| 微 熱 |
視線に気づいたのは、月季が果てんとする瞬間だった。 平素なら足音も気配さえも殺す人間が、不用意な息を飲んだのである。嘉はその一息から背後にいるのが誰であるか知り、彼のいつにない慌てぶりに、笑みを浮かべた。 月季が、焦れて身をよじる。未成熟な体からはあられもなく衣がひきはがされ、細帯に戒められた両脚の間には二人分の指先がからみあって侵入していた。息を弾ませ、宙に視線をさ迷わせている彼女には、他人の視線など思いもよらぬのだろう。 嘉は注意を戸外に向けたまま、何食わぬ顔で指を動かす。彼自身は衣服を一切乱さず、表情には何の欲情の色も浮かべていない。 事実、最初に交わって以来、体をつなげたことは数えるほどもないのだ。まだ幼い月季は変わらず痛がったし、嘉は衝動につき上げられるということが、その年頃にもかかわらずあまりなかった。 まるで子供が捕らえた蜻蛉の尾をちぎるように、彼は無心に妹の体を弄ぶ。 どこか無感動な兄の腕に、爪を食い込ませて、月季の体が不意に収縮する。 体をちぎられた蜻蛉が手の中でこと切れる瞬間のように、嘉は毎回、少しの驚きと不可思議な安堵、それに喪失感を同時に覚えるのだ。 脱力するなり急速な眠りに落ちていく月季を敷物に転がしながら、嘉は背後へ声をかけた。 「入って来い、猫」 今にも走り去ろうとしていた気配が、竦むのがわかる。 「聞こえないのか？ここへ来い」 月季の両足首の戒めを解きながら、命令調で促すと、戸口に影が佇んだ。明るい戸外の表情は逆光ではかりかねたが、所在なげにうなだれた肩は悄然と見えた。主家の「坊ちゃま」の情事を、意図せずとはいえ覗き見、それを咎められたのである。かつてないほど萎縮しているにちがいない姿が、奇妙な優越感を誘った。 眠り込んでいる月季を打ち捨て、戸口のほうへ数歩踏み出す。 「ここ、だ。何度言わせる？」 あきらめたように、影が動いた。今しがたの兄妹の戯れの続きの光景を目に入れぬよう、余韻の残るけだるい物音を聞かぬよう、或いは呼吸さえも封じて、嘉の足元に潁の長身がひざまづく。 「どこから見ていた？」 唇をかんで黙り込む潁を、嘉は見下ろす。答えに窮するとわかって、投げた問いだった。潁は長いこと、動かなかった。 「……何も」 沈黙の末に搾り出されたのは、短い答えだった。声は、予期していたよりも落ち着いていた。 「何も、見てはおりません」 顔を上げぬまま、重ねてしらじらと言いなおす。わずかな間に、気を静め、下僕の口にするべき答えを用意する。本来の水底のごとき静かさを取り戻しつつあるらしかった。 だが、その答えが主の望むものではないことは、百も承知していように。嘉の気性をわかっていて、信妙にうなだれたふりで、目線を合わせようともしないのだ、この猫は。 その横っ面を思いきり、嘉は平手で張った。 子供の細腕で殴られたくらいではまじろぎもしないはずの、若々しい青年の体が、それらしくぐらりとかしぐ。主を立てる素振りに、余計に腹が立った。 勢いのままに、蹴って小屋の隅に追い詰める。身をかばう両腕を掴みしめ、揺すって顔を上げさせる。 「嘘をつくな」 睨みおろすと、まっすぐに見上げてくる目とぶつかる。従順な猫の目には、しかし怯えの色はない。嘉の気まぐれな振舞いにはもうとうに慣れきっているのだ。 掴んだままの両手首に、嘉は手にしていた細帯をかけた。つい先刻まで、月季の両足を戒めていた女帯である。さしもの従者がぎょっと身を縮めるのを細めた視界の隅にとどめながら、ぐるぐると巻きつける。きつく縛った端を、引きずって、小屋を支える貧弱な柱に結わえつけた。 潁は、頭上で縛られた己の手首と、立ったまま見下ろす嘉とを交互に見上げる格好になった。 縄を抜ける、細作の技が潁に在ることを、嘉が知らぬわけではない。だがこうして、動くな、という暗示をかければ、たとえ縄を抜けることが出来ても動かぬ従者の性分もまた、熟知していた。 