雲のどんよりと垂れこめた、ぬばたまの夜。何が見えるわけでもない。何が潜むわけでもない。ただ簾を巻き上げ、端近の闇に我が身を置く。手に触れて、異界に近づくかに思える宵闇が、彼女は好きだった。

　豪奢な宿は、しんと静まり返り、物音一つせぬ。他の白拍子たちは、それぞれ屋敷へ呼ばれて出払っているのだ。

　彼女たちは、錦や綾や、金銀珊瑚の品々を頂戴して、明け方宿へ戻るだろう。購いに一晩中舞い歌う者もいれば、肌を許す者もいるだろう。そのいずれをも、静は責めはせぬ。ただ、静は彼女たちとは違う。それだけだ。

　今でこそ、日本一の白拍子ともてはやされているが、神に奉納する舞だけでは日々の糧を得られず、窮々とする頃もあった。それでも、その頃から一度も、静は私人のために舞ったことがない。

　神の前に舞い、祈りを捧げる聴衆の歓声の果てに訪れる、心身が消し飛ぶような浮遊感。あの閃光を浴びてしまった静には、己が舞の神に通ずる道標が見えるのだ。

　舞を納めるにふさわしいとき、ふさわしい舞台でしか、静は舞えぬ。人に所望されて舞うのではない。神の示すところにのみ、舞うのだ。

　だから静は宵闇を見る。人の前にも舞う白拍子、神の前でしか舞えぬ白拍子、その狭間に浮かぶ宵闇を、静はものも言わず凝視する。

◆

　闇が、わずかに息づいた。

　一点を慕うように、目には見えぬ風が流れ集まる。花の香にも似ているが、甘く痺れるような、異界からの風だ。

　静は音もなく立ち上がる。

　闇を蠢く風が、やがて形をなし、手を触れれば届く庭先にわだかまる。雲が切れ、清明な星明りが照らすと、それは人の妖しい立ち姿になった。

「無礼者。白拍子・静と知っての狼藉か」

　鼻先に扇を差しつけると、にっと朱唇をほころばせた。

「あなたを思う余り忍んで来ました。私を拒み、恥をかかせますか」

　冴え冴えと白い、端正な顔立ちには覚えがあった。

　九郎判官、源義経。今日び、都でその名を知らぬ者はおらぬ。その一見なよやかな見目形も、巷にあふれた絵姿からそのまま抜け出たような、否、絵姿よりもいっそうなまめかしく。

　たしかに昼間、後白河院の宴に彼も随行していた。

　評判の白拍子である静に秋波を送る公達は数多いたが、彼の眼差しには覚えがない。それどころか、白拍子たちの好奇の視線を歯牙にもかけず、院の護衛然と涼しのたたずまいであった光景ばかりが思い出される。

　だいたい、今宵の私宴への誘いに彼の名はなかったはずだが。

　身じろぎ一つせぬ静のいらえを、義経もまた時を止めたように待っている。

「判官さま。白拍子を宴に招待するでもなく、庭伝いに忍び込むのは東国の習いですか」

　扇を差しつけたまま、静は高飛車に言い放った。絃のように張った、都の公達であれば恐れ恥じ入る静御前の声色に、義経は小首をかしげた。

「あなたは私宴の招待には決して応じないと伺いました。それに、私は東国の田舎者。宴のしつらえなど皆目わかりません。

　あなたの舞をいま一度見たい、ただそれだけの思いを闇に包ませて参りました。あなたは、お気に召さぬと私を手打ちになさいますか」

　思ったよりも口が回る。それに、肝が据わっている。美しい輪郭を星影になぶらせ、幼くも見える仕草で首を傾け、彼は微笑さえ浮かべているのだ。己が美貌の効果を、知っての仕草に違いない。

　脅したところで埒があかぬ。静は差しつけていた扇を引いた。

「今宵わたくしは後白河院の客、院の覚えめでたき判官さまを手打ちにできるはずがございません。

　ですが、判官さまをお座敷に上げるわけにも参りません。どうぞこのままお引取りください」

　丁寧にお辞儀をする。

　顔を上げると、哀しげな眼差しにぶつかった。

　この人は、ほんとうに刹那の衝動だけでここへ来たのだ。静の風聞への興味でなく、己の地位と栄誉を誇示するためでもなく。ただふっと、静が己が舞うべき舞台を見出すように。

