灰色の風景の中、そこだけぽつんと赤い点。シンデレラのガラスの靴とは程遠い、赤いキャンパス地のスニーカー。おれは車の速度を落として路肩に寄せる。今度こそ、あの靴を拾うためだ。

　薫が十日前にアパートの階段に落としていった赤い靴。怒って車を飛び出した彼女は、脱げてしまった片方の靴を拾いもせず、裸足のまま階上に消えた。

　靴を拾えば追いかけられる。

　とっさにそう思ったのに、おれはただ車の中から階段に転がった赤い靴をぼんやり見つめただけで、あきらめた。

　靴を持って薫の部屋を訪ねるのも、人質をとるようで姑息な気がしたし、そんな口実がなければ追いかけられないほどの腰抜けならば、追いかけても意味がない。勇ましい彼女のパンチを正面から受けて、それでも強引に抱きすくめる度胸がなければもっと惨めになるだけだ。

　そしておれは、そのままそこを立ち去った。あのときはそこまでの度胸がなかったと言うことだ。

　情けないと落ち込むべきか、賢明だったと頷くべきか。あのとき追いかけていれば、薫は話を聞いてくれたのだろうか。怒りに振り上げた拳を降ろしてくれたのだろうか。十日の間、おれはずっと考えていた。

　そんな矢先に、この靴だ。

　今度こそ、拾える。姑息と罵られてもいい。パンチを喰らっても、彼女にまた会えるようになるならそれでいい。

　それ以外のことは頭になかった。

　車を降りて、靴を拾う。赤いキャンパス地の織り目はつぶれて、底のさんざんにすり減った、自称・戦う新聞記者の薫の靴。女物にしては大きいほうだが、やはり手にしてみると男の革靴に比べて小さくて軽い。ゆるくてほどけてしまった靴の結び目が、束縛を極端に嫌う彼女らしい。

「すみませーん」

　向こうから、声をかけられた。

　顔を上げると、向うから片脚立ちでケンケン跳ねて来る少年がいる。ぱっと見て見覚えがないが、予備校のおれの教え子だろうか。そのくらいの年頃だ。

　乱視でぶれる目をしばたくと、少年はもう目の前に立っていた。

「急いで走ってたら、靴、脱げちゃって」

　頭をかき、にこにこ笑いながらにゅっと手を突き出す。おれは反射的に、赤い靴を持った手を引っ込めた。少年が怪訝な顔をする。

　それでようやくおれは、カン違いに気がついた。

　少年の片脚だけに残った靴が、おそろいの赤いキャンパス地だ。片方の足を持上げてブラブラさせているのは靴が脱げたからで、つまりこれは彼の靴なのだ。

　当たり前だ。十日も前に、しかもこんな公道ではなく彼女のアパートの階段に落ちていた靴が、おれが拾いそこねた彼女のあの靴のはずがない。

　慌てて、靴を少年の手に押し付ける。

　少年はやはり怪訝な顔をして、しかしすぐに笑顔で礼を言い、持上げたままの靴に足を引っかける。おれはぼんやりその動きを眺めている。どう動いていいか、わからなかったのだ。

　カン違いを説明すべきだったのかもしれないが、個人的な事情で彼には何の関係もないだろうし、だからと言って何も言わないのでは、わざわざ車を停めて靴を拾った動作が不審だ。それどころか、おれは拾った靴を返さない素振りまでしてしまったのだ。彼は一連の経緯を聞きたいだろうか、それともどうでもいいだろうか。

　考えていると、靴を履き終えた彼がじっとおれを見ていた。

「どうか、しました？」

　人懐こい、無警戒な笑みを浮かべている。靴を拾ったわけを、聞きたがっているふうではない。どちらかと言うと、おれに話したいことがないかと訊くような。もしかすると、そうなのかもしれない。いろいろ回りくどく考えてしまうが、おれが話したいのかもしれない。

