砂

降

り

の

中

を

駆

け

て

ゆ

け

　アパートまではわずかに徒歩十分ほどだったが、おれはたまらず近場の屋根の下に飛び込んだ。

　周囲を生垣やブロック塀に取り囲まれた住宅街の真ん中で、かろうじて見つけた避難先は、市立図書館のエントランスのわずかなひさし。週一の定休日らしく、ガラスの扉には「本日休館」の札がかけられ、中にも外にも人影はない。通路脇の駐輪所に置き忘れられた一台の自転車だけが、雨宿りの同志らしい。

　何とか痛いほど肌に突き刺さる雨粒からは逃れられたものの、激しい水音は駐輪所の錆びたトタン屋根など叩き割りそうな勢いだ。乾いていたはずの足元にも、水溜りがまるでアメーバのようにみるみる触手を伸ばしてくる。エントランスを彩る水はけの悪い石畳は、屋根のない部分はとっくに海だ。

　思わず後じさってガラス扉につけた背に、濡れたシャツがじっとりと貼りつく。どうにも、快適な避難環境とは言えなかった。

　……ヒコんちまでなら、走れば三十秒だな。

　ふっと思いついた選択肢を、その場で却下する。

　ヒコの家、山辺楽器店は一本向こうの大通りにあったが、昨夜ケンカ別れしたばかりなのだ。

　ならもう解散だ、勝手にしろと、捨てセリフをぶつけて飛び出してきた。昨日の今日で、雨宿りを頼めるわけがない。

　やはりバイト先で傘を調達してくるべきだった。わずか数十分前の自分の判断の甘さが悔やまれる。

　まるではかったようなタイミングの悪さ。日頃の行いのせいかもしれない。

　だが、いずれにしても、所詮は夏の夕立だ。小一時間も待てば、何事もなかったように晴れ渡り、虹さえも見える天気になるはずで。

　家は目前、わずかの距離での思わぬ足止めに、おれはなすすべもなく空を見上げた。視界を寸断する雨の銀線を、稲光が真っ白に焼き、雷鳴さえも雨音が掻き消す。ビリビリ足元を震わせる落雷に、ふと天誅の二字が思い浮かぶ。

　もしかしたら、このままいつまでもやまずに、ものすごい大水害になるのじゃなかろうか。床上浸水、交通途絶、こんな図書館のひさしの下なんてイの一番に水の底。

　都市の住宅地の真ん中、自分の家まで十分の距離で、おれはいとも簡単に遭難気分を味わってみる。

　でも、それくらいに何の望みもない空だった。

◆

　ヒコとのいさかいは、単純なようで根が深い。

　山辺信彦・通称ヒコは、楽器屋のボンボン息子で、趣味はギターと作曲だ。線目と八重歯がいつも笑っているようなノンビリした見た目だが、情熱的かつ繊細な曲を作る、と言われている。

　言われている、と伝聞調になるのはおれが音楽に疎いから。でもおおざっぱに好き嫌いで言うならば、ヒコの曲は滅茶苦茶好きだ。波長が合うというのか、歌っていて、すごく気持ちがよくなったり、不意に泣きたくなったりする。ここまで入り込める音楽を作れる人間というのは、おれにとってはおそらくヒコ以外にない。

　つまり、ヒコとおれとは、作曲者とシンガーの関係だ。

　一応、形としては二人でバンドを組んでいるのだが、音楽を作っているのは全部ヒコ。おれは小学生の頃に町内会の少年少女合唱団にいたってくらいで、実は譜読みもできないド素人なのだ。新曲だってヒコに歌ってもらったり、吹き込んでもらったテープを聴いて憶える。

　の、割に、この頃流行りのインディーズバンド「ＥＸＰＲＥＳＳ」＝セクシーヴォーカル品川ノゾミ＝つまりおれと地味なギター弾き、が巷での認識だ。

　たしかにおれは誰が見ても納得する程度には顔が整っているし、黄色い声の女の子たちに言わせると「甘く危険な声」らしい。

　それがお前の才能だ、と真顔でヒコは言う。高校の入学式の校歌練習なんかでおれをスカウトした本人なのだから、当然の言ではあるのだが。

　だがおれ自身は音楽に対してヒコほどの情熱があるわけではなく、ヒコの言う通り歌っているだけだ。たとえば、ヒコと組むんじゃなくて他でソロデビューしないか……そんな話が冗談で出たこともあるが、おれからしてみれば真っ平ゴメンだ。

　ちょっときれいな顔と声なんて、五年もしたらもうおれのものじゃない。そんな泡みたいに消えてしまうものにかけるほど、おれはおめでたくはないのだ。

　と言っても、他にやりたいことがあるわけでもないんだろ？だったら、悪いけど、もう少し僕に付き合ってくれよな。……そうヒコに宥められて、ここまで来た。

　ここまで来た、というくらい、「ＥＸＰＲＥＳＳ」のノゾミはこの界隈ではそこそこ顔が売れてしまっている。ヒコこそが才能も情熱もたしかに持っているのに、どういうわけかノゾミのほうが知られているのは、考えてみればおかしな話なのだが。

　それでも、おれとヒコとはまったりと上手くやってきた。

　おれはヒコの音楽は好きだし、ヒコもおれの声は認めてくれている。歌詞の発音やどこで息を継ぐとか、歌い方のニュアンスまでヒコの言うなりだから、ミュージシャンとしてはどう考えてもアレなのだろうが、「ＥＸＰＲＥＳＳ」はそれで成立してきた。どっちにも何の文句もない。