彼にとっての戒めは、幾重にも腕を縛る布ではなく、嘉の命令に他ならないのだ。 「何を見た？」 繰り返して、問う。何も、と同じ言葉の返るより先に、嘉は潁にかぶさるように身を屈めた。そのまま、股間にあるものを握り締める。 潁の全身が、たしかに、戦慄した。 幼い兄妹の遊戯を、未成熟な月季が愉悦を求める姿を、垣間見た名残が、若者のそこに硬くしこっていた。 「……これでも、何も見ていないと、言い逃れるか？猫」 総毛立った潁の耳に、囁いてやる。 これまでに一度も見たことがないほど、年若い従者は取り乱していた。ひたりと寄り添った体はわずかに震えており、額にはじっとりと冷たい汗が浮かびはじめる。頭上で縛られた手首が、すぐにでも抜け出しうるはずの帯の輪の中で、苦しそうにもがいた。 嘉の喉から、笑い声が洩れ出す。 ようやく、この従順に見えて意のままにならぬ猫の、長くしなやかな尾の先を捕らえたのだ。このまま思う様に、引きずり回してやりたいが。 色を失い、呼吸を求めて開閉する口を、いきなり塞いでやる。間近に迫る嘉の瞳を受け止めかねて伏せられたまつげが震えるのを見下ろしながら、顎に蝶番に指を押しこみ、唇をこじあけ、入りこむ。逃げ回る舌を追いかけ、粘膜を舐め上げると、月季よりも容易く音を上げた。 握り締めたままの手の中で、いっそう硬く張り詰める。 必死の形相で、避けようとする体の動きが、長年打ち忘れられていた脆弱な小屋をみしみしと揺すった。 「動くな、猫。お前が暴れると、このぼろ屋はすぐに潰れてしまうぞ」 柱に縛り付けた手首を、帯の上から握り締める。からかうように立てた爪が、規則を乱した静脈に食い込む。これだけで、彼の戒めはきつくなる。 そうしておいて、月季のそれを弄ぶように、指先を絡めこすりつける。きしむほどに食いしばり、耐える潁の薄く開いた瞳が熱に浮かされたように潤む。閉じたまつげをこじあけて舐めると、唇からは嗚咽に似た響きが洩れた。 潁は、犯されているのではない。苦痛は、鋭敏な感覚を追い立てられ、己の中の獣を抑えつけるためのものだ。 抑えつけられた、羞恥と慄きに覆われた表情の底に、獰猛な獣を隠している。かつて幼い嘉を力づくで蹂躙した男達の、肉体の感覚から心まで絡めとろうとした男の、粘着質にまとわりついてきた、それと同じ執着を。 体の最奥から沸きあがるあのときと同じ疼きが、既に嘉を貫いている。濁流の中で嘉の体を気を失うほどに強く抱きしめた腕が、そこにあるはずだった。 「どう、したい？猫」 打ち振るう頭を捕らえ、ひたりと目を合わせて、訊いてやる。 己の口から、その本性を白状できるように。従順な僕のそれではなく、体の最奥で、嘉に欲するものを。 「言ってしまえ」 だが潁は頑強に、首を振った。息を呑み声を呑み、わななく唇の形だけで、許しを懇願する。 お許しください、坊ちゃま、と唇は動いていた。 嘉は、失望し、逆上した。加減もせず乱暴に、潁の弱点を責める。若く敏捷な猫の弱点を、握り締めて上下に揺すり、あらぬ方向へ捻じ曲げる。猫はやがて、心底苦痛に息を喘がせはじめた。 唐突に、投げ出したのは嘉のほうである。 いつ気づいたものか、四肢を投げ出して転がったまま夢見心地の目をぼんやりと開いている月季と目が合ったのである。彼女は、自分以外に執着している兄と、兄の意のままにならぬ猫とを、不思議そうに見つめていた。 つき飛ばすように、潁の体を離れる。腕を頭上に吊るされたままの潁は、執拗な責め苦にもはや蒼白になった面をだらりとうつむけた。熱のこもったままの体が、無残に取り残された。 「お兄さま」 申し訳程度にまといつく衣にその身をくるませながら、月季が這い寄ってくる。 「この人、誰？」 あどけない仕草で、兄の脚に凭れ、潁を指差す。潁がびくりと跳ねて、いっそう身を縮めたが、月季は気にとめる風もない。 「猫だ。