別段、ＡＢＣ（アーベーセー）の友の政治的集会に興味があったわけではない。むしろ彼らのほうが後から、グランテールの縄張りであるカフェ・ミュザンに入り込んできたのだ。彼らのほうが、グランテールを選んだようなものである。

　グランテールは、朝には起きていれば、キャフェ・ミュザンでパンかチーズを一かけ食べ、葡萄酒を飲んだ。昼には、キャフェ・ミュザンに店を限らないが、ビールを飲み、夕にはさらにブランデーやアブサンを追加した。

　大概は飲むことに忙しく、煮込んだ野菜や羊肉や魚のシチューは、飲み物のつなぎに過ぎない。アルコホルのもたらす高揚感が、彼の原動力であった。

　グランテールはもともと、学生としてパリに来ていた。一見寸詰まりの彼の頭蓋骨には、実は明晰な頭脳を守っており、彼はパリに氾濫するあらゆる学問、思想、文化、芸術から生活や風俗までを、瞬く間に吸収し、理解していた。のみならず、それらすべてを疑い、裏側を見、虚構や矛盾点までも見抜き、そして興味を失ってしまったのである。

　人々の作り出した学問や思想や文化は、どれも皆美しい。だが美しいながら、どこかに空虚と矛盾を抱えている。それを思うと、グランテールはそれ以上のめりこめず、まだ若い人生を、その場その場、現在の瞬間に見える美しさと愉快さとで費やすことに決めたのである。

　彼はマドモワゼルの手を取ってダンスする作法も心得ていたし、棒術の使い手でもあり、パリ中のレストランの批評家でもあったが、中でも、アルコホルの魔法にかかった美しく愉快な世界こそが、彼にとって一番の甘美であった。

　その美しいアポロンを、グランテールが初めて見たのも、アルコホルが程良く彼の血肉に行き渡り、美の女神・ミューズの見せる幻惑や、天使たちの音楽が耳の奥で鳴りはじめた頃だった。

　だからグランテールは最初、キャフェの入口に立ったアポロンを、美しい幻覚だと勘違いしたのである。

「やあ、見ろよ。古代パルテノン神殿の魂を彫り込まれたアポロン像が、命を得て動き出したぞ！」

　傍らには誰もいなかったが、グランテールは酔いはじめの癖で、誰にともなく呟いた。

「おい、動く石像の奇跡を見逃すなよ。磨かれた大理石の白い肌に、太陽の輝きをたてがみのように戴いて、秀でた額の下の青い瞳は、サファイアに違いない。冴え冴えとして、何て深い青なんだろう！」

　そばを通りかかった皿洗いのルイゾンをつかまえて耳に囁く。だがルイゾンは、酒臭いグランテールの吐息を避けて身をひねり、急いで奥に行ってしまった。

「ちぇっ、好奇心を忘れた女め、勿体ないことを」

　他のテーブルには二、三組の素面の客がいたが、入口の動くアポロン像には注意を払わず、ただグランテールの大声を迷惑そうに見咎めた。

「おいおい、大理石のアポロンが、黒の上着にリボン・タイをしめて、キャフェなんかにお出ましなんだぜ。往来の人々は窓に鈴なりになって見学すべきだし、テーブルからは葡萄酒を満たしたグラスを差し出すべきじゃないか？」

　グランテールは立ち上がり、グラスをアポロンに向かって掲げたが、そのグラスはグランテールが使っていたもので、しかも葡萄酒はほとんど残っていなかった。

　アポロンは、瞳だけを巡らせてちらりとグランテールを見、すぐまた不快そうに目をそらした。

　それはゼウスの雷が閃くほどの一瞬だったが、グランテールはたいそうな驚きに打たれた。

　アポロンの目は、本当に青かった。日が射せばエーゲの海のように輝かしく、陰れば夜空のように澄んで冷たい。潤んだ表面は千の言葉を語るよりも雄弁で、遠く深い奥底には耳が痛くなるほどの静寂が横たわっている。

　そのくせ、瞳をふちどるまつげは輝く日の色で、まぶたにはほんのり薔薇色が射している。頬はうぶげに覆われた桃の実のようにみずみずしく、ほんのり透ける血潮がグランテールの顔まで紅潮させた。

