砂

降

り

の

中

を

駆

け

て

ゆ

け

・

番

外

　細い首に不釣合いなヘッドホンをつけたまま、ごく間近に近づくまで気配に気づかなかったようで、驚いたようにおれを振り返る。

　また、大音量で音楽を聴いていたのだろう。

　そんな音量で聴いていたら耳が悪くなると、おふくろさんに叱られているのを何度も見たことがあるが、いっこうに改まらない習慣らしい。普段はおっとりとしているヒコだが、こと音楽のことになると途端に制御が利かなくなる。ヒコのこういう面を知っているのは、たぶん家族のほかにはおれだけだ。

「どうしたんだよ、ノゾミ！」

　音の世界から帰ってくるのにたっぷり一秒を要してから、ヒコはヘッドホンをむしりとってベッドを飛び降りた。

「ずぶ濡れじゃないか。何やってるんだよ、ほら、タオル！」

　土砂降りの中を走ってきたおれの形相は、昨夜のケンカ別れの名残を吹き飛ばすくらいに強烈だったらしい。長い前髪が視界に貼りついてよく見えなかったが、ぽたぽたと降りかかるしずくの向うで、ヒコはとにかく仰天していた。

　タンスからスポーツタオルを引っ張り出し、投げるようにおれの頭にタオルを載せる。それでもおれが身動きしないのを見ると、世話焼きの母親のようにおれの濡れた髪を拭きはじめる。

「いったい何なんだよ。外は雨なのか？それにしたって、ノゾミ……」

　冷たい雨のしずくを拭い去るタオル越しに、困ったような呆れたようなヒコの顔が見え隠れする。

「うわ、床まで。シャワー使えよ、何はともかく」

　おれはタオルを操るヒコの手首をつかんだ。

「違うんだ、ヒコ。おれはシャワーを借りに来たわけじゃない」

　タオルの下から、じっとヒコの目を覗き込む。両手を捕まれお手上げポーズになったヒコは、あまり大きくない目を瞬きさせる。

「何言ってるんだよ、ノゾミ。どうしたんだ？」

　わかっていない反応に、おれは手首を握る手にぎゅっと力を込めた。痛みに、ヒコが眉をしかめる。

「……おれは話をしにきたんだ。ヒコ」

　ヒコの目が、どこを見返すべきか戸惑いながらおれを映す。昨夜の解散話の痛みを、ヒコもようやく思い出したようだ。

　おれはヒコの手首を掴んだまま、足を払ってベッドに突き倒した。

　無理やり組み敷くと、ただ驚いたようなヒコの顔に、ぽたりとしずくが落ちた。あとを追うように、おれの頭からずり落ちたタオルがヒコの視界を覆う。

「ノゾミ？」

　ヒコはタオルの下からおそるおそるおれを呼んだ。不安と言うより、状況を飲み込めていないらしい怪訝さが声に滲んでいる。両手首を封じ込められ、濡れた服地越しにじわじわ雨が染みるのが不快なのだろう、身体が無意識に逃げている。

　おれはタオルをかけたままのヒコの、耳の辺りに顔を寄せた。

「なあヒコ、話を聞いてくれよ」

　低い、少しかすれた声で囁く。大抵の女の子なら、それでもう身動きが出来なくなってしまう。だがヒコは、じたばたと居心地悪そうにもがき続けている。

「聞くよ、聞くから。手を放して、そこをどいてくれよ。痛いし、重い。タオルもとってくれよ、お前の顔も見えない」

　おれはひとつ、ため息をついた。

「それじゃ、ダメなんだよ。……これから言うことは、たぶんヒコをびっくりさせるから。

　なあ、そのままで、聞いてくれよ」

　手を少し緩めると、ヒコはようやく息をついた。そして居心地悪そうに身もがいてはいたが、少し大人しくなる。

「なあ、ヒコ。昨夜の、解散だっての……アレ、なしにしてくれよ」

「……」

　ヒコには、おれがこう出ることはある程度わかっていたのだろう。解散、の一言にヒコの身体は一瞬反応したが、そのまま黙っていた。

　他のことに関しては、基本的にわがままなおれにヒコが合わせてくれているが、音楽のことだけは、いつでもおれがヒコの言うなりなのだ。だから、初めてのおれの反発も、一過性のものとヒコはタカをくくっていたのかもしれない。

