真夏の日差しはさんさんとまぶしく降り注ぐが、それよりもなお、あざやかに目を射る。小柄な彼の、動き、表情、瞳の強い光。

　彼を囲む人だかりを透かして、通りすがる誰もがふと目で追っている。

　きっと、あいつみたいな、奴なんだろな。

　あいつ。クラスでいちばんのチビの癖に、やたらと態度がでかく、大声でよく笑う。自信たっぷりの真っ直ぐな眼差しと、体格に似合った子供っぽさの残る笑顔は、大柄なクラスメイトに紛れていても不思議に目を引いた。

　朝、教室に入って、真っ先にあいつの居場所を確認するのが、いつのまにか俺の習慣になっていた。今思えば、たしかにそれは習慣だった。

　知らず漏れたため息に、所在なくその場に立ち尽くす。

　練習着を詰めたスポーツバッグを斜めがけに担いだ背中を、汗が伝うのがわかった。日中の気温は体温を超える。それだけクソ暑ければいくら海風が吹いていたって、体感温度が変わるものじゃない。

　今年は冷夏だなんて、誰が抜かしやがったんだ、クソ。

　連日の、このあつさ。

　俺は既に相当参っている。昼間は体が熱くてクラクラするし、夜も幻覚のような夢に浮かされてばかりで眠れない。油断すれば、その悪夢は予告なしにフラッシュ・バックする。

　元凶はわかっている。

　紛れもない、あいつ。

　期末試験の終わった土曜日、野球部の一年は恒例の新人強化合宿に連れて行かれた。

　合宿といっても一日きり、練習も学校のグランドで、夜は近くの市民集会所雑魚寝する。試験の採点や成績評価があるからと顧問さえもついて来ない。近所の体育大生だというコーチが、ほとんど筋肉と化かした脳みそに新入部員の顔と名前と特性を記憶させるために、企画していることらしい。

　特段楽しいイベントがあるわけではないが、ランニングと球拾い以外の練習をさせてもらえること、口うるさい顧問や先輩の目がないこと、うまくすればコーチの目にとまりレギュラーに抜擢されるチャンスもあることで、みんなどことなく浮かれていた。

「オレさ、コーチのガンサン結構好きだな」

　学食のカツ丼をバクバク口に放り込みながら、声を潜めるでもなく言ったのが、あいつ。

　クラスメイトで部活も同じ、フルネーム、中野新。

　体は小さいくせに声がでかく、しゃべりながらなのに、恐ろしく早食いだ。噛まずに全部飲み込んでるんじゃなかろうか。

「頭の容量足らなっぽいけどさ、うるさいこと言わないし、なんだかんだ野球のことはわかってるし。いいプレーちゃんと見ててくれんの、ガンサンだけだぜ。

　今日明日の練習で頑張って、この夏はベンチ入りしてぇな〜」

　苗字の丸山を音読みに、部員たちにガンサンと呼ばれているコーチは、デカくてゴツくて、お世辞にもイイ男とは言えない。俺の認識するところ、良くも悪くも体育会系そのまんまのあんちゃんだ。

「へー……。ああいうのが好みなんだ」

　口の中のイカフライを飲み込んでから、俺が相槌を打つと、中野はでっかい目ン玉をひんむいた。

「はああ？おまえ、ナニ言ってんの？」

　懐疑の眼差しに見上げられて初めて、俺は自分が妙なことを口走ったことに気がついた。大の男、それもあんなゴツいのをつかまえて「好み」なんて発想は、フツーはしない。

　やべー？

　しかしそこへ、ありがたい中断が入ってくれた。

「っス！ナカっち、イノっち、ここいいかー？」

「お前らＤ組はいっつもホームルーム短くていーなー。も、オレ、腹減って」

「オレは英語の鬼問題で食欲ねぇよ〜……」

「その割にライス大盛りじゃねえか、原田」

Ｂ組の野球部連中だ。４人が次々と、俺たちのテーブルにランチトレイを置く。

　期末試験が終わったので、生徒達の大半は遊びに出かける時間帯。学食に来ているのは、試験最終日の午後から練習のある奇特な部活の連中だ。

「ナカっち、英語の長文、最後答え何書いた？」

「うわ、ナカっち言うな〜！！聞きたくね〜！！」

　中野は頭も切れる。この県立トップの男子校で、成績もかなり上位の方だ。

「さ〜て、何でしょ。悪いけど、オレ今、野球のことでいっぱいよ。レギュラーかかってるからね〜。

じゃ、先行ってグランド整備して、コーチの点数稼いどくわ！」

　中野は最後の一口をみそ汁で流し込み、さっさと立ち上がった。後から来た連中はともかく、一緒に食べ始めた俺もまだ半分ほどしか食べていない。ち、丼ものとフライセットでは分が悪かったな。大体、学食のイカフライは硬すぎなんだよ！

