ただ彼らの熱気の一端にいて、酒を煽り、愉快にやる。傍目には、彼は仲間たちの輪に関わり合いがあるようには見えなかっただろうが、グランテールはその場にいることが心地よく、かつ愉快だった。

　彼が人生に求めるのは、美しさと愉快さだけなのである。

　時折、グランテールが酔っぱらってまくし立てる皮肉たっぷりの演説を、レーグルやジョリは面白がったし、ＡＢＣの友の集まりは一人の酔漢を呑み込むくらいの鷹揚さがあった。誰もが政治的なことばかり考えているわけではなく、日々の生活があり、学生には学問があり、若者らしく恋の悩みもあり、ただそれらの根底に祖国への情熱が共通していただけなのだ。

　陽気なレーグルや、人懐こいジョリ、詩人のプルヴェールは、ＡＢＣの政治的活動に加わったが、決して首謀者ではなかった。周囲の熱に感化され、着いていくほうの人間だった。

　渡り者のバオレルは、あらゆる階層に顔が利くという理由で、アンジョルラスに必要とされていた。他の政治結社との連絡をつけるのが、彼の役目だった。

　貴族のクールフェラックは、その義侠心でアンジョルラスに共鳴し、ＡＢＣの仲間になった。義に厚い彼の情熱は、仲間たちの拠り所となった。

　どこか現実離れした夢想家のマリユスも、彼自身には政治的関心がほとんどないように見えたが、クールフェラックにつなぎ止められていた。

　アンジョルラスの両腕として、ＡＢＣの実体を動かしていたのは、コンブフェールとフイイである。

　コンブフェールは、あまりにも純潔なアンジョルラスの理想を、民衆にもわかりやすく伝え、仲間を導いた。常に相手を思いやる彼の言葉は、一人一人の心に伝わった。

　孤児で扇子職人のフイイは、学生にはない現実を動かす力で、アンジョルラスの理念を具体的な形にした。緻密な計画を立てたり、図面を引くのが、彼は得意だった。

　アンジョルラスは、祖国への情熱だけで存在する、カリスマ的存在だった。胸に燃える情熱を抱きながら、頭脳は恐ろしく冷徹だった。彼自身は、金持ちの一人息子として裕福に暮らしていたが、共和制につながらないものは何一つ目に入れようとしなかったし、彼の志を妨げるものは、徹底的に排除した。彼の祖国への想いは、あるいは一途な恋心と呼ぶべきだった。

　アンジョルラスの美貌には、数多のマドモワゼルが夢中になったが、うっかり流し目など送ろうものなら、青い深淵の瞳の手酷い拒絶にあった。彼に惹かれ集まる仲間たちでさえ、その手を取り、あるいは肩に手を置くことを、無意識に控えた。苛烈とも言える彼の存在は、周囲を強烈に引きつけ、同じだけの強さで距離を置かせたのである。

　グランテールはあえて、その距離を縮めようと試みた。

　アンジョルラスのいるところで大酒を飲み、大声で騒ぎ立て、皮肉や冗談で周囲を笑わせる。

　アンジョルラスは大抵は無視したが、目に余るときだけ、その低い声でたしなめる。すると、グランテールは素直にうなずき、黙り込んでにやりとする。

　アンジョルラスが自分に何らかの反応を見せてくれることは、たとえ好意的な感情でなくとも、グランテールには興味深かった。それで祝杯を上げて、また睨まれるのだった。

　そんなわけで、アンジョルラスはグランテールを仲間として認めることはなく、それどころかあからさまに軽蔑していた。重要な相談のときには、グランテールからなるべく離れたテーブルで声を潜めた。

　グランテールは本当は誰よりもアンジョルラスの思想や理念を理解できると自負していたから、少し面白くないと思いつつ、だが仲間たちのように政治活動に熱を入れる気にもなれず、ただ彼を横目で見ながら酒を飲んだ。

◆

　パリ中で貧困が続き、乞食があふれ、幼い子供がパンを食べられずに死んだ。貧民の間には富裕層への恨みが渦巻き、時折暴動の計画が囁かれるようになった。いよいよ民衆が立ち上がるべき時だと考えたアンジョルラスは、ほうぼうの集会や組合に手分けして決起の説得に赴かせたのである。

