例のマジシャンに背を向けた勢いで、全然違う方向へ歩き続けてしまったのだ。海沿いをずっと、人通りの多い公園を過ぎ、車通りにぶつかったところで、今さら引き返しても遅刻だと気がついた。

　遅刻するくらいなら、いっそサボってしまうほうが気は楽かもしれない。何というか、練習の始まっている灼熱のグラウンドに入っていく自分を想像すると、気が滅入る。

　それよりはこのまま行かないほうが、先週の合宿は強制送還になっているし、夏バテで倒れている、と思ってくれるかもしれない。休むほどではないにしろ、夏バテは事実だし。監督やコーチの覚えは悪いだろうが、進学校のなんちゃって野球部でレギュラーを目指すわけでなし。

「何だ、イノっち、来ねえぞ〜？」

「先週のガンサン合宿でダウンしたって」

「それでそのまんま寝込んでるワケ？」

「……まさかうちのお袋のカレーがアタったんじゃないだろな〜！」

勝手な憶測で笑い合う部員たちと、自ら茶化しておいてふっと表情を曇らせるだろう、中野の顔が浮かんだ。

　……やっぱり、行くのヤメタ。

　俺はその場にしゃがみこんだ。途端に銀色の小さな虫が視界を舞う。やはり、夏場の寝不足は効くな……。

　家に帰って速攻寝ようかと思ったが、こんな時間に帰ったのでは親に怪しまれる。サボリがバレるのはともかくとして、根掘り葉掘りうるさく詮索されるのが面倒くさい。第一、昼間っからグーグー眠れるのであれば、こんなことにはならないのだ。

　夕方までどこかで時間を潰すほうがよさそうだ。

　どこへ行こう、考えながら立ち上がった途端、視界全体をきらびやかな銀色が覆った。立ちくらみの、スゴイやつ。しかもなかなか帰ってこない。

　どうにかモザイク的に風景が戻ってきたところで、通行の妨げにならぬよう、道の端へ寄る。よろけたはずみに植え込みに踏み込んでしまい、俺はそのままそこに転がった。夏だけにこんもり茂った青葉の影と、土の意外にひんやりした感触。

　信じられないことだが、俺はそのままそこで眠ってしまったらしい。

　例の残像……あいつの尻の日焼け跡が唐突に浮かんで、俺は発作的に跳ね起きた。ツツジの枝が頬と額を叩いた。

　あたりは既に薄暗い。日没直後なのだろう、日中の余熱みたいなものがあたりを満たしている。汗をグッショリとかいていて、喉がカラカラだった。鉛をつめこんだみたいに、思考の通わない頭がどんより重い。

　ぼんやりあたりを見渡すと、不思議な光景が目に入った。

　植え込みと海を隔てる細い柵の上に、西日を背景に人影がある。両手をだらりと垂らしたまま、何かに操られるような足取りで、今にも柵から足を踏み外しそうに……。

　よもや、身投げ？

　思いつくと、俺はとっさに飛びついていた。まだ柵に残っている片足に抱きつき、ふらついて声も出なかったが、目の前で身投げなんてよせという願いを込めて、上体を後ろに反らす。身投げをしようとしていた人物は一瞬わたわたと動き、それからバックドロップをくらったような勢いで、背後の植え込みに落下した。

「って〜！いったい何だよ〜！」

がばと元気に跳ね起きた身投げ君は、見覚えのあるマジシャンだ。

「……あ？あんた気がついたんだ？」

俺を見て、知っていたような口をきく。俺の存在を知っていたのだったら、

「……人の目の前で身投げなんか……っ！」

日本海でも冬の海でもなく、都市観光地の半端な海で、落ちても絶対死なないような半端な高さで、身投げをするなっ！本当は全部言ってやりたかったのだが、最初の一声で声が掠れ、あとはガラガラとただ喉が鳴った。

「はあ、身投げ！？」

身投げマジシャンは瞬間ポカンとし、それからくっくっと笑い、やがて植え込みを転げ回って笑い始めた。

「や、悪かった、悪い。そじゃなくて、空中歩行のネタ、練習してたんだよ。手品手品、ほらピアノ線……っと、ネタばらしちゃまずいか」

　ナニ？手品？そういえばこいつ、マジシャンだったっけ……。

「人目につくところじゃ練習できなくて、このへんなら人通りも少ないし、植え込みのこっちなら見つからないかな〜と思って、２〜３日前からここ使ってたんだけど……今日はあんたが行き倒れてたんだ。忘れてた」

　じゃあつまり、身投げじゃないワケ……。

「気がついたら、ハイ、これ飲んで」

　バックドロップを決め崩したまま座り込んでいる俺に、マジシャンがペットボトルのスポーツドリンクを差し出す。たしかに喉の粘膜がひっつきそうに渇いて、さっき言おうとした言葉が全部つかえていた。

