| 炎 天 |
このあたりは沼沢が多い。 嘉が消えた林の中も例外ではない。それどころか、かえって沼と泥濘が密集しているはずである。もしも黒馬ごと底なし沼にはまりこむようなことにでもなったら。 潁はぞっとしてふたたび走り出した。ここまで三里も走り詰めであり、呼吸は乱れたままである。吸気にくらべて呼気が追いつかず、肺に圧迫感があったが、構わず走った。強い直射日光に視界が明滅する。 やがて林にたどり着くと、遠景に眺めるよりも木は疎らであった。しかし奥行きは深い。また枝葉がもっとも生い茂る季節である。外の眩むような日差しと対照的に、ひんやりした暗さがあたりに下りている。冷めた衣服が素肌にはりついて、潁は汗をかいていることに気づいた。 ここちよい風が汗をそっと乾してゆく。 入口に立ち止まって額を手の甲で拭いながら、潁は黒馬の姿が見えないかと目を凝らした。 ほどなくうす暗がりに目が慣れると、木々の輪郭が浮かび上がってくる。 枝葉の隙をくぐり抜けて斑に照らされた土の表面に、真新しい蹄の跡がある。一昨日までの長雨のために土が軟らかいのだろう。 潁はそれを追って歩いた。重なったり乱れたりせず、整然とした脚の運びであることからすれば、林に入ってからは減速して用心深く進んだらしい。ならば沼沢にはまりこむこともそうあるまい。 ふと、水の滴る音を聞いた。 果たして木々のむこうに視界が開け、陽が落ちて地表がきらきら輝いている。 よく見れば、地表だと思ったのは水面だ。めずらしく透明な、ひとまわり百歩ばかりのこぢんまりした池である。その水面に日が差して、一面波紋に従ってくずれながら反射しているのであった。 波紋の中心に、嘉がかがみ込んでいる。 水面に直に口をつけて水を飲んでいるらしい。水に触れているのが快いのか、波紋が消えても嘉は顔を上げようとしなかった。 唇はいつまでも静まり返った水面と触れている。ゆるく伏せられたまつ毛は、自らの景に見惚れているようにも見える。 潁はわけもなく胸がはやるのを覚えた。見惚れてしまっていたのは潁かもしれない。そう自覚しても、潁はなお動けなかった。木の陰から、息をするのも忘れて二人の嘉を見つめていた。 潁の耳元を涼やかな風が撫でる。 かすかに紅潮した少年の頬がつと水面を離れた。水が滴るかすかな音にともなって小さな輪が生まれ、水面をすべるようにいくつも広がりゆく。 「何だお前、まだいたのか」 嘉が目敏く木陰の潁を見つける。潁は夢から引き戻されたようにはっとして、あわてて池をまわり主の傍らに膝間づいた。黒馬はすぐそばの木につながれていた。 「ここいらは沼沢が多うございます。お気をつけくださいませ」 「ふん、そんなことは見ればわかる。いちいち追ってくるなというのだ。汗までかいて……」 いらぬことをする、と少年の手がのびて汗を浮かべた潁の前髪を払う。 池の水で濡らしたのであろう。水分の乾きかけた指先は、上気した肌にはひどく冷たく、潁ははじかれたように身を引いた。 潁の仕種に、何を思ったか嘉がくすりと笑う。先ほど見せた不機嫌な様子は微塵もない。 潁はほっとして緊張を解いた。嘉の視線がいったん潁からはずれ、ためらいがちにふたたび戻る。 「おい猫。……」 何か言いかけて、口をつぐんだ。唇を閉じながら笑みが消え、丹精に彫りあげられた面のように動きのない無表情が入れ代わる。何者をも拒絶する冷たさの、嘉の普段の表情である。 嘉が片膝を抱き直し、視線を水面に向ける。表情ははりついたように動かない。ただ、いくぶん伏せられたまつ毛の長さだけが少年の感情らしく思われる。 「母は、どんなひとだった」 呟くような、それにしても抑揚の乏しい、問いかけであった。潁は自分に向けられた言葉なのかどうか、判断しかねて戸惑った。 嘉は、実母のことを聞いているのであろうか？ 返答が遅れたのは、問われたかどうかを疑ったからではない。自分が答えるべきかをためらったのである。 名目的には、正室が嘉を生んだということになっている。父親にしろ母親にしろ、或いは誰かが、実の親子ではないという事実を嘉に話したことがあったのだろうか？まだ十にも満たぬ子どもである。 「坊っちゃまがお考えのとおりのお方でございましょう」 正室とも、実母の側室のこととも、つかぬ物言いである。 嘉は刹那瞳だけを動かして潁を見た。