　あらかた行き先を割り振ってから、アンジョルラスは人数が一人足りないことに気付いた。

「マリユスは来ていないか。僕は彼に頼もうと思っていたんだが」

　アンジョルラスが呼びかけたが、皆は首を横に振った。

　マリユスは、もうずっとＡＢＣ集まりに顔を見せていない。恋の病で、仕事も手につかず、アパートを追い出され、クールフェラックのもとに身を寄せているという。

　世間知らずの夢想家が、生まれて初めて身を焦がす恋をしたのだ。しばらくは使いものになるまいと、グランテールは見ていた。たしかにマリユスのように思いこみの激しい人間は、何かきっかけがあれば、他人にはない「やけくそ」の力を発揮するだろうが、そんなきっかけがあるはずもない。

　が、アンジョルラスは、そのマリユスに期待していたのだ。政治的思想や理念はほとんど理解しておらず、この場にいもしないマリユスに。

　グランテールは少し意外で、思わず名乗り出た。

「僕がいる」

　グランテールの声に、皆が意外そうに振り返る。

「メーヌ城門へは僕が行こう、アンジョルラス」

　グランテールは繰り返したが、皆の反応は薄かった。グランテールはこのときも酒瓶を持ってはいたが、それほどには飲んでいなかった。素面だという証拠に、グランテールは酒瓶をテーブルに置き、自分の胸に手のひらを当てた。

　グランテールを見ていた皆が、再びアンジョルラスを振り返る。

「きみが？　きみが何の役に立つって言うんだい、グランテール？」

　アンジョルラスは、眉根を寄せたまま首をかしげた。アンジョルラスの青い瞳がグランテールを映す。

「僕にだって、きみの役に立ちたいという気持ちはあるさ」

　その瞳の青さに気圧され、グランテールは控えめに申告した。アポロンの美貌に真正面から見つめられることに、グランテールは慣れていない。

「きみは何も信じちゃいないだろう」

　グランテールを見透かすように、アンジョルラスは断言した。グランテールが酔って皮肉ばかり並べ立てるのは、すべての学問や理論に対して懐疑的である、すなわち信念がないからだと、仲間たちはこの頃理解している。

「僕はきみを、信じてる」

　真剣に、グランテールは告白した。

　たしかにグランテールは、アンジョルラスの理想とするロベス・ピエールもダントンも信じちゃいない。だが、アンジョルラスだけは、彼にしては珍しく、理論ではなく、ただ彼という存在そのものを信じている。

　もしもアンジョルラスの青い瞳がグランテールの心を見透かせるならば、それを知って欲しかった。

「ならひとつ頼まれてくれるか、グランテール」

　ごく冷静に、アンジョルラスは切り出した。

「いいとも。何ならきみの靴を磨いたっていい」

　グランテールは喜んで何度もうなずいた。

「僕たちのことに、口出ししないでくれ」

　青い目が、冷たい拒絶の光を放つ。

　グランテールは落胆した。

「きみはひどい男だな、アンジョルラス」

　落胆しながら、グランテールはなおも食い下がった。

「じゃあ、マリユスがいない今、メーヌ城門へは誰が行く？　皆、めいめいに他の行き先があるじゃないか。そして僕らには、のんびりしている時間がない。そうだろう？」

　グランテールの呼びかけに、周囲が顔を見合わせる。アンジョルラスは腕を組んだまま、身じろぎもしない。

「メーヌ城門へ行って、すっかり腑抜けて、ドミノ遊びばかりしている連中に、革命への情熱をたきつければいいんだろう？　祖国・フランスの明日のためにさ！」

　両手を広げて、グランテールは訴える。

「きみにできるのか？」

　アンジョルラスの青い目は、あくまでも淡々と冷たい。

「できるさ！　連中に話をして、思い起こさせてやるんだ。ロベス・ピエールのこと、ダントンのこと。ちぇっ、僕は本気だぜ。やろうと思えば、たっぷり六時間演説をぶつことだってできる」

　グランテールは胸を張った。

　嘘ではない。本当だった。知識は十二分にあるのだ。ここにいるメンバーの中でも、グランテールと対等な見識を持つ人間は多くないだろう。貧乏暮らしのマリユスに比べるくらいなら、グランテールのほうがずっと共和制への理解は深い。