　１．５リットルのボトルに口をつけて、なまぬるいそれを一口飲む。喉のつかえがようやく治まる。

「や、全部飲んで、全部」

　そんなに飲めるか！と思いつつ、半分近くを一気に飲みほすと、頭の鉛も薄れてきた。

「あんたさー、寝るならちゃんとウチ帰った方がいいよ。真夏にこんなところで行き倒れなんて、下手すると死ぬよ、まじ。

　……で、立てる？」

　立てる何も、別に行き倒れってわけじゃ……言いかけて、ぐるりと世界が回った。どうなっているんだ？

「飲めるならもう少し飲んで、ここで大人しくしてな。家このへん？タクシーつかまえてくるから」

　マジシャンは茂みを出ていき、ほどなく戻ってきた。へたりこんでいる俺の脇の下に潜り込み、よっと気合いを入れて俺を立たせる。車道にはドアの開いたタクシーが停まっている。

「すみません、この住所わかります？……ええ。お願いします」

　マジシャンはいつのまに持っていたのか、俺の生徒証を運転手に見せた後、俺のバッグにつっこんだ。俺が一言も発しないままで、車は走り出した。

　次に今度こそ目が覚めると、自分のベッドに寝ていた。いつのまにか、パジャマに着替えている。

「気がついた？」

覗き込んでいるのは、人を食ったような笑いの、マジシャン。

「お母さんがいてくれてよかったよ。今、下でご飯の支度してる。

　俺はあんたの友達ということで、夕飯をごちそうになってきます。不都合ある？」

　状況を把握できていない俺に、簡略な説明。しかし、こいつは本当に何者だ？

「同級生に見えるらしくて、説明の手間が省けたよ。ただの通りすがりの宿無しのマジシャンでフリーターです、ってもアヤシイだけだもんなあ」

　イスノ背を股に挟むようにして座ったまま、マジシャンはクルリと回転した。

「でさあ、ついでに泊めていただけると助かるんですけど。まじ、宿無しで。熱帯夜はクーラーあるとこで寝たいのよね。夏だからって、水飲み場のシャワーもしんどいし」

　ぺらぺら流し込まれる内容を、俺は順を追って考えた。午後、部活へ行く途中、正しく言うとサボろうとした矢先に、貧血もどきを起こし、気がついたらこいつに介抱されていて、どうやら家までタクシーで送ってもらったらしい。で、母さんはこいつを同級生かなんかと思いこみ、お礼に夕食を作っている。

　そのうえ、泊めて欲しいと言い出しているのだ、こいつは。何で？

「反応鈍いね。大丈夫？目ぇちゃんと醒めてる？

　最近あんま寝てないでしょ。隙あらば気絶状態で睡眠取ってる。俺も暑さで眠れない日続くけど、眠いときはちゃんと睡眠取るよ、体が。あんたのは、なんかヤバイかんじ」

　そうか、こいつ宿無しだから、クーラーのある宿が欲しいのか。宿無しって、ホームレスか！？公園にたまに張ってあるテントの住人なのか？

「ね、不眠治すの貢献するからさ、今晩泊めてよ」

　……そして俺の不眠の原因は。

　脳裏にくっきりと焼き付いてしまった、例のアレ。

「……泊めてもいいけど」

　俺は吐き出してしまうことにした。どうせどこのどいつだかもわからない、これっきりになるだろう奴。

「俺はどうやらホモで、不眠の原因はクラスメイトのケツだ。それでも？」

「ん？別にかまわないよ。サンキュー、イノっち」

　そっぽを向いたままの俺の告白を、奴はあっさりと受け入れた。

　どこで仕入れたのか、俺の学校でのあだ名で呼ばれると、まるであいつに呼ばれているみたいな、妙な気持ちになる。別にかまわないよ、ってどういう意味なんだ？

　母さんのうまくもない手料理を褒めちぎり、我が家の風呂を堪能し、「帰っても一人暮らしだから」という微妙な言い訳で、俺の部屋に客用布団を敷いた。一人息子の俺は友達を家に連れてくるようなことをあまりしなかったので、母さんは妙に喜んだ。

　だからこいつは、通りすがりの他人なんだってば。

　気絶に近い状態とは言え、昼に眠ったせいだろう、体調は比較的良かったが、気分的には気持ちが悪かった。

　こいつはいったい何なんだ？身投げ勘違いのバックドロップに始まり、行き倒れを介抱してもらい、一緒に飯を食って、同じ部屋に寝ようとしている、あかの他人。自覚したばかりには違いないが俺はホモだと言ったのに、かまわないよと笑って、安心して隣で寝ようとしてやがる。