　或いは、彼もまた神の示す道標を歩む者なのか。

　星を映す瞳にほんのわずか、静が心を許した刹那。

　義経は大胆にも濡れ縁に足をかけた。座敷に上がられ、危うく胸に抱き込まれそうになり、静は飛び退って扇を差しつけた。

　睨み据えると、義経は妖しく微笑していた。

　静の扇に、自らの扇を十字にあてがい、静が押せば引き、静が引けば追って来る。閉じた扇を剣のように結び合わせ、二人はいつしか舞っていた。

　宵闇に静の緋色の扇と、義経の白い扇とが弧を描き、音もなくすれ違う。舞はやがて激しく、ときに緩やかに、舞手の魂を翻弄する。ひたりと黙り込んだままで音曲もなかったが、見交わす瞳が光の尾を引き、はずむ胸のうちでことことと鼓が鳴り響く。

　神のための舞台もなく、衆人の祈りもなかったが、ただ二人きりの舞を嘉納するために神が降りてくるのがわかる。

　不意に訪れる、舞の絶頂の浮遊感と閃光。一度拒んだ胸に、静は舞い疲れた身を投げた。

「あなたはやはり、あの方に似ている。

　同じ光に包まれている」

　抱きしめられた胸の温もりを通して、義経が囁いた。

◆

　そのまま静は義経の京の屋敷に連れ帰られた。

　京にも各地にも、義経が通う女たちがいるのは知っていた。が、屋敷にはそれらしき女の姿は一人も見えず、郎党が驚いたように静を見た。

「気にするな。私が女性を連れ帰るのははじめてなので、みな珍しがっているだけだ」

　少し意外な話だった。平家を撃ち滅ぼした源氏の英雄、後白河院の覚えめでたく、姿かたちも美しい若武者と、都中の噂の的である。一夜限りから数夜にわたる逢瀬を契った女たちの噂も耐えない。

　だがたしかに、後白河院にあてがわれたという屋敷には、およそ女の住まう華やぎは感じられず、むしろ質実剛健な空気が流れていた。義経という人物の真実は、噂ほどに派手やかではないのかもしれない。

「むさくるしい男所帯で呆れたかもしれないが。必要なものがあれば言いなさい。できうる限り手配しよう」

　京の姫君や公達の住まいに比べれば、何の飾り気もない、恐ろしく簡素な住まいである。だがあの洒落ものの後白河院が、気に入りの者に屋敷を与えるのに、豪奢な調度をしつらえないわけがない。だとすれば、この何もない朴訥な光景が、義経の望んだ空間に違いなかった。

「何も、要りませんわ」

　静は周囲を見回し、穏やかに答えた。

　床の間には野から摘んできたような花が生けてある。この屋敷はどんなに趣向を凝らした舞台よりも、はるかに天のきざはしに近い。静にはそう思えた。

　日毎、義経は違う花を摘んで静を訪れた。

　花ではなく、ただの笹の枝や木の実のこともある。名もない草木を誇らしげに捧げ持ち、微笑む顔はまるで少年のようだ。そう言ってからかうと、はにかんだように目を伏せ、

「あなたの前だと、ほんとうの私でいられる気がする」

　ひとり言のように言った。

　そうして出会いの晩の饒舌が嘘のように、ひどく無口だった。ただじっと静の瞳を見詰め、静の意を汲もうとする。

　月が見たいと思えば黙って簾を巻き上げ、小腹が空けば人を呼んで膳を整えさせた。立ち上がればともに立ち、扇を開けば舞を舞う。何もないときはじっと石のように黙っていたが、こちらにだけ神経を向けているのがひしひしと伝わった。

　不思議な方。通常人の上に立つものならば、周囲にこそそういう心尽くしを求めるのではなかろうか。

　静は他に身分ある者に仕えたこともなければ、男に交わったこともない。誰にも媚びずに生きてきた彼女は、義経の挙動を訝りながらも、そういうものなのかとも思い直す。

　ある昼間、晴れた空から雨が落ちてきた。

　義経はこの頃、後白河院の随行でもなければ、滅多に外出せず、静の傍らで時を過ごすことが多くなった。鎌倉へ戻る許しを得られぬのだと聞く。郎党があれこれ貢物を携えては鎌倉へ使者に発ってゆくが、当の義経は何もせずかと言ってまったく気にならぬようでもなく、静にはすねているように見える。、

「殿、殿。どちらにおいでか」

　どすどすと渡り廊下の板をきしませて大男が現れる。東国武士の粗野な振る舞いにも、静はすっかり慣れた。

「こちらにおられます、弁慶さま」

　声をかけると、廊下をぐるりと回って来て、静に目を止めるや弁慶は棒立ちになった。

「や、これは失礼」

　義経は、静の膝枕で寝息を立てている。

「わたくしは構いません。お起こししましょうか」

「あ、いや、結構。急ぐことでもござらん」

　ぐっすりと寝込んでいる義経の肩を揺すりかけた静を制止したものの、弁慶はじっと義経を覗き込んでいる。

「弁慶さま？」

　静が怪訝に見上げると、弁慶はうろたえ、だが立ち去りがたく小さく地団太を踏んだ。

「よろしければお上がりになって、おくつろぎくださいまし。義経さまもすぐお目覚めになりましょう」

　義経を起こさぬよう小声で声をかける。

　弁慶はいっそう狼狽し、だが主から目を外さぬまま、しからば拙僧はここで待たせていただく、と板敷にどすんとあぐらをかいた。その喧騒に静は苦笑したが、膝の上の義経はいっこうに目覚める気配がない。よほど深く眠っているのだ。