　そしてアンジョルラスのためなら、グランテールは何だってする。

　アンジョルラスの青い瞳に、長いまつげが逡巡を示す数秒伏せられ、再びグランテールを映す。

「わかった。きみを試してみよう、グランテール」

　アンジョルラスは決断した。秀でた額に迷いはなかったが、微笑みもなく、厳しい表情のままだった。

「任せておけ」

　そこで皆一緒にキャフェ・ミュザンを出、それぞれの方向へ散った。

　グランテールは一度アパートに戻り、赤いチョッキを着た。

　赤は、彼らの情熱を示す色であり、グランテールにとってはアンジョルラスへの信奉を表す色だった。

◆

　彼らは、一時期は熱心に政治談義をかわしたりもしたが、この頃はすっかり火が消えたようで、ドミノ遊びにばかり興じている。アンジョルラスが案じているのはまさにそこだった。

　革命は、民衆の総意である。皆が心を一つにして、時を同じくして立たなければ、共和制の明日は来ない。何もせずにいるのはたやすいが、ただ時に流されては、生きる権利を失うことになる。

　そういったことを、民衆一人一人に説いて回るのだ。

　リシュフー喫煙店のドアは、腰くらいの高さの簡素なバネ扉である。グランテールが店に入ると、扉のバネがキイキイと軋み、店中の客がグランテールを振り返った。

　薄暗く、白く煙った店内には、二十人ばかりの男たちがいた。テーブルの上には水パイプの細長い管と酒のグラス、ドミノ牌や銀貨が無造作に並べられ、男たちの腕や顎や足までもが載せられている。

　グランテールの顔を見て、奥のテーブルの一人が手を挙げた。

「やあ、どうしたグランテール」

　煙をかき分けて近寄ってみると、ウサギ肉のシチューがうまい居酒屋でよく一緒になる男だった。

「珍しいな、きみとここで会うなんて」

　見れば、同じテーブルに見知った顔が座っている。キャフェのダンス・パーティーで見知った顔もいたし、棒術を競った相手もいた。グランテールは、パリ中に知り合いが多いのだ。

　それでも、多少は緊張していたので、グランテールはほっとしつつ、すすめられた椅子に腰を下ろした。

「今日は、皆に話したいことがあって来たんだ」

　渡されたグラスを受け取りながら、グランテールは切り出す。

「何だ、改まって、気持ちの悪い」

「今日は珍しく酔っていないみたいだな、グランテール」

「らしくないぞ、きみが握ったグラスに酒が十秒以上残っているとは！」

　だが皆は、既に相当酒を飲んでいたらしく、いつになく深刻なグランテールの口上を気にもせず、畳みかけるようにはやし立てた。

　注ぎ足そうと近づいてくる葡萄酒の瓶の口につつかれて、グランテールは手の中のグラスを飲み干す。グラスはすぐまた、葡萄酒の赤で満たされる。

「酔っていないきみなんて、気の抜けたビールだな」

「この泡立ったビールを飲めよ、グランテール。まだ顔が赤くない」

「こいつはどうだ？　ここのブランデー馬の小便みたいに薄くて安いが、酔いの回りの早さにかけちゃ、どんな高価な酒だってかなわないぜ！」

　すすめられるままに、グランテールはグラスを干し続けた。

　なすべきことはわかっている。彼らを説得して、共和制への情熱をかき立てねばならない。グランテールには、アンジョルラスの理想を代弁する準備がある。アンジョルラスが民衆に語りかける様を、グランテールは何度も見ている。

　が、実際には、民衆に向かって演説をするということは、グランテールには初めてだった。街頭演説ならいざ知らず、喫煙店の薄暗い店内で、雑談し、酔っぱらい、ドミノに興じる相手に、どうやって耳を傾けさせるというのだろう？

　グランテールは話のきっかけを探しあぐね、仕方なく酒をあおった。語るべき言葉に詰まった彼の、いつもの癖である。

「いいか、きみたち！　スラムには貧民が寒さにふるえ、子供がパンを食べられず、一部富裕層ばかりがブタのように肥え太っている。これは壮大な誤りだ。祖国フランスのあるべき姿ではない。生きる権利を取り戻すため、今こそ民衆の立ち上がるとき、ドミノ牌を置き、武器を手に外へ出よう！」

