

「いま、崇哉が行ったら帰って来ない。そんな気がする」

　何を言いだすやら。康介はまだまだ夢の続きにいるようだ。

「おいおい、困るんだよ。俺は見合いから抜け出してきて、姉貴が時間稼ぎしてくれてるだろうけど、追っ手のかかる前に国外逃亡すんの。ここなんかすぐにも見つかるんだから、もう行かないと」

「ダメだ」

　またもや、０．２秒で康介が却下する。

「何だよ、俺の一月くらいの国外逃亡なんて珍しくないだろ？　だいたい、お前だって一月ここに寄り付かないことなんてザラだろうに」

「いまは、行っちゃダメなんだ」

　か細い体なりに必死に俺を押さえ込んで、康介が真剣な眼差しを向けてくる。そう真剣になられても、困るんだが。

「いま行ったら、もう会えないかもしれない。でもきっと、それでも平気なんだろ、崇哉は。オレが平気じゃないのに、そういうのわかってくれないんだろ。わからないうちに行っちゃ、ダメなんだよ」

　康介が寝ぼけているのだろうか。俺の頭の回転が止まっているのだろうか。何を言っているのかよくわからない。

「だから、見合いなんだって。ここで逃げ切らないと、一生の鎖につかまっちまうんだ、俺は」

　同じ言い訳をくり返すと、きっと睨みつけられた。

「同じだよ、お見合いだって。崇哉、どうせ相手の顔なんかろくに見ずに逃げてきたんだろ。いまじゃなきゃ、明日はもう会えないかもしれない。そういうこと考えたこと全然ないんだろうね、崇哉は」

　見てきたような康介の口ぶりにぎくりとする。

「とにかくいま行ったら、崇哉はもう帰って来ない。見合いの相手も、オレも、捨てていくことになる。崇哉には全然わからないだろうけど、オレにはわかるんだよ、そういうの」

「だから真面目にわかんないって、康介」

　俺がわからないことを前提に話しているのならば、いっこうにわかるはずもない。こうなれば力づくしかないようだ。

　強引に腕力とと腹筋で体を起こす。ダッコちゃんのように首ったまにしがみついたまま膝の上に移動した康介の、両脇の下に手を差し込んで引き剥がす。

　康介はとにかくウェイトが軽いし、リーチが全然足りないし、いざとなれば腕力も俺のほうが強い。勝負ありと、俺は立ち上がり、埃を払って旅行鞄を肩にかつぐ。

「じゃあ、そういうわけで……」

「待てよ、崇哉。欲しいのはこれだろ？」

　マスクを耳にかけながら振り返ると、康介が俺のジャケットを抱えてソファ・ベッドの上に仁王立ちしていた。

　ジャケットのポケットには、カードケースが入っているはずだ。

　そうだった、ここへはカードを取りに来たのだ。それを忘れるとは、何と間抜けな。よくよく、頭が回っていない。

「返せよ、康介」

　手を伸ばすと、康介はひらりと身をかわした。ウェイトが軽い分、身のこなしは風のように軽い。

「ここまでおいでよ、崇哉」

　ソファ・ベッドの反対側へ飛び降りて、ぱたぱたとジャケットを振ってみせる。

「この、康介！」

　回り込むと、またソファ・ベッドの上へ。俺は旅行鞄を再び床に投げ出し、猛然とソファ・ベッドに飛び乗った。過重オーバーに悲鳴をあげるスプリングの反動を生かして、康介はふわりと向こう側へ飛びのく。

　俺は何とか、慣性の法則に従って尾を引いたジャケットの袖を掴み、引っ張った。どうだ、ざまあ見ろ。

「崇哉。欲しいのはジャケットじゃなくて、こっちでしょ？」

　床に降り立った康介は、いつの間にかカードケースを抜きとっていたらしい。これ見よがしに宙へ放り投げて、受け止める。

「てめ、この」

　もはや言葉にならない。スプリングを軋ませて飛び掛ると、着地点に既に康介はいない。

「わ。崇哉の靴、大きいのに軽いんだねえ」

　振り返ると、今度は俺の靴で器用にお手玉している。

　どうやら、覚悟を決めて徹底的に、あの生意気な道化師を捕まえなければ決着はつかないようだった。

「そこ動くなっ、康介！」

「やなこった」

　羽虫のように飛び回る康介を、俺は必死に追いかけた。

◆

　携帯が鳴っている。向こうの床の上で、青いランプが点滅している。

　あたりはとっぷり暗くなっている。走り回っているうちに、俺はどうやら、疲れて眠ってしまったらしい。

　いまから空港へ行ったところで、目当ての飛行機はもうないだろう。康介の奴に、完全にしてやられた。

　体を起こそうとすると、何かが右腕に載っていた。康介の頭だ。重みで肘から先が痺れてしまっている。構わず引き抜くと、ゴンと鈍い音がした。どこかにぶつけたかもしれないが、知るものか。

「崇哉、電話うるさい」

　寝ぼけ声で康介が文句を言う。

　俺はソファ・ベッドを降りて、床の携帯を拾った。ディスプレイに表示されているのは、姉貴の番号だ。

「もしもし、崇哉？　今どこ？　無事なの、崇哉？」

　通話ボタンを押すなり、姉貴の声があふれてきた。何だよ、姉貴まで寝起きの康介みたいな悲壮な声を出しやがって。

「アトリエだよ。飛行機、乗りそこなった」

　眠気と敗北感とで不機嫌に低く呟くと、電話の向こうの姉貴は深い息をついた。

「よかった。よかった、無事なのね。日本に、そこにいるのね、崇哉」

　何なんだろう。今日はどいつもこいつも、一方的に俺と感動の再会をしたがる。

「ニュースで、飛行機の事件を見て、まさか崇哉が巻き込まれていたらどうしようって。今日、説得をあきらめて、あなたを見逃したりしなきゃよかったって」

　姉貴は涙ぐんでいる。

　何だ？　飛行機の事件？　巻き込まれる？　何も反応できずにいる俺の間抜けな気配に、姉貴はようやく状況を察したようだった。

「……なあに、その様子だと、まだ何も知らないのね。ラジオでも何でも、ニュースつけてごらんなさい。世界中が大パニックで、飛行機なんか飛ばないんだから。当分はあなた、海外行き禁止よ。この春はもう、覚悟を決めて大人しくお見合いでもしてなさい。まったく、心配して損した気分。じゃあね」

　ブツリと電話が切れる。

　俺は振り返って、康介を見た。

「だから、言ったじゃん。オレにはわかるって」

　道化師は闇に目を光らせて、チェシャ猫のように笑った。

◆

　かくして俺は、憂鬱な日本の春から逃げ出しそびれたのである。

Fin.