こいつは」 おざなりな答えに、素直に頷く。 「あら……知ってるわ。お兄さまの後を、いつもついて回っている人でしょう。そう、猫みたいに足音もさせないで」 それからにっこりと微笑し、やにわに潁に近づけると、唇をついばんだ。 「お願い。お母さまに、言いつけたりしないでね」 潁の青くなっていた頬にさっと朱が走り、驚きに目が白黒とひっくり返る。 「お兄さま、私、この人好きよ。お兄さまも好きでしょ。だってこの人、きっとお兄さまのこと好きよ」 立ち上がると、月季は嘉にも接吻をした。 嘉はじろりと妹を睨み、黙って小屋の外へ出た。月季がそれを追い、小屋には手首を戒められたままの潁が残された。 永遠に繰り返されるかと思われた灼熱の夏の日々は、その年は早く過ぎた。 母親に反抗する年頃になっていた月季は、毎日のように正室の目を盗んでは小屋を訪れ、あまり熱を出さなくなった嘉は妹を連れて遠乗りに出ることもあった。あたしじゃとても無理だからと、喬にせっつかれて、兄妹の馬を徒歩で追いかけるのは潁の役目である。 水辺まで馬を走らせると、幼い兄妹は衣服を脱ぎ捨てて冷たい水に飛び込む。 屋敷の外へ出ると、彼らはまるで邪気のない笑い声を立て、何も知らぬ子供のようにはしゃぐのだ。 「お兄さまったら嘘がお上手ね。お母さまに、私がどこにいるか問い詰められて、眉ひとつ動かさないんですもの」 「あのときね、茂みに隠れていて、私本当はくしゃみが出そうだったの」 「やだ、この岩陰になまずがいるわ。お兄さま捕まえる？」 声高にしゃべるのは専ら月季だったが、それゆえに嘉にとっては明るくやわらかな時間だった。 はしゃぎ疲れると、息を切らして追って来る、潁が用意した乾いた布に裸のままくるまって木陰に昼寝する。夜には眠れぬのに、このときばかりは心地よくまぶたが重くなり、目が覚めると空腹感が訪れているのが嘉には不思議だった。 秋口には、食事どきに自然に空腹を覚えるようになった。夜の不眠はたびたび訪れたが、以前ほどに苛立たなくなっていた。十歳上の兄がその年頃にはとうにそうしていたように、嘉にも、書を読むための教師がついたり、剣の稽古を課されるようになった。 それでもよく抜け出しては小屋へ忍び、月季と戯れた。 雪の積もるようになっても、互いの体温を頼りに、小屋へ通った。潁が黙って、身を覆う布や白湯を差し入れた。 やさしく回る時が止まったのは、月季が数えで十五を迎える、春だった。 十日の間、屋敷のどこにも見当たらなかった月季は、垂らしていた髪を高く結い上げて嘉の前に現れた。大人になったのだという。 嫁ぎ先は、もう決まっていた。根雪が解ける頃にはこの家を出る。 兄妹は並んで、擦り切れた敷物の上に膝を抱えて座った。ほんの数年の間に、月季の体は丸く熟し、嘉の体はまだ痩せてはいたが厚みを増していた。 「本当は私、お兄さまの妻になりたかったのよ」 髪に差した玉飾りを揺らして、月季は兄の肩に凭れた。横顔は、幼い仕草が不釣合いなほど、急に大人びていた。過保護な母と乳母たちに代わる代わる見舞われ、自室にこもっていた十日間に彼女が何を思ったのか、嘉には生涯理解する術がない。 嘉はただ笑みを浮かべて、尖らせた月季の唇を舐めた。 それが、恋しい者への感傷でないことくらい、嘉にはわかっている。月季もまた、わかっているはずだった。 「信（てがみ）を書くわ。お返事は要らない。変わらないお兄さまでいてね。変わらない月季を思い浮かべてね」 時の流れをただ惜しむ、努めて乾いた口調だった。小屋の外で、風が鳴った。 嘉はやはり何も答えず、月季の体を抱きしめた。髷の形が崩れるからと抗ったが、構わなかった。家人に打ち捨てられた空間で、かすかな温もりと、嘉に全身で応える敏感な体、それだけが確かな感覚だった。 その晩、数十年来の大風が吹いた。 局地的ではあったが、土砂を巻き上げる真っ黒な姿は昇竜に似て、耳をつんざく轟音、いずこからともなく現れぴたりと止む唐突さ。