自由で奔放で、思いのままにどこまでも飛んで行く彼女のエネルギーに惚れていた。世間の常識や既成概念、彼女を縛ろうとするあらゆるものと戦う、勇ましい彼女に魅せられていた。事実彼女は、思い立ったら地球の裏側までもカメラ一つ抱えて飛んで行くし、見て見ぬふりをされているような社会悪に敢然と挑戦する、熱血新聞記者なのだ。

　飲み屋のグループ・ナンパで知り合ってまだ半年にもならないが、おれは一目見たときから、友人と飲んでいるにもかかわらず淡々と自分のペースを崩さない薫に引きつけられていた。

　だから、仕事がうまくゆかず落ち込んでいた薫に、プロポーズした。薫が好きだ。薫の強さと、自由な生き方が好きだ。結婚してほしい、と。

　おれにしてみれば、他の誰が何と言おうと、ただ一人は薫の価値を絶対的に認めている、ということを伝えることで、彼女を励ましたかったのだ。世界でただ一人自分だけのナイトが現れる、女性にとってそれこそが至上の祝福だと思いこんでいたのだ。浅はかにも。

　勿論、結婚して仕事をやめてくれとか、そこまで意図していたつもりはない。だが同じことなのだ。そこから先の彼女のことをまったく想像していなかったのだから。今にして思えば、おれのエゴだったのだろう。仕事を人生の第一にし、真剣に悩み、戦う彼女のプライドを傷つけるには、充分な言葉だったのだ。

　薫の答えは簡潔だった。

　何でそこでそういう話になるわけ？　悪いけど、あたしは高野のこと友達としか思ったことないよ。高野の生き方を否定するつもりはないけど、一緒に生きていくことはできないと思うから。高野がそんなふうに思っているなら、もう、会わないほうがいいね。

　そして勢いよくおれの車を飛び出し、脱げた靴も拾わず、裸足でおれの前から消えたのだ。

　残ったのは、うかつなおれの後悔だけ。

　今さらあやまったところで、知られてしまった恋心を白紙に戻すことはできない。あのとき軽はずみな告白をしていなかったとしても、薫はおれのことを友達としてしか見ていないのだから、いずれ遠からず終わりは来ていた。結局は予定調和なのだ。

　それでも、割り切ることはおれにはできない。言わなければまだ薫に会えていただろうか。誇り高い彼女をせめて傷つけなかっただろうか。過ぎたことを悔やんでは、彼女のように雄々しくなれない自分をいっそう嫌悪する。

　おれはもう、隣のテーブルのマジックを見ることはしないで、運ばれてきたパスタをもそもそと食い、グラスワインで一人乾杯した。失恋をふっ切るつもりの乾杯は、通算してちょうど十杯目になるだろうか。

「こんにちは。お食事、済みました？」

　ワイングラスを置いたところに、マジシャンがやって来た。空のグラスを取り上げて、かわりに新しいワインを置く。

「どうも先ほどは送っていただきまして。これ、お礼です」

　顔を思い切りほころばせた笑顔だ。営業スマイルにしても、こんなに思い切り笑ったら疲れるだろうに。

「でね、せっかくだからマジックもいかがですか」

　おれがワインの礼を言おうとするのにかぶせて、マジシャンは営業開始である。さっき向かいで見てたしいいよと断りかける隙も与えず、気障な仕草で両手を広げる。

「はい、これ、ジャック・オ・ランタン。ハロウィンのカボチャ提灯。ご存知ですか？　結構カワイくできてるでしょ？」

　素早く取り出したオレンジ色の物体は、なるほど台所スポンジをでこぼこをつけて丸く切り抜き、さらに目と鼻と口を切り抜いてある。隣のテーブルではよく見えなかったが、大きく三角形に笑った目と口は、カワイイというより少し不気味だ。もともと、ハロウィンのオバケの一種なのだから怖いのは当たり前だろうが。

「あれ、あんまりお気に入りじゃないみたいですね。それじゃあこんなふうに、握って隠しちゃいましょうか」

　片手の握りこぶしにぎゅうぎゅうとスポンジの端を詰め込む。オレンジ色のやわらかい切れ端はたちまち、男にしては小さな手の中に見えなくなる。

　セリフと持っていき方は違うが、どうもやることは同じらしい。おれは少しげんなりする。途中まではさっきも見たし、今はだまくらかされて、すり替えられて笑えるような気分でもないのだ。

