醒

　彼、武蔵坊弁慶と名乗る男は、宵闇にまなこを開いた。

　誰かが笛を吹いている。かすかな吐息のような音色は、戸板の隙間から細々と、だが耳にするものを魅了するある種の魔を持って、流れ込んでくる。

　弁慶は、柱に凭れうずくまっていた巨体を、音もなく起こした。抱いていた薙刀をぶらさげ、ふらりと外へ忍び出る。

　月が出ていた。糸のような、細い細い月だ。

　ほの青い視界に、木々の影が黒々と輪郭を伸ばしている。その闇を無造作に踏み分け、弁慶は一声だけのもの悲しい調べをたどる。

　笙や琴と合わせてこそ横笛は華を持ったが、ただ一色だけで奏でられるそれは、人恋しげに、頼りない。

　音色は遠くなり近くなり、今宵の宿を求めた寺の僧侶が決して近づかぬように、と諌止した鎮守の森から聴こえてくる。

　村落と村落の間に忘れ去られた寺だ。気性の荒いこの土地の神を鎮めるために、めしいの住職は一人ここに住んでいるのだと言う。この森から、呼ぶものがあるとすれば、魔性のあやかしかもしれぬ。寂しげな音色は、人を誘い込むあやかしのたくらみか。

　だとしたら、それでも構わぬ。

　何故かその調べは自分を呼んでいると、弁慶は思った。

◆

　笛の奏手は、古びた橋の上に佇んでいた。

　いつそこに架けられ、いつうち捨てられたともわからぬ朽ち果てた橋だ。僧侶さえも近寄らぬこの森の最奥にも、かつては棲む者があったのか。橋桁をくぐるべき水は枯れ、川底には月ばかりが蒼くわだかまっている。

　橋板は抜け落ちていたので、かろうじて残った欄干に、影法師のように彼は佇んでいた。

　芥子丸。

　弁慶は胸中に、二度とは口に出すなと戒められた、主のかつての名をつぶやく。

　主はまだ元服の儀式こそ受けていないが、頑強に源九郎義経を名乗っている。だが弁慶から見れば、いまだ髪も整えぬ昨日までと同じその姿を、源氏ゆかりの名では呼びかねた。自らを弁慶と名乗るよりも、よほど抵抗があった。

　彼らがその名を継いでから、まだ幾日も経っていないのだ。

　それにしてもいつのまに抜け出したものか。主にはこのところ、夢うつつに身体だけが彷徨う癖が出ている。小さな寺の同じ屋根の下に眠っていたはずなのに、足音も気配もなく抜け出、禁忌の森の奥、朽ちた橋の欄干に笛をくわえた姿は、あまりにも幽鬼じみていた。

　無心に笛を奏でる横顔を、月光がほの蒼く照らし出す。光がそのあどけなさを残す丸い頬を、愛しげに撫でるかのようだ。旅で薄汚れた山伏の装束さえ、月光を吸って白々と輝いている。

　その姿、地上に降りた月の光がかたちをなしたかのごとく。およそこの世のものとは思われぬ。

　弁慶は、それが真に主であるかどうかを疑った。

　或いは、あやかしが己をたばかるためにかたどった、夢まぼろしではないのか。彼の心を捉えうるのは、もはやこの姿以外にないことを嘲笑って。

　笛の音が、不意に止んだ。

　夜目にも紅い唇が笛を離し、伏せられていた睫毛が弧を描く。ゆっくりと、光がこちらにめぐり、ぬばたまの瞳が弁慶を捉えた。

　そなたか、弁慶。

　弁慶の姿を認めて、かすかに笑みを作る。

　比類なく整った、だが自然にこみ上げたものではない。意識的に作られたものだ。他に表情を知らぬ彫像のように、ぎこちない。

　同じ表情を、弁慶は昨夜も目にしていた。

　主であって主でない、鎮守の森に棲む下等なあやかしでないことはもはや明らかだったが、或いはそれ以上に魔性のもの。

　芥子丸。

　禁じられた名を、己の声が呼ぶのを、弁慶は聞いた。

◆

　昨夜は、鏡に宿を取った。

　夜半、不審な物音に目を覚ました弁慶は、真っ先に最奥の主の部屋に飛び込んだ。しかし、既にもぬけの殻である。また夢遊の癖が出たのであろう。舌打ちをし、すぐさま廊下を取って返す。