漢人の国であれば、吉凶を占い、騒がれるような異常気象である。 彼らが住み着いて以来、ろくに補修もせぬままの屋敷は、屋根や外壁の一部が崩れたが、壊滅的な被害はなかった。 燕家の敷地内で失われたのは、裏庭に人知れずあったはずの粗末な小屋だけであった。もともと作業用の仮小屋に過ぎなかったらしく、人の力でたやすく軋む柱が、風圧に耐えかねて折れたのだろう。 幸い夜中だったこともあり小屋に人影はなく、屋敷に居住する多くの人間はそこに小屋があったことすら、認識していないようだった。 事実、小屋がそこにあったことを証明するものは何もないのだ。付近の、野生の月季花の茂みに大量の木片が突き刺さってばら撒かれていたが、いったいどこから飛んできたのかと首をかしげるほど、小屋の跡地には何の形跡もない。 翌日、嘉は半ば呆れながら、花枝を失い薙ぎ倒されてはいるが、青々と茂る月季花の茂みを見つめた。その向こうに、妹と逢引をした小屋はもうないのだった。 以来、一度も見える機会のないままに、妹の輿入れの日を迎えた。 花嫁の輿が発つ朝、まだ日の昇らぬうちに、嘉は馬を引き出した。潁は既に起きて馬小屋にいたが、肝心の馬がまだ眠っていて、無理に起こさねばならなかった。 「坊ちゃま。黒皇に水をやりませんと」 潁の制止もきかず、黒い背に軽々と飛び乗る。黒皇はもう子馬ではなかったが、嘉も一人で馬に乗れるほどには背が伸びていた。 「そんなものは、お前がついてきて世話をしろ」 言い捨てながら、もう駆け出していた。 本来ならば、潁はこれから馬小屋全体を掃除しなくてはならない。わずかに逡巡した末、潁は黒い馬の後を追った。無茶な主の命を尊重したのだろう。 門を出てしばらくは全力だが、見えなくなると速度を緩めて潁を待つ。肩越しに振り返り、息せき切って駆けてくる姿を確認すると、また少し馬を走らせる。いつものやり方だった。 すっかり空が白んだ頃、嘉はようやく馬を降りた。 とはいっても、馬の歩みを止めず、その背からいきなり飛び降りたのだ。枯草の下からわずかに生え出した青い草の上を、勢いよく転がった。 後方を走っていた潁が、息を切らして飛んでくる。 「坊ちゃま、坊ちゃま！？お怪我は！？」 投げ出された姿勢でうつ伏せたままの、主の顔を覗きこむようにして揺さぶる。必死の指先が、痛いほど腕に食いこんだ。 目を開けると、血相を変えた潁の不安げな眼差しと、間近にぶつかる。嘉の鼻から洩れた笑いが若草を小さく揺らす。 「案ずるな、ばかが。起こせ」 自ら飛んで転がったのだから、少々すりむいたくらいで、怪我などはない。その体を、怖々と潁が仰向けに返し、無事を確認しながら、両腕に抱き起こした。 しかし嘉はだらりと、その腕に身を投げたまま動かず、ぼんやりと彼方を見やる。 変わり始めた季節の境界が、空に黄色い。季節風に巻き上げられた黄砂が帯状にたなびいているのだ。 闇雲に走らせてきただけだから、花嫁行列が見えるわけもない。 「……行かねばな」 唐突につぶやく。 どこへとも、言わない。花嫁を見送りにであるのか、或いはこの頃父にうるさく言われている王家への出仕であるのか、それとももっと漠然としたどこかであるのか、嘉自身、自覚はない。 嘉を腕に抱いたままの潁は、何も答えず、動きもしない。それでも静かな瞳はすべてを理解しているのだと、嘉にはわかっていた。 いつのまにか戻ってきていた黒皇が傍らで、朝露に濡れた草を静かに食んでいた。 |
完 |
幼少時代のお話はこれで終わりでございます。
ショタ……なんでしたが。自分的には。
いかがでございましたでしょうか？
あとは青年時代の話があることはあるのですが、
いったいいつ書くんだろう……？
奥さんの話なのであまり読みたがる人がいないかも（苦笑）
（しづむはね……嘉がいちばん好きなんです、実は。こっそり告白）