　スキップでもしそうな勢いで去っていく後ろ姿を、オレたちはぼけっと見送った。

「ナカっち、メチャクチャはりきってんな」

「チビのくせに、色黒くなったし、野球選手らしくケツでかくなってきたしね〜、最近」

「アラ寺本さん、オバチャンみたいよ、男のケツなんか見ちゃって〜」

「何をゆー、野球選手のケツは命だ！オレのケツを見ろ！」

「見たくねえよ、ただのデブケツだろ」

　あ、ほんとだ。中野のケツ、前よりでかくなったような……。

「何よ、イノっち、無口じゃん？ひそかにライバル心？」

　隣に座った原田に覗き込まれてハッとする。俺の視線は中野の出ていった出口に固定されていた。

「そ、チビに負けたくないからね！俺も行く！」

　慌てて立ち上がった俺のトレイには、まだメンチカツが残っていた。

　練習の後は、皆で連れ立って近所の銭湯へ行った。市民集会所にはシャワー室なんて洒落たものはないのだ。

　もともと暑さに弱い俺は、今日の炎天下での練習にバテまくっていた。銭湯までの道すがら、重い足をひきずる俺の目の先に見えていたのは、スポーツバッグに見え隠れする、中野のケツ。ガンサンの正真正銘でかいケツと並ぶと、やっぱりチビだ。

「コーチ、腹ペコっす！何か食っていきましょうよ〜」

「ダメだ。集会所でお母さん方がカレー作ってくださってるんだ。風呂入って、まっすぐ帰る！」

「どーせウチのお袋とかでしょ、気ぃ使うことないですよ」

不用意な発言に、ゴツっと鈍い音。ガンサンのゲンコが中野の頭に飛んだらしい。視線を上げると中野が両手で頭をさすっていた。

　元気なヤツ。まるでガキみてえ。

　俺はのろのろと歩き、ほとんど顔も上げないまま入浴料を番台に置き、服を脱いだ。体を洗い、湯船に浸かってから、ようやく人心地ついた。

　集団風呂、それも１学年とコーチだけ気楽さで、他の部員達ははしゃぎまくっている。大声で笑い、裸で叩きあい、夕飯前のまだ早い時間帯、普段は静かであろう浴場は十数人の高校生に占拠され、動物園を連想させるような大騒ぎ。

　しかしまあ、奴らの練習後のハイテンションはいつものことだ。場所はファーストフードの２階だったり、ラーメン屋だったりするのだが。そして、疲労でぼーっとしている俺もいつもどおり。

　あー、俺って根性ない……。

「イーノっち！」

　人心地はついたが、風呂の気持ちよさにぼーっとなっていた俺の顔面に、不意打ちの水鉄砲。振り払って正面を睨むと、子供っぽい笑顔がにたにた笑っている。

「中野、てめ……」

やりやがったなぁ〜！叫んで、中野の頭を両手で掴み、湯船に押し込む。俺は、水鉄砲なんて器用な真似はできないのだ。

　と、今度は背後から伸びてきた手に、俺が湯船に押し込まれた。

　この日の銭湯騒動のクライマックスは、どうも俺が招いてしまったらしい。体を洗い終わって仲良く湯船に並んでいた部員達は、そっちでこっちで押し込み合いを始めた。潜らせるのはほんの数秒だが、体ばかりはでかい男ども十数名が代わる代わるこれをやると、湯面がザブザブ波立った。

　大概のことは黙っているコーチの怒鳴り声が浴場に響くまでの５分ちょっと、俺たちはモグラタタキｉｎ銭湯を続けた。

　結果、湯船を這い出して洗い場に転がったモグラが３匹。茹だったのだろう、全身を真っ赤にして冷たいタイルの上をのたうっている。大食いの原田と、ケツのでかい寺本、それにちっこい中野。