「奥へ」

　薔薇の花弁のような厚い唇がわずかに動いて、弦楽器の音色を発した。それは傍らの主人に向けられた言葉だったが、華やかな外見に不釣り合いなほど低く力強く、グランテールは言葉の意味を解するまでに時間を要した。

　すなわちアポロンはキャフェ・ミュザンの奥の間に行こうとしており、そうと解したときには、アポロンはもう奥へ続く廊下に踏み出していた。大理石の像にしては、なめらかで音もない、流れるような動きだった。

　そこで初めて、このアポロンは命を得た大理石の像でなく、どうやら生きた人間らしいとグランテールは思い至ったのである。

　ほとんど空のグラスと葡萄酒の瓶を両手に持ち、グランテールはふらふらと彼の後に続いた。

　キャフェ・ミュザンの奥の間へ行くのは、実はグランテールは初めてである。主人の特別の客か、特別な会合の参加者でもない限り、その存在自体知られていない空間なのだ。

　アポロンは、特別の会合の参加者というわけだろう。

　狭い廊下の先を歩くアポロンは、手脚が長く背丈もあったが、存外に華奢な肩をしていた。豊かに渦巻くブロンドを細いリボンで結わえ、うなじに垂れた一房の毛先が、歩くにつれてリズミカルに弾む。

　背後についているグランテールに、気付いているのかいないのか、反るほどに神経の張りつめた背中は、拒絶の意志を表すでもなく、だが一定以上の距離を近づくことを許さず、従うことを強要した。グランテールの言い分としては、アポロンの後をつけたのは、決して彼自身の意志ではなく、アポロンの姿形に吸い寄せられたのである。

　その背は、見る者が後を追わずにいられない、雄々しさと力強さと、そして不可思議な脆さとを同時に合わせ持ってていた。心ある者ならば、彼の背に続きたくなり、また守りたいという思いに駆られるのは、至極当然のことだろう。

◆

　奥の間には、既に数人の男たちが集まっていた。誰もが若く輝いた目をしており、ほとんどはまだ学生のように見える。

「来たね、アンジョルラス！」

「お茶にするかい？　それともコーヒー？」

「アンジョルラス、新しいビラを見てくれないか。あおり文をプルヴェールが書いたんだが、民衆にはちょっと詩的過ぎやしないかね？」

　口々に名を呼び、アポロンを取り囲む。

　彼は、アンジョルラスという名前らしい。

　仲間と一言二言のやりとりを交わし、受け取ったビラに目を落として、かすかに微笑む。その横顔を、グランテールは間近に見た。

　秀でた額の下で、青い目がやわらかな光を帯び、上がった口角の片側に白い歯がこぼれる。ほっそりした顎に納まらなかった糸切り歯が、八重に生えている。

　不意に笑った横顔は、それまでの印象とは正反対に、まるであどけない少女のようで、グランテールは目をみはった。

「これはまた、詩人・プルヴェールらしいな。コンブフェール、きみはどう思った？」

　彼はビラを仲間に返すと、上着を脱ぎながらテーブルの間を巧みにすり抜け、一番奥の席に陣取った。

　座の主たるその場所が、どうやら彼の定位置らしい。

　酔いの足先まで回ったグランテールは彼を追いかけられず、入口すぐのテーブルに引っかかって立ち止まった。

　手前のテーブルに座っていた男が、ようやくグランテールを見上げる。

「ねえ、アンジョルラス。彼はきみが連れてきたのかい？」

　皆が一斉にグランテールのほうを見る。

　奥に腰掛けたアンジョルラスもちらりとグランテールに目をやったが、

「いいや」

　ただ簡潔に否定した。

　それきりアンジョルラスは、インクを染ませた羽根ペンで、紙に何やら書き付け始めた。先ほどビラを返した仲間を傍らに呼び、自分の書き付けとビラとを指さしながら話を始める。

　つまり、グランテールに関しては、アンジョルラスはそれきり忘れ去ったのだ。さらにもう一人が話し合いに加わり、隣のテーブルでは別の話が始まる。

　ここはキャフェ・ミュザンの奥の間で、特別な会合の参加者でなければ通されない。片手に酒瓶、片手に空のグラスを持ったほろ酔いのグランテールが迷い込むには、およそふさわしからぬ場所なのだ。