　廊下の角に、少進坊が小刀を抱いて腰を抜かしていた。この男、調伏には長けているが、太刀を取らせてはまるきり役に立たない。

　角を曲がって、奇怪な光景を目にした。

　ふわりふわりと、女物の被衣が宙を舞っているのである。この宿に出入りする遊女のものであろう、派手やかな五色が闇に目を引く。織り込んだ金糸が、鮮やかに軽やかに輪を描く。

　その陰から、唐突に白刃が閃き、闇を斬り裂いた。

　血肉を裁つ鈍い音と、断末魔の悲鳴、四方八方に噴出す闇は、昼間であれば紅蓮の赤に見えたであろう。大柄な人影が床に転げ、賊の血潮を存分に吸った被衣が、その上に落ちる。

　次の刹那、熱い闇をまといつかせた白刃は、弁慶に襲い掛かった。

　咄嗟に薙刀でそれを受け止め、弁慶は凶刃の主をねめつけた。

　白い頬、闇の瞳。返り血を啜ったかのごとく紅い唇に、にっと笑みが浮かぶ。

　そなたか、弁慶。

　邪気のない、だが言い知れぬ禍々しさをはらんだ笑みに、弁慶はぞっと身を凍りつかせた。

「殿！」

　背後から、少進坊の頓狂な声が飛び、冷や水のように周囲の熱を冷ました。

「ご、ご無事で。お姿が見えぬので、心配いたしましたぞ」

　無事も何も、ここで凶刃を振るっていたのは、他ならぬ「殿」本人なのである。

　弁慶は力づくで剣の結び目を押しやり、主から刀を取り上げた。主は先ほどの微笑を作ったまま、弁慶のなすがままに身を委ねている。

　刀は二本あるはずだが、主の手には一振りしか握られていない。振り返ると、もう一振りは、壁に一人の男を縫いとめている。弁慶は黙ってそれを引き抜いた。支えを失った屍が、床に崩れ落ちる。

「その男が賊の首魁だ、弁慶」

　背後から、声をかけられる。

　賊、と言った。それでは主は、宿に忍び込んだ賊に応戦して、この地獄絵図を描いたというのか。だが、そのような物音はまるで聞こえなかった。いかに弁慶の眠りが深いとは言え、このような事態になるまで気付かぬというのはありえない。

　それに、血まぶれてはいるが、男の顔に見覚えがある。昨夜、手水ですれ違った泊まり合わせた宿客ではないか。

　足音がして、不意に周囲を灯が照らした。

　声にもならぬ、引き攣れた悲鳴が上がる。ようやく、宿の主人が起き出して来たのだ。先ほど少進坊が腰を抜かしていた位置に、今度は宿の主人が這いずった。

「ご主人。この界隈を荒らしているという盗賊、由利太郎はこの男に間違いないな」

　冷淡な声が聞こえているのかどうか、気の毒な宿屋の主人は開いたままの口をぶるぶるとわななかせ、尻で後ずさるばかりだ。

「そしていま一人の首魁、藤沢入道。既に首を落してある」

　床に落ちた被衣を顎でしゃくる。弁慶が被衣をはぐと、大男の巨体と首が別々に転がっていた。

「弁慶。首級を表に晒し、立て札を立てよ。噂に高い盗賊の一団は、五条の鬼が喰ろうたゆえ、近隣の民は安んじて暮らすがよい、と。

　平家の輩は、我の生きておるを思って安んじて眠れぬだろうよ」

　言い捨てて、義経は踵を返した。平然と死骸を踏み越えて、奥の間に消えていく。

　微笑をかたどったままの唇は血のように紅かったが、その白い頬にも着物にも、惨状を思わせる返り血は一滴も滲んでいない。かわりにうち捨てられた被衣が、べったりと血を吸っていた。