「でもヒカリのことは、おれはイヤなんだ。

　お前に言うのも何だけど……あの子、おれに惚れてるみたいだし」

　おれは少し、言葉を切った。ヒコはヒカリに、間違いなく惚れているんだ。可愛くて控えめで、ヒコが曲をつけたくなるような詩を書く女の子。惚れないはずがない。おれの傲慢にも聞こえるセリフにどう反応するかと、ヒコの様子を窺う。

「……知ってたよ」

　タオルの下で、ヒコはごく簡単に言った。

「あの子、いっつもノゾミを見てたもん。いくら僕でも、それくらいわかってるよ。

　でも、それでもいいじゃないか。ヒカリちゃんの詩はいいし、彼女も『ＥＸＰＲＥＳＳ』が好きで……ノゾミが好きで。

　たとえば二人がくっついちゃっても、僕は平気だよ。好きな曲をやれるなら、それで満足だと思う」

　ヒコは、知っていたのだ。ヒカリの気持ちを。そこまで知っていても、ヒカリが好きなのだ。

　でも、それじゃあ肝心のことをわかっていない。おれは低く、うめいた。

「お前、ヒカリのことはわかってるくせに、おれのことはわかってないんだな」

　ヒコが、え？と身じろぐ。その細腰に、おれは容赦なく自分の体重を載せた。これから言うことに、ヒコが逃げてしまわないように。

「おれが、何でバンドなんかやってるか、わかってないだろ。

　ちょっとチヤホヤされて、女の子にキャーキャー言われて、それで満足しているような奴だと思ってるんだろ」

　たしかに、ごく初期の頃は、おれの声ってそんなにいいのかなと得意にもなったし、取り巻きの女の子と寝てみたりもした。でもそんなことにはすぐに飽きて、むしろ自分にも嫌気がさして、それでもその後もおれが歌ってきたのは。

「お前の歌が、歌えるからなんだよ、ヒコ。お前の作った歌が歌えるから」

　何だ、そんなありきたりなクサイセリフ……ヒコに言われる前に、おれは次を継いだ。

「知らないだろ？おれがもう、お前の歌じゃなきゃ、感じなくなってるの。なあ」

　耳の辺りに、低く囁く。ヒコは何を言われているのかわからないというように、かすかに首を振る。

　おれが押さえつけた手首は、もう痺れているのだろう。だらりと脱力しきっていた。

　その、幾分白くなったヒコの指の先に、さっきヒコが外したヘッドホンが覚えのあるメロディーが漏らしている。くぐもってはいるが、間違いなくおれの声だ。

　そっと右手だけを伸ばして、コードをたどり、引き抜く。

　ヘッドホンが外れたステレオスピーカーから、入れ替わりにメロディーが流れ出した。先週作った『ＥＸＰＲＥＳＳ』のデモテープだ。

　歌詞のないパートで、ヒコのギターにおれがコーラスを絡めている。ここだけはヒコに教わるわけじゃなくて、おれの中からごく自然に出てくる声だ。感じたままに。こういう声が官能的だ、といわれるわけだが、言っている奴らはおれが本当に感じているなんて、まさか思ってもいないだろう。