　でも彼はさっき、急いでいると言っていた。靴が脱げるほどの勢いで走るほどの用事があるのだろう。見ず知らずのおれの話を聞くような時間はないはずだ。

「いや、おれは、その」

　そうだ、彼は急いでいるのだ。

「急ぐのなら、乗るかい？　走るより速いと思うけど」

　旧式の白いシルビアを指差す。一昔前ならナンパ車だが、今じゃただの中古車だ。

「え？」

　彼の三度の怪訝な顔に、おれははっとする。わざわざ車を停めて靴を拾い、返すのを渋った挙句に、見ず知らずの人間が車へ誘うのだ。不審度はさらに増すばかりじゃないか。

　だが彼はぱちんと指を鳴らして笑顔を見せた。

「本当に？　正直、走ってたらカンペキ遅刻なんだよね。ラッキー！」

　飛び跳ねるようにしてさっさと助手席に乗り込んでしまう。見知らぬ人間を不審がるということを知らないタチなのか、それともよほどおれが無害に見えるのか。

　複雑な気持ちで運転席に乗り込むと、彼が陽気に行き先を告げる。

「ここ真っ直ぐ行って、信号のとこで左に入ってすぐの『リストランテ』。駐車場もあるから、夕飯まだなら食べてけば？　ワインの一杯くらいおごりますよ」

　初対面のはずだが、少年の口調は毎週授業で顔を合わせている予備校生よりよほど馴れ馴れしい。だが底抜けに明るいので、不快には感じない。生来人懐こい性格なのだろう。

「へえ、おごってくれるの。きみ、そこの店員？」

　車を出すタイミングを見計らいながら相槌を打つ。

「うーんと、オレはバイトです。バイトのテーブル魔法使い」

　言葉の意味をはかりかねて思わず彼を振り返ったので、車を出すタイミングをおれは外した。

「食事が済んだら呼んでくださいね。魔法使いのハルミ、です」

　助手席の少年は何とも不可思議な光を瞳に宿して笑った。

◆

　彼の正体は、店に着いてすぐに知れた。

「すみません、こんばんは。テーブルを回ってマジックをお見せしているんですけど、もしよろしかったらいかがですかー？」

　彼はそう言って、向かいのテーブルのカップルの間にごく自然に割り込んだ。髪をオレンジに染めた女性が頷き、男性がお願いしますと添える。途端にマジシャンの少年は顔中に営業スマイルを浮かべた。二人掛けテーブルに一人で座ったおれには、彼がちょうど真正面に見える。

「ありがとうございます。それじゃあ、季節柄こんなマジックはいかがでしょうか」

　マジシャンが両手を広げると、カップルがつられて首を動かす。

　マジックと聞くと、何とかタネを見抜いてやろうと、動く手先についつい反応してしまうのが人の常らしい。実はそれこそが彼の術中に落ちているということなのだろうが。

　妙に目を引く仕草で、マジシャンが広げた手を胸の前で合わせて開くと、オレンジ色のものが不意に手のひらに現れる。

　小手調べの感嘆と、どこから出たのか見そこねた悔しさとに、カップルが小さく歓声を漏らす。

「これね、台所のスポンジを切って作ったんですけどね、ジャック・オ・ランタン。カボチャに目鼻をくりぬいて作る、ハロウィンにつきもののアレです。結構可愛いでしょ」

　ハロウィンといえば、仮装して子供にお菓子を配る、アメリカの祭りのことだろう。日本ではあまり馴染がないが、そういえばコンビニのレジに極彩色のアメが入ったカゴが置いてあった。小売市場ではそういったキャンペーン・シーズンなのだろう。

　女性がカワイイと黄色い声を上げる。男性のほうはあまり興味がないらしい。軽い反応を受け流して、マジシャンは動きを続ける。ちなみにおれの席からは遠くて、カワイイかどうかまでは判別できない。

「でね、これをこう手に握って隠して、さてどっちに入っているでしょう？」

　おそらくテーブル定番の、握ったままの手から手へ物を移動させるマジックらしい。

「それは、こっちでしょ」

「そうですねえ。今見てましたもんね。開けてみましょうか。はいっ、正解です」

　まずは観客の予想を肯定する。

「それじゃあ、こんなふうにゲンコツをぶつけておまじないを……さあ、これでもこっちでいいですか？」

　それから話術で引っ掻き回して、小手先ですり替えて、小気味よく驚かせてオチをつける、そういうセオリーなのだろう。

　現実もそういうふうにすり替えられたら楽だろうに、とふと思う。

　たとえばさっきの少年のスニーカーを十日前の薫の靴に。軽はずみに告白してしまったおれの思いをなかったことにすり替えられたら。

　いや、そうじゃない。こんなふうに考えてしまうことこそが、薫がおれを友達以上の存在に見られなかった理由で、すり替えるべきははおそらくおれの人生観そのものなのだろう。

ｎｅｘｔ．