ただ一瞥であったが、怒りの突き刺さるような冷たさであった。だが水面に戻った切れ長の瞳にはすでに何の色もない。 「私は母を知らぬ……」 ふふ、と嘉が笑いをもらした。表情の伴わぬ、虚ろな声であった。 「あの女、酔って、お前は私の子でないと。戯れ言にも度が過ぎようぞ。……」 正室は嘉が生まれる前、若い舞姫が屋敷に住まうようになってからすでに、神経症の兆候がしばしば現れていた。年を重ねるに連れてますます悪化し、近ごろは酒に酔うと半ば狂人のようになる。 飲まなければ飲まないで、食事を取らず、眠りもせずに日を過ごす時期が周期的に訪れて、生命そのものが危うくなるのである。月に三、四日のその時期さえ過ぎてしまえば、あとは正常と変わらぬのだが。その正室の言葉を、恋敵の忘れ形見である嘉は、真に受けたのであろうか。 「……奥様は時々お酒が過ぎますゆえ」 潁は曖昧な笑顔を作ったが、嘉は振り向きもしない。 「口に出して言われずとも、わかっておるわ」 猫よ、と嘉は振り返った。 「わからぬはずが、あるまい？」 潁は、幼い嘉の、その母によく似た冷艶な眼差しを見返すことができず、うつむいて視線をはずした。 嘉には母親の記憶などないというのに、どうしてこんなにも同じ瞳をするのだろう。いつの間に、こんな瞳を覚えたのだろうか。 嘉は視線を水面に落とした。潁は握り込んだ自分の拳を見ている。 「母は、どんな人だったか、……」 嘉が小さく息をもらす。潁は、呼吸すらも憚られるようで、じっと息をひそめていた。それゆえに、ゆっくりと紡ぎ出された言葉は少しかすれた。 「……よく、似ていらっしゃいます。……美しい、人でございました」 水面に落ちた嘉の白い頬が、わずかにふるえた、と見えた刹那、猛然と立ち上がった嘉は潁を殴りつけていた。 爪先が当たったのだろうか、額にかすかな線を朱く滲ませて呆然とする潁はもとより、殴りつけた嘉自身、どこをどう殴ったか、自覚がない。反射的に動いた右手が、まず先であった。言葉は後からこみ上げた。 「……何故お前が知っていて、私が知らぬのだ！」 喉から絞り出すような、苦しげな悲鳴であった。今にも泣き出しそうな表情に、理屈のない子どもの嘆きがあった。 ……おかしな言い方だが、まるで子どものような口ぶりだ、と潁は思った。素直に弱音を吐いた、とでも言うべきか。 嘉は己の言葉を耳で聞いて初めて愕然としたようだった。 そのまま状況を把握できていないらしい潁を目を合わせるや、ぱっと身を翻し、前も見ずに走り出す。 どうしてよいか、わからなかった。感情が奔流のように逆巻く瞬間をこらえる術を嘉は知らない。危うく木の根に足を取られ、枝葉に頬を叩かれつつ、とにかくその場を離れたかった。 潁が追おうとしたときには、小さな人影は木々の緑に見えなくなっていた。 林のはずれに小さなはけがあった。はけの下をごく小さな小川が流れている。一月も雨がなければ干上がってしまうほどの流れで、わずかな水を集めて別の河へ小さな滝となってそそぐ。その河は五丈足らずの、垂直に切り立った崖下を流れている。河と呼べるほどの幅はないが、小川にしては広すぎる。黄河へ流れこむ支流のまた支流であった。 嘉は闇雲に走りながら、はけの近くへ来ていた。 「！」 突然足もとが崩れた。 次の瞬間には、崖と言うには緩やかすぎる、しかし止どまることのない斜面を体が転げ落ちる。視界が回転して頭がぐらぐらしたが、喉がつまって声が出ず、悲鳴のかわりにひゅっと空気のぬける音がした。 ずぶり、と湿った感触が嘉を受け止める。転落したところに沼があったのである。ずぶずぶと、体が沈んだ。ぬるい泥が服地の内側へのめり込む。体が半分くらい沈みこんで、ようやく止まった。 なめらかな表面の外観に比べて内側の泥質はいくぶん硬いらしく、体重の軽い嘉はそれ以上に沈み込む気配はなさそうだ。 だがかえって、身動きをしようにも重く、ともすればもっと深く引きずりこまれかねない硬さでもある。誰かの助けがなければ脱出は不可能であろう。 我ながら、情けない姿であった。 それでも取り乱さずにすんだのは、潁がくるという安心感があったのだろうか。 見上げた空は青く、直射日光が泥を容赦なく乾かしてゆく。泥濘に四肢をうずめつつ、嘉は暑さの不快をつくづくと味わった。