　そんなおれの気配を察したのか、マジシャンは「どっちでしょう？」を省略した。そもそも、二人以上のギャラリーのための話術なのかもしれない。

「ではしまったところで開けてみましょう、はいっ。あれ？」

　開いた手のひらには、どちらにも、スポンジは載っていなかった。

「あれれ、どこ行っちゃったんでしょうね？　おかしいな。商売道具だからなくなると困っちゃうんだけど、ちょっと失礼」

　言いながら、おれの頭の上から肩、ジャケットのポケットなんかを探り出す。そしておれの左手を馴れ馴れしく取って、

「ああ、ここにありました」

　上向けた手のひらにマジシャンのを重ね、何気なく開く。そこにはスポンジではなく、本物のカボチャが載っていた。

　皮が緑色の日本のカボチャじゃなくて、皮も果肉もオレンジ色の西洋種を、ごく小さく手のひら大に育てたものだ。

　マジシャンが指先でくるりと回すと、くりぬかれた穴からやわらかいオレンジ色の光があふれる。まさかこの大きさで中にロウソクが入っているはずはないが、豆電球か何かを仕込んであるのだろうか。

　覗き込もうとすると、ひょいと取り上げられた。マジシャンはテーブルの上に車輪のついた金属の輪を載せ、そこにカボチャをはめ込む。

「はい、シンデレラのカボチャの馬車」

　指し示して、マジシャンはにっこり笑った。このカボチャには、オバケの凶悪な目鼻ではなく、十字格子のついた馬車の丸窓がくりぬいてあったのだ。

　思わず向かいのテーブルを見る。隣のテーブルには、典型的なカボチャ提灯が三角の口で笑っている。その隣のテーブルも、向こうのテーブルにも。周囲はきっちりハロウィンで、どうやらおれの席だけがシンデレラらしい。

「こちらのほうがお好みかと思いまして」

　好みといわれても、この馬車に乗るべきシンデレラは、裸足のままおれの前を駆け抜けてしまったのだが。

　見上げたマジシャンの営業スマイルからは表情が読み取れない。

「……シンデレラが、いないんだけど」

　ぽつり呟くと、マジシャンは笑ったままで動きを止めた。やや間を置いて、

「そうですねえ。きっと、自分の足で走ってるんですよ。脱げた靴にも構わないような豪快なシンデレラで、足も馬車に乗るよりよっぽど速いんです」

　妙な言い逃れをする。口からでまかせなのだろうが、何やらばっちり符合していて、おれは思わず苦笑する。

「じゃあこれは、シンデレラの馬車じゃない？」

「いえ！　これはちゃんとシンデレラの馬車です」

　意地の悪い問いに、マジシャンが躍起になって切り返す。

「だって、シンデレラのための馬車があることを彼女は知っていますから。足が速いから、乗らなかっただけで。まあ疲れるようなヤワな彼女じゃないんですが、万が一走り疲れたときに馬車があるってことは憶えてて。裸足が擦り切れても、途中に給水所がなくっても、スタート地点に残してきた馬車のことを思い出して頑張れるかもしれない」

　滅茶苦茶なシンデレラだ。靴を落とした挙句にマラソンまでしているのか。

「だからこれは、他の誰でもない、足の速い裸足のシンデレラの馬車なんです」

　真顔で、マジシャンは駄目押しした。

　あまりに真剣な目をするので、逆におれはぷっと吹き出した。同じタイミングで、マジシャンも吹き出す。おれたちは顔を見合わせて、あまりのくだらなさにひとしきり笑った。

「きみは芸人志望？　マジシャン君」

「いいえ。オレは魔法使いのハルミです」

　マジシャンは即座に突っぱねたが、営業用スマイルがいつのまにかあどけない笑いにすり替わっている。

「ねえもしよかったら、この馬車もらって帰れないかな？」

「駄目ですよ。オレの商売道具……じゃなくて、足の速いシンデレラの馬車ですから、お客様には差し上げられません」

　おれのふとした思いつきも容赦なく却下して、マジシャンはニヤリと笑う。

　それはそうだ。この馬車はシンデレラだけを待っていて、魔法使いやネズミの御者のものじゃない。

「そうかい。じゃあ、ここに置いて行くよ。ごちそうさま」

　おれは十一杯目の失恋杯を乾して、立ち上がる。マジシャンは子供じみた仕草でひらひらと手を振った。

　会計を済ませて振り返ると、無人のテーブルでカボチャの馬車はひっそりオレンジの光を放っている。裸足のシンデレラが戻ってくることはおそらくないだろうが、窓の薄明かりはきっと走り続ける彼女からも見えているのだろう。

Fin.