　見慣れた俺の部屋に、他人の呼吸が聞こえているのがやたらと気にさわる。

「おい……」

「ん？……やっぱり不眠？」

「さっきの、どういう意味だ？」

「さっきのって？」

　さっきの、何と言えばいいのだ。ホモでもかまわないということは、ヤってもいいと言うことなのか？とは、さすがに聞きあぐねた。

　俺は黙ってベッドを降り、すぐ下に横たわる奴を見下ろした。

　クーラーの利いた部屋で、タオルケットをくるむように巻き付けて、何だ、というように眠そうな目だけがしばたいている。聞いてやるよ、と言いたげな大人の表情と、何だろう？という好奇心の隠せない子供っぽい目。あいつみたいな。

　俺はみの虫状のタオルケットをはぎ取り、俺の貸してやった短パンに手をかけた。思い切り引くと案外たやすく抜ける。そこにあったものを闇雲にまとめて握りこむと、ウッと呻きが洩れた。

「何、する！」

　かまわず、やはり俺のを着ているＴシャツの裾から別の手をつっこむと、やたら薄い胸とあばらの感触と、内蔵の波打つ温かさが指先に触れた。

「よせって！」

　床に押さえつけた細い肢体が足掻き、女みたいな冷たい手が俺の手や頭を掴んだが、微々たる力だった。手探りで、自分でするようにそろそろ動かすと、一点が硬くなった。途端に他の部分が脱力していく。

　他人にするのなんか初めてだが、生理現象なんてこんなものらしい。ザマミロ、ホモだって生理現象は等しいのだ。

　そのまんま、位置をずらして中指を挿入しようとしたとき。

「イッ、テ！」

　囁くような抵抗ではなく、悲鳴が聞こえた。はっと上を見上げると、まじに怒った眼差しにぶつかって、その瞬間バシンと鼻に拳がぶつかった。

　飛び起きた自分より小さい奴にはね除けられて、横に転がった俺を、蛍光灯が照らした。

「……っざけんなよ、たく！」

　マジシャンは怒っていた。俺にむしられたままのひどいカッコウで、仁王立ちしている。俺は急激に興奮が冷めて、説教を食らう前の怯えモードに切り替わるのがわかった。

　そんな細腕のどこに？と思う力で、胸ぐらを持ち上げられた。

「あのな、お前のはホモじゃなくて、ただの発情だよ！」

　声を潜めるでもなく、吐き捨てる。親に聞こえたら、と怯える俺には当たり前だがお構いなしだ。

「ホモでもノーマルでも、全然ダメ！」

　ごく至近距離で怒鳴られて、俺は本当にしゅんとした。それからどさっと投げ出されて。

「女の子だったら、警察沙汰だぜ、これ」

ブツブツ言いながら、Ｔシャツの裾を伸ばし、拾い上げた短パンを履く。勃ったままのものを無理矢理しまいこんで、奴はどっかと正座した。

「そこ、座りなさい」

　言われるままに、奴の前に居住まいを正す。

「お前のやるべきことは、三つある」

　いつの間にか、二人称が「あんた」から「お前」に変わっている。今更だが、年上なんだろう、こいつ。中野もチビのくせに、同級生をお前と呼ぶが。

「一。自分の体は自分で処理して、夜は寝ること。寝不足では正常な思考回路は望めない！

　一。誰にホモなのかは知らないが、ホモを自覚した上で、まず人間としてつきあうこと。人間としてのつきあいができなければ、ホモもノーマルもその先はない！

　一。俺に今すぐ謝ること」

　偉そうな説教だったが、最もだった。俺は頭を深く垂れた。罪悪感のあまり、声はほとんどでなかった。

「……すみませんでした」

　その頭が、薄い胸にがっしりと抱き込まれた。

「ッカだなー……。ホモで眠れなくなるほど悩むなんて」

　わしわしと、乱暴だが頭を撫でてくれている。髪にこすれる包帯は……たぶん、身投げバックドロップのときの擦り傷だ。俺が気がつかなくて、母さんが手当したんだろう。この人、俺に会っちゃって、本当に今日は災難なんだ。

「好きなら好き、それでいんだよ。男でも女でも。大体そんなことにこだわるような奴じゃないだろ？あいつは」

　言われて俺はぎくっとした。「あいつ」のことを言われたからではなく、まるであいつに言われているみたいな気がしたからだ。

　筋肉質のあいつとは全然違うはずの薄い胸から、聞こえる心音のたくましさは同じで、ふれあったところから伝わる声の振動も何だか近いような気がする。

　……これも、一種の手品なんだろうか？

　ふと聞きたくなったが、どうしても声にならなかった。

　翌日、俺はハルミさんと連れだって家を出た。ハルミさんはバイトに、俺は今日こそ部活に。

　夜グッスリ眠れたし、あいつにもちゃんと会う。

　またいらっしゃいね、と言う母さんの社交辞令に、ハルミさんはくるりと振り返って敬礼し、

「季節ものですから」

子供っぽい笑顔でそう言った。