　おれは右手を戻し、今度は手首じゃなくヒコの指先をそっと握った。細くて長くてちょっと骨ばっている、ギタリストの指。

「聴けば、わかるだろ。なあ？おれ、感じてるんだよ。だからこんな声が出るんだ。お前のギターに感じてるんだよ、ホラ」

　タオル越しにヒコの耳を探り当て、唇をつけて低く囁く。

　ヒコの体が、おれの下でびくりと震えた。おれの声に最初に惚れて、この世界に引っ張り込んだのはヒコなのだ。反応しなかったら、人でなしの嘘つきだ。

　おれはさらに体重を乗せ掛けて、腰を擦り付ける。雨を吸ったジーンズはじっとりと冷たくなっていたが、熱いものがヒコに当たった。

「待てよ、ノゾミ！」

　必死に顔を振って、ずれたタオルの下からヒコが脅えた目をおれに向けた。

「何、考えてる？」

　ヒコは、まだ状況を把握できずにいるらしい。おれは、額がすれるほどに顔を近づけてうっすら笑って見せた。

「ヒコの歌に、夢中なんだよ、おれは。他の誰にも横取りされたくない。他の誰かが『ＥＸＰＲＥＳＳ』に加わって、おれたちの世界を壊すなんて、絶対にイヤだ。

　なのに、お前、全然わかってない。しょうがないよな。おればっかり一人でイってたんだもんな。だからお前にも、わかって欲しいんだよ」

　おれは、何か言いかけたヒコの唇に無理やり自分のを重ねた。暴れるのを力づくで押さえ込み、吸い上げる。

「いい加減にしろ、こんなのは違うだろ！」

　ヒコが珍しく声を荒げる。暴れるどさくさに、頭突きを喰らう。

「いてえ」

　ぬるりとしたものが伝った。唇が切れていた。

「あ……ごめん、ノゾミ」

　ヒコが我に返ったように謝る。このやさしいお坊ちゃんときたら、この程度の血も見慣れていないのだ。だがこういうのは、罪悪感を覚えたほうが分が悪い。

「ひでえよ、ヒコ。何でそんな冷たいんだよ」

　ヒコはうっと言葉に詰まった。

「違う、ノゾミ。だってこんなの変だ。こんな……」

　必死に取り繕うとする、ヒコの言葉をおれは遮った。

「そう。たぶん、おれ変なんだよ。ヒコに変にされちまった。ずっとこんな、ヒコの歌ばっかにイカされて……もうたぶん、女の子じゃ物足りない。おれをこんなふうにしたのはヒコなんだ。

　なのに、お前は違うの？おれの声じゃ、おれが歌うんじゃ、お前は感じないのか？今だっておれの声を聴いていたくせに。なあヒコ、ヒコ……」

　かすれた低い、泣き出しそうな声で囁く。耳に当たる吐息から逃げるように、ヒコが身をよじる。けれどもう、さっきまでのような激しい抵抗はしなかった。

　おれは今度はそっと、唇を重ねた。脅えてすくむのを宥めるように、逃げないように、じっと目を覗き込みながら。

　そろそろと舌先を這わせ、逃げるなよ、と祈りながら差し込む。戸惑い、奥に逃げ込んでいる舌をやさしくまさぐると、おれを映している瞳の焦点がぼやけ、やがて細められて、まつげがおりた。

　寄せられた眉が、ときどき震えている。もしかすると、ヒコはキスも初めてだったのかもしれない。おれより体温の低い口の中は、嫌がっている、というよりも緊張していた。たくさんの女の子とキスをしたが、こういう反応をした子はいない。

　温めるように中を探り、上顎の裏を舐めるとヒコが震えるのに気がついた。込み上げる感覚を、どうしてよいかもわからないのだ。

　握っていた手首からずらして、指先を絡めてやる。他に頼れるもののないように、ヒコが闇雲に力を入れて握る。ギターはあんなに大胆に繊細に操るくせに、まるで不器用な力の入れ方だ。ヒコのことをそんな風に思ったのは初めてだったが、おれは無性に可愛いと思った。

　唇を放してやると、ヒコが追いかけるように吐息を漏らす。うっすらと目を開けて、おれを見上げてくる。

「なあ、今日はさ、おれがヒコをイカせてやるよ。ヒコがいつもおれをよくしてくれるのと、おんなじように、さ」

　おれはヒコの上にのしかかったままで、濡れたシャツを脱ぎ捨てた。それからヒコの短パンをずらす。ヒコが感じていることは、合わせていた部分の熱さでとうにわかっていた。

　その部分を口に含むと、さすがに狼狽したヒコの手が伸びてくる。が、弱々しい抵抗はむしろ導いているようにも見え、おれは細長い指がおれの濡れた髪をかき撫でるのに任せた。

　さすがに「それ」は初めてだったが、もともとキスのテクニックには女の子たちに定評のあるおれでもあったし、経験のなかったヒコは過敏に反応した。息を乱し、ときどきしゃくりあげるような悲鳴を漏らす。とは言え、実際に突っ込むのとはわけが違う。じりじりと追い詰められられるもどかしさは、むしろ辛いのかもしれない。

　おんなじだよ、ヒコ。いつだって、ステージの上で、おれはそんなふうにお前のギターに追い詰められていたんだからな。

「ノ、ノゾミ……っ」

　切羽詰った悲鳴に見上げると、下唇を噛み締めてヒコがおれを見つめていた。苦しそうに首を振り、吐息ともつかぬ声が、イカセテ……と囁く。

　オートリバースになっていたカセットが、もう何回目かの同じ個所を歌っている。正確で容赦ないヒコのギターに絡む、今にもイキそうなおれの声。その声が背を走るかのように、ヒコが喉を反らせる。

　……イケよ。

　声にならず囁いたおれの喉に、ヒコが爆発した。

Fin.