先ほどの池の冷水を思い出せば喉の乾きを痛切に覚えた。 盛夏の昼下がりの陽光は烈しく、じりじりと肌を焦がすのが感じられる。はじめは嫌悪感。やがてそれは目まいや吐き気となり、やがて視界が霞んでくる。 霞の彼方に、ちらちらと様々の映像が明滅するが、それらは決して一つの象には完成しない。意識が断続的に、訪れては遠のいているのであった。 ふいに襟首をつかまれ、体が泥濘から引きずり出される。 ああ、潁が来たか。…… 冷たい感覚に瞼を開くと、ふたたび襟首をつかまれて水から引き上げられるところであった。池ではない。ゆるい流れがある。 「こいつぁ、上玉だ。おい、見てみろ」 野太い男の声だ。襟首をつかんでいる手も、ひどく乱暴である。ようよう開いた目の前には、ほこりだらけの濃い髭の間にうごめく唇と舌があった。 乱暴に、小石まじりの砂地に仰むけに投げ出される。空には相変わらず太陽が中空にある。沼に落ちてからそう経っていないのだろう。 ヒュウ、と誰かが口笛を吹いた。 五、六人の男たちが嘉を覗き込んでいる。風体からしてろくな者ではなさそうだ。のびたままの髭、すりきれて垢にまみれた衣服、後ろにくくっただけの脂髪。山賊か、追いはぎか、或いはもっと凶悪な連中でもおかしくない。 「変なとこに変な奴がはまってたなあ」 「身なりは悪くねえぜ。どっかのいいとこのガキじゃねえか」 「だから何だ？おれらの縄張りに踏みこんだこにぁ、かわりゃしねえ……へ、へ」 一人が薄笑いを浮かべると、みなが眼をぎらつかせて不快な笑い声をもらす。 嘉はまだ判然としない意識のうちに強烈な嫌悪感を覚えた。が、体がどうにも動かない。左足首が疼いている。はけを落ちたときにどうにかしたのだろう。 「よう。月蝉に、似てるなあ」 のんびりした口調の新しい声が言った。別の男が来たらしい。ちょうど日光を遮って痩身中背の男が立っている。 「月蝉？・・ああ、そういや」 「け、奴を抱いたことがあんのぁてめえだけだったなあ、李舜。あのアマ、姉貴三人に甘やかされて、結局一座を裏切りやがった。勝手にガキ孕みやがって。舞手なしで、座が成り立つかってんだ」 「風蝉も花蝉も鳥蝉も、妹を羨んで、結婚してえなんて言い出しやがって……。ち、月蝉が変なことにならなけりゃ、座はつぶれなかったかもなあ」 「思い出しゃ胸糞が悪ィ。ガキなんか孕めねえように犯りつぶしときゃよかったんだ」 「……案外このガキ、月蝉の子じゃねーか」 ぴしゃりと頬を叩かれる。 「はは、まさか」 「いいや、よく見りゃ、李舜にも似てるぜ。女は初めて犯られた相手に似たガキを産むっていうじゃねーか。……ひょっとすると、李舜の子かもしんねえなあ」 のんびりした口調が、まさか、をくり返した。嘉はいい加減意識を取り戻していたが、指先まで干からびたような脱水症状と、目眩と吐き気と体中の痛みとで、体を動かしようがない。 李舜と呼ばれる男がひょいと嘉を覗き込むと、山賊には希な端麗な顔立ちをしていた。 「やっぱり、月蝉に似てるなあ。眼もとがなあ」 そう言う李舜の懐かしげな目を、嘉はぼんやりを見つめた。自分に似ている月蝉とは、何者なのだろう？ 「てめえ、月蝉月蝉って耳障りだな。一度や二度イイ思いしたくらいで今までひきずってんじゃねえや。おれぁあの末っ子はむかつくんだよ。お高くとまって犯らせやしなかった」 「その分、風蝉たちが代わったろうよ？」 「そうよ。大切な舞手、可愛い妹だからってな。姉貴のカラダ借りといて、自分はヤサ男の李舜とだけ。挙句、客のガキ孕んで出ていきやがった。恩知らずが」 男たちが口々に「月蝉」を罵りだす。のんびり男は一人、彼女を庇うような素振りを見せたが、かえって煽るだけだと、やがて肩をすくめてその場を離れた。 「へ、へ。ここで会ったが百年目たあ、このことじゃねえか」 はじめに嘉の襟首をつかんだ男が、唇をぞろりと舐めて言う。かねてからの不穏な雰囲気が、さらに重苦しく嘉の神経を圧している。 「ガキと月蝉は別もんだろうが？」 「かまやしねえ。どうせ縄張りに入った女とガキは犯り殺すのが常じゃねえか。こいつを月蝉の代わりに存分に犯ってやらあ。おれぁあの女を一度犯ってみたかったんだよ」 「へえ、一度じゃすまねえくせに」 いやらしい笑い声とともに、日焼けした腕がのびて嘉の下衣を引きずり下ろす。