| 炎 天 |
そこの、と振り返った嘉の白い顔は、平素よりも神経質に苛立って見えた。 「何ゆえ私の後をつける」 ただでさえ切れ長の目をつりあげて、怒りの表情あらわに高圧な物言いをするその口ぶりは、数えで十にも満たないばかりの少年のものとは到底思われない。 かげろうを思わせるような頼りないばかりの華奢な骨格と、それを覆う青い静脈の透きとおるような皮膚。伸び盛りの成長に少食が追いつかないのか、肉づきの薄さが少年期特有のほっそりした体格を成している。 ひどく大人びたその口調でさえも、声は細く高く耳を突くようで、その容貌と所作のあまりの不釣合に、潁は苦笑せざるを得ない。 「……すみません。お館様から、坊っちゃまがお屋敷を出る際にはついて行くようにと言われております」 軽い身ごなしで駆け寄った潁は、小さな「坊っちゃま」の前に片膝をつき、頭を垂れてそう詫びた。変声期を過ぎたばかりの、掠れの残る声である。 「まだ外へは出ておらぬのに。さっきからずっと、私の後をこそこそとつけているだろうが」 ますます不機嫌な高い声がその頭上に浴びせられる。潁は驚いて嘉を見上げた。 「……私が知らぬとでも思ったか。今日だけではない。気がつけば、こそこそ足音を忍ばせて、猫のような奴め。その髪、まるで猫の毛ではないか」 言って、細い指がぐしゃぐしゃと潁の前髪をかきまわす。潁の髪は猫の毛のように細くてなめらかである。 結い上げられなかった分が左右から短くこぼれる、少ないその前髪をなすが儘にいじらせながら、潁はまじまじとまだあどけないはずの少年の顔を見上げる。 生まれてすぐに母親を亡くした嘉は、その母の面影をひいた美しい顔立ちをしている。だが、義理の母にも、実の父にさえもあまり構われることなく育ってきたせいだろうか、歳に似合わぬ寂寥をどこかに負っていた。 たとえばその瞳は、無邪気な子どもが興味あるものを見るときの仕種で潁の前髪のあたりに向けられているのに、どこか一点では冷たく冴えているのであった。 ……そして冴えた視界に、常人には見ることのできないものを捕らえている。 潁の父親も、とうに帰らぬ人となった母親も、細作であった。潁もまた、その両親から細作としての身ごなしをしつけられており、いずれは細作として燕家に仕えるよう教育を受けている。 常人なら、大人であっても、足音をひそめ気配を殺す潁に気づくはずはない。 「お気づきでしたか……」 自分の修行不足か、嘉の能力か……茫然とした潁の頬を、嘉は軽く手のひらで打った。 「何を戯けたことを言っている。私には護衛も見張りも必要ない。今後一切こそこそつけまわすな」 言い捨てて、さっと歩き去ろうとする。潁はあわててそれを追った。 「しかしそのようなわけには……」 実は、屋敷の外へ出る出ない以前に、潁は嘉の全面的な御守役を暗黙のうちに任されているのである。 嘉の母親である月蝉の死後、正室の気性の激しさを慮ってか、館の主はその忘れ形見にはいたって冷淡に接してきた。その、せめてもの心づかいが潁である。だが嘉はあまり面白くもないらしい。 「うるさい。それより馬をひけ。お前馬番であろう、猫？」 平気で馬小屋へ入ってゆこうとする嘉をあわてて押し止め、潁は自分が馬小屋へ入った。 清潔に掃除されてはいるが、家畜の臭いはどうしようもなく、良家の子息などの入れる場所ではない。毛並みのいい馬の鼻面の間を分けて奥へ進みながら、適当な馬を物色する。 「猫、この馬はどこからのものだ」 声にはっと振り返ると、嘉がいつの間にか入ってきて、必死に伸び上がって一頭のまだ若い馬を眺めているではないか。 潁はぎょっとしたが、珍しく丸く開かれた嘉の瞳に優しい感情が映っているのを見て、驚きの声を呑みこんだ。嘉とて、まだ子どもである。潁にとって意外な行動の数々は、好奇心の強いやん茶なさかりの少年の心理の結果であるかもしれない。 ……坊っちゃまとて、子どもなのだ。 そう思う潁とてもまだ十五にも満たなかったが、かえって嘉を理解してやれるような気がした。その父親や義理の母親とは、別の接し方ができるはずであった。 ……それにしても、よく似ている。月蝉様に。 背伸びをして足首をぐらぐらさせながら無心に馬を見ている嘉の横顔は、潁の幼い記憶の月蝉にひたり重なる。 潁の記憶当時わずか十六、七の、かつては舞姫であった月蝉は、嘉の母親であるということよりも、むしろその姿の艶やかさを潁の胸のうちに留めている。薄灯かりにゆらめいた舞いはまるでこの世の人ではないようで、幼いながら心ときめかせた、純粋に美しいと思ったひとであった。 そのひとの忘れ形見である嘉に潁はしばしば面影を見出だして、ぼんやり見つめてしまうことがある。 「何を見ている？この馬はどこの産だ」 不意に、かん高い声が潁を現実に引き戻した。 「はっ？あ、大宛ですが……」 「いい馬だ。気に入った」 年下の主に下の位置から仰角で睨まれて狼狽える潁をよそに、嘉は馬へ視線を戻した。 背が低くて、腹や足や下顎ばかりしか見ることができないであろうに、何がそんなに気に入ったのだろう。本当にうれしそうである。 「名は何という？」 「黒と呼んでおりますが……何なりとおつけくださいませ」 潁の言葉に、このとき嘉は何とも意外な表情をしてぱっと振り返った。 「私がつけてよいのか？」 びっくりした、ような表情である。白い頬は心なしか紅潮し、瞳は輝きを増している。 自分の気に入った馬に自分の好きな名をつけられる、という喜びの表れなのだろうか、と潁は思った。 それにしてはあまりにも不器用な感情表現ではある。幼いばかりの少年であるのに、嘉は己の感情を表現するのに、どこかつくられた仮面のような、硬さを伴なわずにはいられないようだった。 潁はそんな嘉の表情を奇怪に思い、まただからこそ憐憫の情をかきたてられるのである。 「……黒皇。こいつの名は黒皇だ。よし猫、黒皇を引き出せ」 わずかな沈黙の後、嘉がの唇が得意気な笑みをつくった。表情だけの、「坊っちゃま」が「馬係り」に見せてやる型通りの笑みである。潁はは、とだけ頷いて、命に従った。 ほんのわずかばかり陽を避ける馬小屋ではあったが、一歩外へ出ると盛夏の容赦ない日射しに目が眩む。 一昨日までの長雨が嘘のようだ。 潁は「黒皇」の轡を取りながら思わず目を細めた。 銀に狭められた視界の向こうに嘉が立っている。 嘉は、笑っていた。動きのない微笑で潁を待ち受けている。 「お気をつけて。若い馬なので、まだあまり人慣れしておりません…」 木の柵に手綱を引っかけて嘉を振り返り、潁は次の行動を瞬時戸惑った。 嘉の身長ではでは馬の背に届かぬだろうが、足場のある馬場まで行くというのは短気な嘉が許すまいし……馬場はこの裏手なのである……と言って、高圧な態度でじっと潁を見上げている嘉を、抱き上げて騎乗させてやるというわけにもいくまい。適当な言葉をつなぎながら潁は最善の方法を検討する。 じろり、と嘉の視線が動いた。潁が戸惑ったのはわずかな時間であったが「流れるような」ことの運びを要求しているのである。「能書き」を時間稼ぎに誤魔化すなど許さない意志表示であろうと、潁はぴたり口をつぐんだ。 潁は身を屈め、両手の指をからませて輪を作り、その手のひらを嘉の足もとに差し出した。 嘉は靴のままで潁の手のひらへ片足を乗せて足掛かりとし、身軽く馬の背に跳んだ。 黒皇はその軽さに驚きもせず、さして暴れもしない。わずかに浮き足立ったところを手綱で押さえ、嘉は馬上から潁に笑って見せた。 その微笑を見上げながら、潁は不可思議な思いにとらわれた。自ら思いついたわけでもなく、口で命じられたのでもないのに、何故嘉に睨まれた瞬間に身が動いたのであろうか？ 