　酔った勢いで机を叩き、グランテールは怒鳴ってみたが、周囲はどっと笑い崩れた。

「まずはきみが酒瓶を置いたらどうだ、グランテール！」

「小難しい話をするなら、先に我々を黙らせるんだな」

「ドミノで勝負だ。きみがドミノに勝ったならば、賭金のかわりに話を聞いてやろう。銀貨一枚につき五分だ」

　口々にヤジを飛ばし、手を叩いて指をさす。指と一緒に突き出された瓶の口から、新しいブランデーが注がれる。

「ようし、いいとも。勝負を受けよう！」

　ブランデーを飲み干して、グランテールが机を叩く。周囲はまたゲラゲラと笑い、机にドミノ牌を配りはじめる。

　グランテールが、相当に酔い始めていたのはたしかな事実だ。ここに来て既に、三杯の葡萄酒、二杯のビール、四杯のブランデーを、並行して飲み干している。酒というものは、種類を混ぜて飲むのがいちばん回りが早いのだ。

　それに、疑い深いグランテールは、ここに来て自分自身をも疑い始めていたのである。民衆に向かって共和制を説くという姿は、本来のグランテールらしいだろうか？　あの美しいアンジョルラスや、熱血漢のクールフェラックと同じやり方で、果たしてグランテールの言葉に誰が耳を傾けるだろうか？

　彼には、彼にふさわしいやり方があるはずだった。そのやり方には、ドミノも含まれるのではないか。酔った思考回路で、彼は考えた。

　グランテールは椅子の上で片膝を立て、高い音を立ててドミノ牌を置いた。ドミノで勝つ方法も、博識な彼は心得ている。

「ダブル六」

「四」

　交互に牌を並べるうちに、急速に頭に上っていたアルコホルが、ほどよく体内にめぐり、全身をリラックスさせた。これこそが、グランテールだ。

「ポイント！」

「ちぇっ、パスだ」

「ドミノ！」

「こいつめ！」

　最初の勝利を収めたとき、グランテールはふと気配を感じた。

　冬の夜空のようにりんと冴えて張りつめた、身の引き締まるような独特の気配。

　顔を上げて、扉のほうを見る。バネ仕掛けの扉は、今出ていったばかりの人を追いすがるように、キイキイと揺れている。

　扉の向こうに、背筋を伸ばした、輝くブロンドが、小さく遠ざかるのが見える。

　アンジョルラス！

　声には出せず、グランテールは息を呑んだ。そういえばアンジョルラスの目指す先には、リシュフーの店は通り道だ。彼はグランテールを試すと言った。だから、通りすがりに様子を見に来たのだろう。

　そして、失望し、去ったのだ。

「グランテール、もう一度だ！」

　怒鳴られて、グランテールは我に返る。テーブルには、煙草の煙の合間に酒瓶が林立し、そのまた合間に赤ら顔の男たちがドミノ牌を握りしめている。

　グランテールも同じ顔をしているはずだった。

　所詮は、そういう人間なのだ。偽りの理想を語るのがいやで、自分を偽るのがいやで、どうにもならない。

　アンジョルラスへの信奉は、決して偽りではないのに。

　急かされて、グランテールは牌を握る。グランテールには、ドミノ牌の目を予測するより、自分の本心を人に伝えるほうが、よほど難しいのだった。

◆

　その日、グランテールはコラント酒場の二階で飲んでいた。彼が飲まない日はないのだが、その日はとくに滅茶苦茶に飲んでいた。

　ちょうどレーグルとジョリが来合わせて、一緒に飲み始めたというのもある。

　陽気なレーグルとジョリのおしゃべりを聞きながら、グランテールは飲み、大いに騒いだ。

　そこへ、一人の浮浪児が伝令を届けに来た。

「ここにボシュエって人はいる？」

　狭い階段口から顔を出した浮浪児は、ピカピカの銀貨を握りしめている。金持ちからの使いだろう。彼は手を挙げたレーグルを見つけ、駆け寄って伝言した。

「ラ・マルク将軍の葬儀に来て欲しいって。背の高いブロンドの人が言ってたよ」

「アンジョルラスだ！」

　浮浪児の伝言に、酔ったグランテールは舌打ちしながら叫んだ。

「アンジョルラスは、僕のことを軽蔑してる。だから僕ではなく、ボシュエを呼んだんだ」

　レーグルは少年に銀貨を握らせて帰すと、ジョリのほうを見た。ジョリは窓から手を出して、その手のひらが濡れているのを確かめてから、ずるりと鼻をすすった。

「雨が降ってる。風邪引きが外出するには、最悪の天気だ」

　ジョリはひどい風邪で、さっきから鼻を詰まらせているのだった。

「僕たちはまだ食事が済んでいないしね。それに葬儀へ行かなくても、革命には参加できるだろう」

　レーグルはジョリにうなずき、テーブルの上のチーズを口に入れた。

　グランテールは朝から葡萄酒、ビール、ブランデー、スタウトを飲んでいたが、今はもっぱらアブサンをやっていた。一定以上の量を飲むと、火がつくくらいアルコホル分の高い酒でないと、味がしなくなるのだ。