反射的に身を引いたが、あちこちから腕がのびて押えつけた。 男たちの体が日光を遮って俄かに暗くなった視界に、荒い息が交差する。疼く左足を無理にひねられ、痛みに体がひきつった。 押し寄せる嫌悪感に吐き気を催した。 だが、嘉は敢えて逃げようとはしなかった。無論、衰弱しきったところを多数で押えつけられては動けるはずもないのだが、それ以前に「月蝉」のことを聞いていたいという思いも働いていたのだ。 この場を離れれば「月蝉」の話は聞けない。 これから起ころうとしている事態には本能的な恐怖を覚えているが、それよりも月蝉への好奇心が強かった。嘉は故意に、動こうとしなかったのである。 肌が風を受け入れる刹那、男たちの動きがふと止まった。逆らわず、白昼にさらされた嘉の四肢のあまりの白さに息を呑んだのである。 直射日光の下に半刻焼かれ赤く火照った頬とは対照的に、衣服と泥にくるまれていた皮膚は人目を圧倒するほどに白い。氷のような、冷たい白。 月蝉と同じ、肌をしている。 「こいつぁまた……」 太い指が嘉の横腹を撫ぜる。悪寒に総毛立ったが、嘉は超然とした眼を宙に向けてじっと堪えている。刹那の沈黙の後、男たちの呼吸は堰を切ったように急速に荒くなった。不快な含み笑いがもれる。 「転がせ。俺から犯る」 砂地にうつ伏せに転がされ、尻を持ち上げられる。一人が指に唾をたっぷりつけて後庭に突き入れると、他の男たちも嘉の尻を囲むようにして同じ動作を代わる代わるくり返す。異物を吐き出そうと内壁が動くのにも構わず、乱暴にかき回され、身じろぎも叶わぬ嘉はあらぬ方を見つめて黙っていた。 「おい、このガキ、さわがねえな」 「気味悪ィ……生きてんのか？」 「うるせえ、穴が動いてりゃ生きてんだろ。どけよ、いくぜ」 尻を後方に引かれざま激痛に貫かれ、呼吸が止まった。あまりに遠慮のない、痛みよりも衝撃の大きい性急さだ。息を乱して痛みをやり過ごすのに、男は一向に構う様子がない。方向も確かめずに力任せに押しこんでくる。 動きに従って訪れる瞬間の鋭利な痛みと、そこから徐々に広がる生温いような鈍い感触。内壁が裂けてゆくらしい。 「中がびくびくしてやがる……へ、へ」 背後に薄笑いが聞きながら、嘉は恐怖よりも苦痛を、悲嘆よりも嫌悪を覚えていた。 充分に深く打ちこみ、男が腰を使いはじめる。裂傷をさらに歪められ、無理やり押し広げられた内部を内蔵ごとゆすぶられる。ずるりと抜きかけてはまた突き上げる。内部を切り裂き、かき回す。 がんがんと、音ではない感触が脳天まで響いてくる。息は詰まり、意識が遠のきかけては痛みに引き戻される。「犯り殺す」というのは本気であるらしい。命の保証を考慮している動きでは到底ありえまい。 ようやく引き抜かれると、熱いどろりとしたものが肛門から滴り落ちる。 「俺にも犯らせろ」 体の力が抜けたところに、次がくる。形態や角度の違いから、また別の部分が切れる。 「よお、ガキ。口はどうだ？」 髪をつかまれ、砂にうつ伏せた顔を上げさせられた。醜怪なものをその口もとに突きつけて、別の男が揶揄する。肉食獣のように獰猛な歯が笑いながら見え隠れするのを、嘉は見上げていた。 「……おい、やめとけ。この目は。食いちぎられるぞ」 「こいつガキのくせにすげえ目ぇしやがる……」 また一人、嘉の背後で達した。意識と体が切り離されているような錯覚に陥る。 男たちが入れ代わる度に、炎天が見え隠れして、明暗が交互する。意識は朦朧としているが、消失することはない。嘉は聴覚にその意識を集め「月蝉」という単語を探していた。どうして、ここまでこだわるのか。自分でも理由はわからない。 「あのアマぁ、これくらいは、犯っておきたかったんだ」 「でもよ、あの女、正妻にいじめ殺されたっていう話じゃねえか」 「へ、馬鹿な奴だ。……イイ女だったのによ」 「毒をもられたってな。一座にいたほうがよっぽどましだったろうぜ」 「ガキを孕むたあな、運が悪ぃ」 荒い息づかいの合間の、途切れがちな言葉の意味はほとんど意味を成さなかったが、それでも嘉は聞いていた。 月蝉について聞いていられれば、自分でも不可思議なほど、乱れた意識の片隅に冷ややかな思考を保つことができた。 |
続 |
もはやコメントする気力なし。
書いた当時この人、どうしちゃってたんでしょう。
……犯罪者？