「狐の嫁入り、ですな」

　弁慶がぼそぼそと呟いた。晴れた空から雨の降る、不可思議な庭の景色を言っているのだろう。

　女の傍らにあるからには、たとえ主君の女と言えども社交辞令の一つも言わねばなるまい。破戒僧と呼ばれるこの男のほうが、義経よりもよほど俗世人らしいのに静は笑みを深くする。

「ええ」

　静は答えた。

　義経とはこんなやりとりはない。言の葉にしたら趣の異なるのを恐れるかのように、ただ瞳と瞳をそっと見交わし、微笑みあう。やはり、義経は特別な人なのかも知れぬ。

「よく、お休みですな。戦場での何かに憑かれたようなお姿からは想像もつかぬ」

　弁慶は義経を凝視したままで呟いた。天候の次の話題は、もう主なのだ。

「ええ」

　朴訥な義経の従者に、静はまた頷きかけた。この屋敷の空気は、京にあって京の流れとは明らかに異なる。

「義経さまの中には、まるで別の魂が入っているよう。ときおり、まったく別人の顔をなさる。

　わたくしは、こうして健やかにお休みになっているときのお顔が好き」

　何気ない静の言葉に、弁慶はびくりと、肩を震わせた。

　そしてつくづくと、眠っている義経の顔を覗き込む。あどけない、子供のような、平家を滅ぼした源氏の総大将とも思えぬ、ひっそりとした寝顔。

「静殿とおられるときだけ、そういう顔をなさるのでしょう」

　心なし、弁慶の声は震えていた。眼は食い入るように、主から離れない。

「ええ。他の女君の前でどんなお顔をされているのかは、存じませんけれど」

　少し意地の悪い口調で、義経の頬にかかった髪を指で払ってやる。無防備な口元が、誰かの名をかたどった。

「静殿の前だけでしょう。拙僧にはわかります」

　いやにきっぱりと、弁慶が断言する。

　この頃の義経はめっきり外出していない。妻や他の女たちを、忘れてしまったかのように。巷を流れる義経の噂からは想像もつかない。

「静殿は、金も求めぬ、栄誉も求めぬ。俗世の波に流されぬ。神に奉納する舞を極めることだけを望んでおられる。まるであの方と同じ」

　あの方。出会いの晩に、義経も同じことを言っていた。あの方とは、誰のことなのだろう。

　静が目で問いかけると、弁慶は言葉を切った。失言をはぐらかすように、ふいと下を向く。

「殿の、こんな安らかな寝顔を見るのは久方ぶりです。

　……元服なさる前の、お顔だ」

　大きな図体に似合わぬほとんど聞こえぬほどの声で、弁慶は言った。

　元服前。そんなにも長いこと、義経は安らかに眠ったことがなかったのだろうか。そんなにも長いこと、弁慶は眠らぬ義経に仕えてきたのか。

　口を開きかけ、静は息を呑んだ。

　うつむいた弁慶の肩がかすかに震えていた。

　静の膝で、義経は白い花のようにひっそりと眠っている。庭先から日照雨の白銀の光がその頬を包む。

　静はそこに神の道標を見た。

◆

　その後、頼朝公が追討の令を発し、義経は追われる身となった。

　静は各地を流浪する義経に従ったが、女人禁制の吉野山に別れた。既に義経の子を身ごもっていた。

　その後、母とともに法勝寺に潜んでいたが、頼朝公に見つかり軟禁された。生まれた子は、由比ガ浜に捨てられた。義経の行方は、杳として知れぬ。奈良にいるとも、奥州へ落ちたとも言われている。その子が生まれ、兄によって殺されたことも知らずに、だ。

　鎌倉を発つ前に、頼朝公に八幡宮で舞を奉納するよう所望され、静は舞った。

　しずやしずしずのおだまきくり返し昔を今になすよしもがな

　吉野山峰の白雪踏みわけて入りにし人の跡ぞ恋しき

　義経を慕う歌に頼朝公は激怒し、妻・政子に宥められたという。静にとっては、どうでもよいことだったが。

　神の前に静は舞った。ただそれだけのこと。人はそれぞれに噂したが、ほんとうのところは誰にもわからぬ。

　或いは、義経ならば、静の心をわかったであろうか。

　ほんとうの顔を静にだけ垣間見せ、吉野の山に消え去った、白い花のような少年ならば。