　その中野を見て、俺はドキッとした。

　うつぶせに転がり、ちょっとシャクトリ虫のようなポーズの、こちらを向いて持ち上がった尻だけが、妙にくっきりと白い！

「……なんだ、ナカっち、そのケツ？」

「うぅ〜？」

　湯気を逃れるように、シャクトリ虫がグロッキーに蠢く。

「ナカっち、先週末湘南行ったっていうから、日焼けだろ」

「ぐはは、パンダみて〜！逆パンダ逆パンダ！」

部員達がどっと笑い、コーチが２度目の怒声を上げ、すごすご脱衣所に引き上げていく間、俺は湯船にしゃがんだまま動けなかった。シャクトリ虫と化したモグラどもも、へろへろと上がっていく。

「何だ？猪口も早く上がれ」

　戸口からコーチに急かされて、俺は無言でこくこくと頷いた。頷きながら、頭に血が上っていくのがわかった。

　……ヤバイ……たぶん確実に、勃ってる。

　その夜から俺のあつさ負けが始まった。

　夕飯のＰＴＡカレーも１杯を食べるのがやっとで、４杯５杯もおかわりする連中を横目に見つつ、皿をずっと匙でいじり続けた。コーチとのミーティングも上の空だったし、モグラタタキ敗者リベンジの枕投げにもほとんど参加せず、隅の方で流れ弾にやられていた。

　そして、生まれて初めて寝付けない、という経験をした。

　スイッチが切れるように眠りに落ちていく周りの連中を不思議に見回しながら、気づけば最後の一人になっていた。

　びっしり布団を敷き詰めての雑魚寝で、隣で寝ているのは、何故か中野だった。

　小さいくせに大の字になって、天下泰平といった表情で寝ている。天井を向いた横顔は、いつもの自信たっぷりの目がゆるく閉じられて、本当にあどけない。

　タオルケットは腹をわずかに覆うだけで、はしの捲れたＴシャツと、ややずり下がったトランクス、腰骨のあたりに、薄闇にも光を集めてしまう、日焼け跡のくっきりした境界線。

　……いかん。

　俺は中野に背を向け、タオルケットを頭からかぶったが、奴の子供じみた寝息が耳についた。イビキのうるさい奴もいるのに、こいつの高い寝息のほうが妙に気になってしまう。

　結局、寝不足のままに翌朝の練習に望んだ俺は、貧血を起こしてお昼前に強制送還となった。

　そして迎えたのが、本日夏休み第一日目の部活なのだが。

　このクソ暑いのに、午後練かよ……。

　その上、どこかあいつ似た、ちっこいくせに自信たっぷりそうなあんちゃんが、俺の通学路でパフォーマンスしてるし。

　あれから一週間経つのに、見る夢は毎晩同じだった。横になって、寝付かれないままトロトロまどろんだところに、フラッシュ・バックするのは、あのくっきりとした境界線。すると瞬間的にバチッと目が覚めて、また寝付かれなくなってしまう。

　正直、この状態であいつに会うのは、かなり憂鬱だった。

　あいつに見透かされや、しないだろうか……？

　見るとはなしにパフォーマンスのあんちゃんのほうを見ると、自分の野球帽からハトを出すところだった。

　何だ、パフォーマンスじゃなくてマジシャンか。それにしても、今時ハトなんて、レトロなのやるね……。

　思いながらもつい、真っ白なハトが青空に吸い込まれていく光景をぼーっと見送ってしまい、視線を戻すと、マジシャンのあんちゃんと人垣越しに目が合った。

　素直な俺の反応を見て、あんちゃんがニヤッと満足そうに微笑する。

　……この、人を食ったような、なのに子供っぽい笑い方！あいつのことを考えていたことを、見ず知らずのあんちゃんに見透かされた気がして、俺は狼狽し、同時にムッとした。

　くるりと踵を返す。

　そのままスタスタ、スポーツバッグを担いで、俺は振り返らずに歩き出した。

　誰が何と言おうと、絶対に振り返るもんか。ずーっと歩き続けてやる。すごい勢いで！

　いったい何に、何故なのかもわからないが、俺は相当頭に血が上っていて、そのときは心の底からそういう勢いだった。