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て

わ

い

た

幸

運

の

よ

う

に

　視界を縦長に寸断するビルもなければ、うんざりするほどいるはずの他人も、前方不注意の車も通らない。それどころか、そもそも踏みしめているはずの地面の感触すらないのだ。

　おいらはたった一人、何にもない、薄青いような灰色のようなぼんやりした空間を、前も後ろも上も下もわからずに歩いている。

　もうどれだけ歩いてきたかわからない。

　飲み過ぎた酒のせいでおかしな世界に迷い込んでしまったのか、それとももともとこういう世界にいたのか、それさえもわからずにおいらはただ足を決まった形に動かしていた。

　ぼうっと霧みたいにかすむ頭の片隅で、それでも足を止めてはならないと、必死に思っている。

　体は恐らく、ぐったりと疲れているはずだ。

　おいらが雇ってもらっているジュエリー工房の、奥様が主催するジュエリー・サークルの展示会をやるというので、その準備にここ数日ばかり馬車馬のようにこき使われていた。

　ジュエリー・サークルなんて大仰な名を名乗っても、おいらに言わせりゃ単なる有閑マダムの暇つぶし、おしゃべりサロンに他ならない。勿論ジュエリーに関してはまったく素人で、展示会などと言ったら幼稚園児のお遊戯会みたいなものだ。そのうえ、あんの上流階級の奥様方ときた日にゃあ、それこそ幼稚園児並に企画力がなくて、会場の手配、案内状の発送、展示品の搬入手段の確保、照明を含むディスプレイ、芳名記録帳と横に添える筆ペンの購入に至るまで、気がつけばおいらの仕事になっていた。

　連中が毎日集まってやったことと言えば、あの作品を出さなくちゃ、それは初期の作品だから恥ずかしいわと、大した数もないくせに、芸術的に何の意味もない、世辞と呼ぶも滑稽な品評会。勿論、おいらがまめまめしく準備した紅茶と茶菓子をつまみながら、だ。奴らが「準備」と称してこうも連日集まらなければ、おいら一人でよっぽど早く準備を進められたことは間違いなんだが。

　いやしかし、哀れむべきは我が事務処理能力の優秀さと、ぴーちく無駄なおしゃべりだけが得意技のわがままマダムズに対しても軽蔑を露にせずにこやかにサービスする、海のように広いおいらの心である。ジュニア・ジュエリーマスターの試験に向けて精魂込めなければならないこの時期に、何だってこんな連中のお守りをしてやっているのだか。

　人より才能に恵まれるということの不幸は、凡人には到底わかるまい。ほんの少し、神に愛されすぎたがために、幸福の王子のように不幸な境遇なのだ。

　こんな日々だから、マダムがそっと握らせるわずかばかりの小遣いをフトコロに、よろよろと油の染みた暖簾をくぐる赤提灯の屋台が、おいらの唯一の心の止まり木さね。フ、どうにもこうにも、おでんのカラシが目に染みていけねえや。おやじ、酒をもう一杯。それから砂肝、噛みごたえのぎしぎしっとしたところを選んで刺してくれよ。

　ああ、いつかは、ベネチアングラスにブランデーを傾け、毛足の長い猫を抱き……いや猫だったら今でも撫でられるんだが、ありゃあ大家さんちのミケだしな……バスローブでロッキングチェアにくつろぐふさわしい暮らしを。傍らには当然、ボディコンシャスなお姉ちゃんが外せないぜ……おみ脚ラインのチラリズム、ロングスカートのスリット入りがおいらの好みだな。胸元にも指先にもゴージャスかつデリケートなジュエリーを光らせて。勿論デザインは天才・飛島一の手になるものでだな。

　なんて、延々とはかない妄想をたどりながら、二級酒の杯を重ねたのがよくなかったらしい。

　気がついたらこんな地の果て、この世の果て、果てちゃって地平線も水平線もないようなところへ迷い込んでしまった。

　これ以上歩いたところでどこへ行くともわからないし、足が蹴る地の感覚もないのだから、どこへなりとも進んでいるか怪しいもんだが、おいらはとにかく歩みを止めることが出来なかった。

　ひとたび歩みを止めてしまったら、それこそこれまで歩いてきた方向もわからぬ底なし沼に引き込まれるような気がして。……正直なところをぶっちゃっけてしまえば、怖かった。

　それでおいらは歩き続けていた。人生、いつだってそんなもんだ。おいらくらいの選ばれた人間ともなると、もはや逃れる術もないほどに。

　そうして歩くことには何のためらいもないが。

　いったいいつまで歩けばいいのだろうなあ、くらいの弱気になることはある。

　おいらはさっきから、いったいいつまで歩けば、この何もない空間を抜けて、あの懐かしい赤提灯に帰り着いて休むことができるのだろうかと、ぼんやりした頭でしきりに考えていた。

