| 微 熱 |
その晩、寝台に寝かしつけられた嘉は、出て行こうとする潁を呼びとめた。小さな声であったが、潁はすぐに踵を返してかしこまった。 「寝つかれぬ。何とかせよ」 漠然とした物言いに、潁が困ったように顔を上げる。夕方、涼を求めてよじのぼった樹上に眠り込んでしまい、さしもの潁も捜索にてこずり、つい先刻やっと連れ戻されたばかりなのだ。このうえ無理難題を口にしようとは、少なからずむっとしたのかもしれぬ。 だが思案の末に、潁はこの「坊ちゃま」を寝かしつける妙案を思いついたようだった。 「遅くまで風通しのよいところにいらっしゃったので、きっと手足が冷えておいでなのでしょう。足湯をお持ちします」 秋が近いせいか、日が落ちると急に冷えこむようになっていた。風は乾いて、わだかまることなく行き過ぎる。 冬場に手足の冷える嘉がぐずるのを、喬が無理矢理に湯につけて温めているのを思い出したのだろう。風のようにその場を離れた潁は、すぐにたらいにぬるま湯を張って運んできた。 潁に促され、寝台に腰掛けたままでつま先を委ねると、本当に冷えきっていた。潁の手のひらの温もりが熱いくらいなのである。 そのままたらいの湯に浸し、潁は薄闇に灯りもつけずに嘉の足先を洗い始めた。 片足ずつ、両手のひらに包み込み、くるぶしや足裏を指の腹で丹念にもみほぐす。指の股を一本ずつ洗い、合わせた手のひらで丁寧にこする。 潁の触れたところから、確かに温もりと眠気がじわりと這い昇るのを、嘉は立ちのぼる白い湯気越しに眺めた。 「お食事を召し上がらないから、夏だというのに、ご自分で体を温めることが出来ないんですよ。こうすると、だんだん眠くなってまいりますでしょう」 潁が珍しく多弁なのは、己の眠気のためらしかった。もう大人と呼ばれる年頃であったが、未だ背が伸び続けており、夜明け前に起床する生活をする潁にとっては、もう体が休息を欲する刻限なのであった。 嘉とても眠りには貪欲な年の頃であったが、成長期の体とは裏腹に、夜になると神経が奇妙に苛立った。 夜に眠れぬ分を、昼間に細切れに補う、それゆえに余計に夜の眠りが浅くなる。うとうと寝ついても、現との境のあいまいな悪夢に目を開く。一人闇の中に夢と現を行き来する浮遊感が、確実に体への負担となっていた。深く眠れるのならば、どんなにか楽であろう。 「夜に眠ると、夢を見るのだ」 のろのろと嘉が口を開く。 「眠りが浅いからでございましょう」 潁が顔も上げず、同情するでも咎めるでもなく答える。 「繰り返し、同じ夢だ。 誰かの膝に眠っているのだ。だが目を開けると、真上にあるはずの顔が白くかすんで見えない。手を伸ばしても、何にも触れずにただ白いもやをつきぬけて」 ようやく潁が顔を上げた。嘉がよくしゃべるのも、珍しいことではある。 「ちょうどお前のように、かすむのだ、猫」 闇と湯気に紛れて、無言で見上げてくる顔に手を伸ばす。 右手の指先が前髪をはらい、その下の失われた眼のくぼみををためらいがちにたどり、頬をすべらせ、首筋に触れる。押し当てた指先に頚動脈が温かく波打った。 潁は動けずに、じっと主を見上げている。 「猫。ひとと交わったことはあるか」 脈絡のない問いに、潁の表情が、闇の中でもあからさまにぎょっとする。年頃的には、潁のほうがまさにそういった好奇心の佳境にあるはずだったが、生活環境と生来の生真面目さとからはかばかしい発展はなく、まだ子供にしか見えぬ嘉の口から発せられた言葉を、にわかには理解しかねる、といった態である。 「そう、驚くこともあるまい」 嘉は意地悪く笑った。 「お前のほうが年が上だからな。どんな気がするのか、聞いてみただけだ」 「しもじもの者にお聞きになるような事柄ではありません」 嘉の指を振り払ってうつむいた潁が、早口に言い捨てる。顔色までは見て取れぬが、過剰な反応には違いない。足を洗う手は、幾分ぬるくなった湯の中で戸惑っている。 嘉は面白がって、再び潁の前髪に指を手荒く差しこんだ。無理矢理に仰向かせて、覗き込む。 「他人の手中にありながら、己が知らず応える様……見たくはないか」 気配を窺う猫のように、潁の残された右目の光が闇を泳いだ。 その様を見下ろしながら、しかし嘉には己が何をしたいのかよくわかっていなかった。衝動がこみ上げるままに潁の髪を握り締めながら、たとえこの場でこの首を力任せにもいだとしても、満たされないことだけは自覚していた。 得体のしれぬ焦燥と、無言で睨み合い、先に目をそらしたのは嘉であった。 「つまらぬ奴だ。寝る」 手を離して、吐き捨てる。 突然解放されたことをいぶかしみながらも、潁はすぐに穏やかな表情に戻り、湯から引き上げた主の足を用意してきた布で丁寧に拭った。乾いた布で摩擦してやり、そっと夜具の中に戻す。 「これで少しは眠くなられましたでしょう。おやすみなさいませ」 座ったままの体を寝かしつけ、手早く夜具にくるむ。付け加えた微笑には、やっと自分も眠れるのだという安堵が覗いていた。 嘉はそれをじろりと睨み上げ、しかし何も言わずに目を閉じたのである。 ゆるやかに沈んだ眠りの底で、いつもの夢は見なかった。 |
続 |
今回は短めのここまで。
（何か他の更新が充実してそうなので）
次回が最終回の予定です。
夜が冷えこんできたので、温かめのシーンでした。
しかしこういうのが普通のラブシーン（笑）より好きな私はつくづくマニア。
お仲間(・・)人(・・)……いません？