「ボシュエより、僕を呼んでくれれば、すぐにでも駆けつけたのにな、アンジョルラス！」

　グランテールはぶつぶつ言い、レーグルとジョリの三人は、そのままそこで飲み食いを続けた。

　どれくらい、そうしていたか。

　ラ・マルクの葬儀から行進を続けていた民衆の一群が、やがてコラント酒場に到達した。手に手に武器を持ち、赤旗を振り、共和国万歳と叫んでいる。

　群の中に、アンジョルラスやクールフェラックの姿もあった。

「おおい、どこへ行く？」

　窓から身を乗り出して、レーグルは呼びかけた。

「バリケードを築く！」

　クールフェラックが答える。

「なら、ここがいい。ここにバリケードを築くんだ！」

　レーグルは大きく手を振った。このコラント酒場は、シャンヴルリー通りの行き止まりに位置し、左右の通りは細く塞ぎやすく、たしかにバリケードに適していた。

「よし！」

　アンジョルラスがうなずくと、民衆はたちまちコラント酒場に殺到し、店の内と外を占拠した。荷馬車を倒して通りを塞ぎ、敷石をはがし、テーブルや棚や、あらゆるものを集めて高く積み上げる。

　店内に入ったアンジョルラスは、グランテールがしたたかに酔い、テーブルに突っ伏しているのに気付いた。

「出て行けよ、グランテール」

　腕をつかんで、起こそうとする。いつもなら、アンジョルラスの言うことはおとなしく聞くグランテールだが、このときはつかまれた腕を振り払い、その場に居座った。

「ここで眠らしてくれ、アンジョルラス」

　アルコホルの招く急速な眠気と戦いながら、グランテールは懇願した。

「出て行け。ここは神聖な戦いの場で、酔っぱらう場所じゃない」

　アンジョルラスの青い目が、冷たい炎をたたえている。

　だが、ここはもともと居酒屋で、グランテールは正しく居酒屋で飲んでいただけだ。ここをバリケードに選んだ、彼らのほうが勝手なのである。

　そういえば、グランテールの行きつけのキャフェ・ミュザンを集会所に選んだのも、彼らのほうだった。彼らは、アンジョルラスはいつでも、何故かグランテールを道連れに選ぶ。
　グランテールは唇に、かすかな笑みを浮かべた。

「ここで眠らしてくれよ、僕がここで死ぬまで」

　微笑んだ唇のまま、グランテールは懇願した。

「グランテール、きみは革命の志士として生きることはできない。そして死ぬこともできないんだ」

　アルコホルのもたらす眠りの闇が、もうすぐそこまで来ている。アンジョルラスの怒りをたたえた青い瞳が、白い顔とブロンドの髪が、閉じかけたまぶたの向こうにまぶしい。

「僕の言うことが、今にわかるさ。僕をここで眠らしてくれ、アンジョルラス」

　アンジョルラスは、もう一度グランテールの肩をつかんで揺さぶった。だがグランテールは、それきりアルコホルのもたらす昏倒に落ち込んでしまった。

　アンジョルラスは、この意識のない酔っぱらいをバリケードの外につまみ出すこともできたが、酔漢の体は決して軽くはなく、他にやることがいくらでもあった。そこでアンジョルラスは、グランテールを追い出すことはあきらめて、その場を離れた。

　そしてグランテールは戦乱の中、バリケードに積み上げるには小さすぎるテーブルごと、革命に忘れ去られたのである。

◆

　内戦は、すさまじいものだった。バリケードを挟んで、同じフランスの若者同士が殺し合い、血を流し、路上に無惨な屍を晒した。戦いの中で、学生たちはもちろん、愛すべき勇ましい浮浪児も、男装の哀れな小娘も、皆死んでいった。

　グランテールはその間、ずっと眠り続けていた。

　空を揺るがす大砲の轟音も、バリケードの激しい銃撃戦も、軍靴がコラント酒場の床板を踏み荒らす足音も、断末魔の友の悲鳴さえ、グランテールの眠りを覚ますことはなかった。