　だってここは、行けども行けども薄青い、地面さえもないような実に張り合いのない空間で……おいらにいったいどうしろっつの、まったく。

◆

「あんた、何だってそんなとこを歩いてるのさ？」

　突然、声が降ってきた。頭上から。

　驚いて見上げると、頭上わずか一メートルばかりのところに、人の顔がある。顔には当然のように首が伸びて肩につながり、胸から胴、胴から腰、腰から脚へ。そしてその足先に、つまりおいらの真上になるわけだが、茶色の湿った土が載っている。

　どういうことだ？

　おいらとはちょうどさかさまの位置に、人が立っていて、しかもその足元に地面があるだと？おいらの足の下には何にもない、というのに。

「だから、あんた何だって逆立ちして空なんかを歩いているんだってば」

　頭の上の奴が、重ねて言った。

　するとおいらは、空を歩いているというのか。しかもさかさまに。そんなバカな。

　おいらは状況を把握するなり、真上を向いて言い返してやった。

「何だとう！おいらから見れば貴様のほうが空を歩いててさかさまだ。そっちこそ、何だってそんなところを歩いていやがる！」

　頭の上の奴は、目をぱちくりさせ、それから歯を見せて苦笑した。

「それもそうだね。たしかにねえ。

　でもそっちはホラ、髪も逆立っちゃってるし、踏みしめる地面がなくて不便でしょうに。あんたさっきから同じところで足踏みしてるじゃない。それくらいならこっちへ来たらどう？って言おうと思ったんだけど」

　むう、おいらは足踏みをしていたのか。言われてみれば、おいらのトレードマークの銀髪も、まるでセーターでこすった下敷きに吸い付けられるように逆立っている。足元は薄ら寒くて、やけに頭に血が集まっている気もするし。途端に自信がなくなって、おいらはぐっと言葉に詰まった。

　頭の上の奴は、おいらのしおれるタイミングを計ったように、やわらかい笑みを浮かべた。頭上から、随分と華奢な手を差し伸べる。

「だから、こっちへ来ませんか。俺がちゃんと支えるし、大丈夫」

　阿呆なことを言うな。そんなひょろっこい腕に支えられるわけがないし、だいたい、おいらにとってはこっちが地面、そりゃあ踏み応えは一向にないが、地面だと確信しておいらの全身全体重をかけているんだっつの。

　ムッとして睨み上げてみたが、ひるむ様子はまったくない。暖簾に腕押し、ぬかに釘、てな感覚のへらへらした笑顔を返されるだけだ。

　む、このまどろっこしい感触はどっかで味わったことがあるような。

「大丈夫、ほんの少し強く、足の下の空を蹴っていただければ。俺の細腕で支えるのが不安と言うなら、これでどうでしょ？」

　そいつは相変わらず笑ったままで、懐から白いハンカチーフを取り出した。両手で端を持ち、いっぱいに広げて、トランポリンよろしくはためかせる。

　あのなあ。いくら大判のハンカチーフとは言え、おいらの身体がそんなもので支えきれるか。それっぽっちの面積にはおいらの身体が収まるわけがないし、だいたい、トランポリンを支えているのは相変わらずの細腕じゃねーか。

　それに言わせてもらえば、おいらの足元には蹴るほどの充実した空もないのだから、まかり間違っても細腕を信じてみる気になったとしても、何をどうしてよいやらわからない。

　だが頭の上の奴はまったくお構いなしで、あろうことかカウントをはじめやがった。

「行きますよ、いち、にいのー、さん！」

　何ともたまげたことに、甲高い掛け声に合わせて、おいらの身体はふうっと頭上に吸い込まれた。感覚的には、頭上に落下したと言うべきか。

　そしてすぽりと、ハンカチーフの中にくるまれて、丸くなった弾みにぐるりと一回転した。

　と言っても、おいらがそうと思ったのは感触だけの問題だから、客観的にどう見えていたかは保証しがたい。とにかく白いものが身体にまといつき、おいらの視界を覆っていた。

　目の前の白い布をようやくはらい除けてみると、おいらの足の裏は、今度はちゃんと茶色の地面のに着地していたし、今度は頭上ではなく目の前に、何も考えていなさそうな顔が笑っていた。

「ね、ちゃんと受け止めたでしょ？」

　にこにこと子供っぽく笑ったそいつの顔は。

「ああっ、ミキモトのプリンスのお稚児さん！」

　そいつは笑ったままで、微妙に首をかしげた。

「あー。そういうふうに憶えられてましたか。参ったな、どうも」

　それから広げたままのハンカチをたたみ、気を取り直したように、再びの営業用スマイル。

「俺もあんたのことは憶えてますよ。

　ジュエリーデザイナーの、とびしま……はじめさんでしょ」

　いかにも、とおいらは胸を反らせた。おいらの肩書きと名前をきちんと記憶しているとは殊勝な心がけだ。うむ。しかし、こいつの名前はなんだったっけか。

　首を捻るおいらの目の前に、ずいっと伸び上がった顔が笑いかけた。邪気のない、それでいて妙な迫力のある……そうだ、この笑い方だ。

「俺はハルミ、マジシャンのハルミです。憶えていてくださいよ」

　おいらはらしくもなく、無言でこっくりと頷いた。

ｎｅｘｔ．