極めて自然に、踏ませるための手のひらを差し出したのである。自分ながら思いの及ばなかった、何者か他者の力によってなされた行為としか、取りようがない。 まだ組み合わせたままの手のひらには少し泥がついている。或いは、表情だけで自分に笑って見せる、この年少の主の心が命じたものであったろうか。 「猫、おかしな顔をしているな」 戸惑いを見透かされ、潁ははっと表情を引き締めた。平素の潁に似ず、どうしたわけか嘉にかかっては、些細な感情の揺れまでも気取られてしまう。 ふたたび降り仰ぐと、嘉はどこかよそへ視線を向けていた。 視線を辿って、潁は燕家の正室の姿を渡り廊下に認める。侍女を連れて早足に歩きながら、また何やら神経をとがらせている様子である。 嘉の視線に気づいたのであろう、正室はふとこちらを見て立ち止まった。 「嘉児。お前、月季を見なかった？」 「……いいえ」 馬上から嘉が無表情に答えると、正室はそれきりでまた早足に廊下を渡って行く。嘉はその背を見るともなく見送りながら、何の表情もない。 ひどく冷淡な母子のやり取りである。 かつて、生まれてすぐに母親を亡くした嘉を、不憫だといって引き取ったのは正室であった。憎い恋敵の子ではあった。が、長子一人以来九年も子を生んでいない女の焦りか、それとも彼女自身自責の念があったのか。嘉にとっても、この家にいる以上は建て前だけでも母親が必要であった。 だが翌年、娘を身ごもった。十年ぶりの我が子である。ただでさえ気性の激しい正室が、等しく嘉と実の娘とに情を注げるはずがない。産辱についてからは手のかかる幼児の世話など喬に任せきりであったし、月季が生まれればそちらの世話にべったりである。実際、嘉をきちんと構ってやったのは、せいぜい養子にしてはじめの三月足らずであろう。 嘉は、この義理の母親をなんと思っているのであろうか？ 突然、馬が嘶いた。潁がはっとして振り向いたが、いったん前足を高くあげた黒馬はその背に嘉をしがみつかせたまま、すでに向きを変えて駆け出していた。 「坊っちゃま！」 叫びながら追いかけたが、馬上の主は姿勢を沈めたまま微動だにしない。馬は真っ直ぐに、開け放してある門へと走り、外へ出た。 もとは漢人のものであったこの屋敷は、ぐるり四方を壁に囲まれている。壁に隔てられて危うく黒馬の姿を見失いかけ、潁はともかくも走って黒馬を追った。自分も馬に乗っていればすぐに追いつけたであろうと後悔したのは、ようやく門を出てからであった。 嘉を乗せているはずの黒馬は遠く前方に、しかし意外にゆっくり駆けているように見える。 走って追っている潁が段々近づいているようでさえある。見る間に追いついてみれば、黒馬はごくごく緩やかに歩んでいるだけであった。その背には落ち着き払った様子の嘉がゆるく手綱を握っている。どうやら馬の暴走ではないようである。潁はほっとする反面、苦笑がこみ上げるのをどうしようもなかった。 「坊っちゃま！」 息を切らせながら、追いついて声を駆ける。潁の苦笑は照れ笑いに変わっている。 ところが、馬上の嘉は無表情にちらと振り返り、潁と目が合うや途端に眉根を寄せて恐ろしく不機嫌な形相になったのである。 主の表情に納得のゆかぬ潁の目の前で、黒馬は嘉にうながされてふいに速足になり、見る間に加速した。 砂塵に潁を取り残して、蹄の音が瞬く間に遠ざかる。埃に咳き込みながら潁が目を凝らすと、林の黒い影に紛れこむ黒い馬体が見えた。 |
続 |
意外に長くなりそうな、「落陽」の番外編です。
設定では、嘉が９歳、潁が１４歳くらいの話。
昔の自分の文章ってそれでなくても恥ずかしいんですが、
ショタコンのため、変な描写が多くて、いつもよりさらに恥ずかしい……。
そんなに間をあけずに続きをアップしますので、しばしおつきあい下さいませ。