　グランテールは戸惑い、だがこの場を離れる勇気もなく、その場にたたらを踏んだ。

「きみは、誰だい？」

　手前のテーブルの男が、グランテールに声をかけてきた。顔つきや目の輝きはまだ若いが、どういうわけだか頭頂部がきれいに円く禿げている。

「グランテール」

　グランテールは答え、空きグラスで宙に大文字のＲを描いた。大声だったので皆が顔を上げたが、アンジョルラスだけはまるで聞こえないように話し続けていた。

「僕は、レーグル・ド・モー。皆にはボシュエと呼ばれてる。不運の星の下に生まれた男さ」

　レーグルは禿頭をつるりと撫で上げてから、向かいの椅子を指し示した。グランテールは腰を下ろし、テーブルに酒瓶とグラスを置く。

　小柄な青年が椅子ごと、同じテーブルに引っ越してきた。

「ああ、こいつはジョルルルリ」

「ボシュエ、そう気前よくエールを増やさないでくれよ。僕はジョリ、よろしく」

　子犬のように人なつこい笑みで、ジョリは握手を求めた。この二人は、アンジョルラスとは雰囲気が大分違い、この場の異分子であるグランテールに純粋に興味を持ったらしかった。

「それできみは、全体どうしてここにいるんだい？」

　ジョリに訊かれて、グランテールは答えに詰まる。

　自分でも、よくわからない。強いて言えば、アンジョルラスの背に吸い寄せられてきたのだが、当のアンジョルラスにはきっぱりと否定されてしまった。

　答えるかわりに、グラスに葡萄酒を注ぎ、一息に呑み干す。

「祖国フランスの未来について、つまり革命と共和制について、きみはどれくらい理解している？」

　レーグルに畳みかけられ、グランテールはまた葡萄酒をグラスに注いだ。彼は現代のあらゆる思想について深く理解していたが、とっくにそれらを疑い、批判し終え、今ではまったく興味を失ってしまったのだ。

　仕方なく、葡萄酒を飲み干して答えの代わりとする。

「人民の権利と社会契約について」

「欽定憲法と、共和歴二年の憲法の比較について」

　訊かれるたびに、グランテールはグラスを空にした。持ってきた酒瓶も、たちまち空になった。

「きみは、浴びるように葡萄酒を飲むんだねえ。体のためには少し節制したほうがいい」

　呆れたように、ジョリが鼻を鳴らす。

　見れば、周囲のテーブルにあるのは、紅茶かコーヒーか水で、誰も酒など飲んではいない。

　追加の葡萄酒を頼もうと、グランテールは片手を上げたが、店員は誰も来なかった。

　どうやら、奥の間には店員も滅多に出入りしないらしい。

　グランテールは、さらに高く手を挙げるために立ち上がった。動いたはずみに酔った血液が全身にめぐり、ふらついてテーブルに両手をつく。右手が触れた空の酒瓶を持ち上げて振り、グランテールは追加を要求した。だがもちろん、店の者は誰も見ていない。

「それできみは、本当のところ、アンジョルラスに着いてきたってわけかい？」

　立ち上がったグランテールを見上げて、ジョリがにこにこと訊ねる。グランテールは空の酒瓶の口でジョリを差し、叫んだ。

「そうだ！　僕はアンジョルラスに着いて来たんだ！」

　再びの大声に、皆が顔を上げてグランテールを見た。

　アンジョルラスだけが、手元の図面に目を落としたままだった。今度は皆が、アンジョルラスのほうに視線を移す。

　数秒の沈黙に、アンジョルラスがやっと青い瞳を上げる。意志の強さを示す眉が、ほんのわずか中央に寄っている。

「酒を置け、グランテール。話はそれからだ」

　グランテールではなく、持ち上げた酒瓶に向かって言い放ち、アンジョルラスは再び図面に目を落とした。図面に指を滑らせながら、傍らの書記に囁く指示の声色は低く、周囲の談笑のさざ波を誘った。

　皆はまた、それぞれのテーブルで話を始めた。

　グランテールは、気抜けしたように再び椅子に崩れた。

　ともあれ、グランテールはこうして、ＡＢＣの友の集まりに加わるようになったのである。