　それらすべてが過ぎた後の、恐るべき死の静寂だけが、眠りの底のグランテールを浮上させた。

　目を開ける前に、グランテールは血のにおいを嗅いだ。殺されたばかりの友の血が、そこら中にあふれ、流れ、階下にしたたり、糸を垂らしている。目を開けると、黄昏の夕日に照らされた床も壁もテーブルも何もかもが赤黒い血に沈んでいた。見覚えのある顔が、屍となって彼を見上げていた。

　撃鉄を起こす金属音に、グランテールは跳ね起きた。

　奥の壁に向かい、兵士たちが一斉に銃を向けている。壁を背にしてただ一人、何丁もの銃に狙われ、なお毅然と正面を見据える姿に、グランテールは声にならない声を漏らした。

　アンジョルラス。

　彼はただ一人、バリケードの最後の一人として、今まさに銃殺されようとしているのだ。

　輝くブロンドにも、蒼ざめた白い肌にも、べったりと返り血を浴び、だが自身は傷一つ負っていない。黄昏の斜陽に黒々と長い影をまといつかせ、なお強い光を瞳に宿し、彼は背を伸ばし、武器を持たない両腕を悠然と垂らしている。絵のような立ち姿は、神話のアポロンそのものだ。

「花を、撃つようだ」

　彼に狙いをつけていた兵士が、呻いて銃を下ろす。

「聞こう。このバリケードの首領はきみか」

　兵士がアンジョルラスに問いかける。まるで否定を懇願するような響きだった。

「そうだ」

　だが、アンジョルラスの答えは簡潔で、迷いも躊躇いもない。

「大砲の砲手を撃ち殺したのはきみか」

　兵士は別の質問を繰り返す。

「そうだ」

　眉一つ動かさず、アンジョルラスは答えた。

　彼に注ぐ斜陽がもう少し明るければ、あるいは彼の頬に既に乾いた一筋の涙の跡が見えたかもしれない。だが彼は、助命を乞うことも、逆に強がることも、その心の内を表情に透かすことさえ、しようとはしなかった。

　彼を殺したくないという兵士の試みは、彼の冷静の前にすべて潰えた。

「撃つ前に、目隠しをして欲しいか？」

　最後に、兵士が聞く。

「いいや」

　アンジョルラスは無表情に首を振る。

　あきらめた兵士が、再び銃を構える。

　ここで初めて、グランテールは声を上げた。

「共和国万歳！」

　叫びながら、両手を挙げ、グランテールはしっかりした足取りで、アンジョルラスに駆け寄った。

「待て、僕もいる。僕も仲間の一人だ」

　銃口をかき分け、グランテールはアンジョルラスの前に両手を広げて立ちふさがった。

　兵士たちは、驚いたようだった。テーブルに昏睡していたグランテールは死体のように見えていたので、まだ生存者がいたことにまず驚いた。そしてまさにこの場に、武器も持たずに飛び込んできたことに驚いたはずだ。そのまま死んだふりをしていれば、グランテールは死なずに済んだかもしれないのである。

　戸惑いに動きを止めた兵士たちに、グランテールは言い放った。

「二人を一発でやってくれ」

　それが、グランテールのただひとつの願いだった。

　彼がＡＢＣの友と交わり、あるいはこれまでの人生を生きてきたのは、今この瞬間のためだった。そうと自覚し、この瞬間に居合わせた運命を、彼は生涯の誇りに思った。

　振り返り、グランテールはアンジョルラスに両手をさしのべた。

「許してくれるかい？」

　共に死ぬ許しを、アンジョルラスに乞う。

　アンジョルラスは、何も言わなかった。

　わずかに目を見開いてグランテールを見つめ、だがすぐに何もかもわかったようだった。

　グランテールのただひとつの望みが、何であるのか。グランテールが何故いつも、アンジョルラスに疎まれながらも、そばにいたのか。

　アンジョルラスの白い頬に、やわらかな微笑みが浮かぶ。

　澄んだ青い瞳にまっすぐにグランテールを映し、アンジョルラスはグランテールの手を取った。

　彼らに向けられた銃口が一斉に火花を放ち、轟音が響く。

　背を撃たれ、グランテールはアンジョルラスの足下に崩れた。アンジョルラスは、壁に凭れて立ち尽くし、青い瞳に祖国の未来を映したまま絶命した。

　急速に冷えゆく残照の中、指先に残された互いの体温だけが、グランテールに与えられたアンジョルラスのすべてだった。