　それが、おかしなことになったのは、一人の女のせいだった。

　児玉ヒカリ。ちょっと笑っちゃうような名前の子だが、顔は文句なく可愛い。自然な栗毛色のショートボブに、もの言いたげな黒目がちの大きな瞳が印象深い。顔が小さいので、身長の割にすらりとして見え、「追っかけちゃん」たちの中ではひときわ目立つ存在だった。

　しかも、アピールの仕方が他の子とは全然違った。キャーキャー一団になって群がったりせず、少し離れたところからただじっと見ていて、波が引いた後におれの機嫌を見計らって声をかけてくる。おれの機嫌が悪いときには黙って帰るし、詰まるところ都合のよさそうな、お手頃にお持ち帰りしたくなるタイプだった。

　群がってくる女の子の中のちょっと可愛い子をつまみ食いする、というのはそう珍しい話でもない。他の取り巻きを出し抜いて、お目当てのミュージシャンと寝るのは彼女達のステータスなんだと、吹いていた奴もいる。

　事実おれもずっと前には、軽い気持ちでお持ち帰りとやらをしたことがある。が、女の子の方がはっきり一晩だけと決めていたらしく、翌朝には姿を消して、そのまま付き合ってもいいかなとくらい思っていたおれを拍子抜けさせた。その後はもうライブにも来てくれなくなって、つまりそういう程度のものかとおれはようやく思い知った。

　おれみたいな見てくれの男は、彼女達にとっては単なるステータスなのだ。物事に執着しないおれの性格もあるのだろうが、シンガーと取り巻きなんて、つきあいはじめから対等でない関係が、だいたい長続きするわけもない。

　おれはすっかり達観して、もうどんなに可愛い子が来ても食指を動かされることはなくなった。誰にでも愛想笑いをして誰にでも冷たくするのが、みんなの人気者「ノゾミ」のやり方というわけだ。

　児玉ヒカリがそんな子かどうかはおれにはわからなかったが、とにかくファンの子とそういうことになるのはもうこりごりだったので、おれは最初から彼女の熱っぽい視線には気づかないふりをしていた。下手に手を出して、控えめな彼女の姿が取り巻きから消えてしまうのが惜しかった、というのもある。

　ところがある日、ヒコもいる前で、彼女は一通の手紙を差し出したのだ。

「ノゾミさんの声のイメージで、詩を書いたんです。もしもヒコさんが気に入ったら、曲をつけて歌ってください」

　おれにしてみれば、詩を書いてくるなんて苦笑いして済ませたいようなイタタなファンレターだったが、見た目が可愛かったのと、普段の控えめなイメージのせいか……気のいいヒコは顔のいい男と寝るのがステータスなんて女の存在を知らずにいたので、大真面目に読んで、気に入ってしまったらしい。

　ヒコは翌日にはもう曲をつけてきた。才能のないおれには理解できない次元だが、才能あるヒコをしてうならせる何かが彼女にあったということだろうか。おれが試しに詞を書いたときには、どうにも乗らずに難渋して三週間もかかったのだから、つまり相当に乗ったのだろう。

　おれは複雑な気持ちでそれを憶え、ヒコの教えるとおりに歌った。「ＥＸＰＲＥＳＳ」には珍しいしっとり系のラブソングはそこそこ評判になり、ヒコは彼女を褒めちぎった。察するにヒコのやつ、ヒカリの手管にころりとイカれてしまったらしい。

　あとはもう一気に、えげつない週刊誌の芸能界ネタにでもなりそうな、泥沼の三角関係にもつれこみだ。ヒコはヒカリに夢中で、ヒカリはどうやらおれに興味を持っていて、ヒコのいない隙に思わせぶりなモーションをかけてきたりする。おれに近づくためにヒコに取り入ったというのは言い過ぎだろうが、正直なところおれは困惑していた。

　そしてとうとう昨夜、ヒコが「ＥＸＰＲＥＳＳ」のメンバーにヒカリを加えたいと言い出した。

　小さい頃からピアノをやっていたから、キーボードならすぐに弾ける、彼女もその気になってくれている。そう言うヒコは舞い上がっていて、おれが反対するとは夢にも思っていないようだった。

　実際、おれは音楽活動についてまったくのヒコの言いなりだったし、ヒカリの目当てはどうやらおれだなんて、善良なヒコには言いたくなかったし、反対するだけの筋の通った理屈は見つからなかった。おれが返答を渋ると、ヒコは頬を紅潮させて、まるでヒカリが女神ででもあるかのように褒め称えた。その無邪気な崇拝者の表情が、余計におれをイライラさせた。

　結局、おれは感情で突っぱねた。イヤだ、のたった一言で。

　ヒコは驚いておれを宥めにかかり、だが理由を聞かれても答えられるわけもなく、いつのまにか口論になって、ついにケンカ別れになったのだ。

　別れ際、ヒコにぶつけてきた「解散だ」の捨て台詞が、まだ自分の耳にはっきり残っている。

　何であんなことを言ったんだろう。何でこんなことになったんだろう。

　ヒコはここから歩いて三十秒のところにいるはずだが、一寸先は大音響の嵐だ。おれはじっと、荒れ狂う空を睨みつけた。

ｎｅｘｔ．