　血の海に浮かぶ死骸ごとき、見慣れぬものでもなかったが、弁慶は言い知れぬ嫌悪感にぞっと身を震わせた。

　傍らに立ち尽くし、主の姿を呆然と見送った少進坊が、ほとんど悲鳴のように呟いた。

「あれではまるで、遮那王殿じゃ」

◆

　昨夜と同じ作り物めいた美しい微笑が、今宵もまた弁慶の目の前にある。

　道々流れ聞いたことだが、かの者はたしかに殺しも厭わぬ悪評高い賊であったが、鏡のその宿にだけは、由利太郎の馴染の遊女が出入りするため、悪さをしなかったのだという。とすればやはり、義経のほうから襲い掛かり、賊を血祭りに上げたということになる。

　夜が明けても、宿の主人は脅えて見送りに出てこず、一行は黙って鏡を後にした。首級を晒した立て札の前で、被衣の持ち主であろう遊女が落涙していたが、義経は見向きもしなかった。

　このような主の理不尽に治まらぬ胸の煮えには、弁慶にも覚えがある。少進坊の漏らした通り、遮那王に付き従っていた頃にはよくあることではなかったか。

　欄干に佇み、弁慶を見下ろしたままの微笑を、弁慶はぐっとねめ上げた。

「芥子丸。そなた、本当に芥子丸か…？」

　禁忌の名を、あえて口にする。

　刹那、月光に照らされた顔から微笑が消えた。氷のように、冴えた無表情。一点の歪みもなく整った顔立ちは、生身の人のものとは到底思えずそら恐ろしくさえある。

　道中、主はもうずっとこの顔をしている。逢魔ヶ森に潜んでいた頃には、固い表情の裏にもかすかな感情の息吹きが感じられ、少年期特有のあどけなさを、その頃別の名を名乗っていた弁慶は愛しいとさえ思ったものだ。それが、いま目の前にある主には、微塵も残っていない。

　ふわりと、鬼が跳躍した。

　常人では考えられぬ身のこなしだったが、弁慶には既に見慣れたものである。弁慶が息を飲んだのは、一足飛びに眼前に迫った主の、命なき彫像の如き美しさだった。

　薙刀を構えた弁慶の懐の内にやすやすともぐりこみ、頚動脈にひたりと笛筒の底を押し当てている。

　もとより主に刃向かうつもりはないが、弁慶の腕の輪にすっぽりと納まるほど、主の身体はまだ幼く頼りないのだ。そのまま、華奢な身体を抱きしめてしまいたい衝動に駆られた。

「弁慶」

　冷ややかな声と、さらに押し付けられた笛筒が、弁慶の腕を拒んだ。

　雷のようにひとつの事実が弁慶を襲った。

　芥子丸は、笛など吹かぬ。寺稚児として育った時期のある遮那王はたしかに笛の名手でもあったが、奥州育ちで剣技ばかり仕込まれていた芥子丸に、楽器の素養があるわけがなかった。

「芥子丸…！」

　弁慶の声が絶望の色を帯びる。彼が、命をかけても守ろうと胸に賭したのは、遮那王ではなく、芥子丸のほうであったはずなのに。

「二度とその名を呼ぶな、弁慶」

　声質はあの頃と少しも変わらぬのに、声色だけが微妙に異なる。

「我は源九郎義経。それ以外に名を持たぬ」

　耳元に、殺意を込めた囁きを吹き込まれる。

　月が、不意に雲に隠された。腕の中のものが、命あるとは思えぬ軽さですり抜ける。

◆

　あやめもわかぬ闇に、主の姿は失われていた。