| 微 熱 |
小屋の外に出ると、もう日が中空を過ぎていた。さすがに空腹を覚える。 結局喬の追手はなかった。さしもの潁も、薔薇のとげに隔てられた、屋敷の隅のこの小屋までは捜しあてられなかったらしい。 ……何か面白くない。 月季の茂みをかき分けて小屋から遠ざかると、どっと疲労感が押し寄せてきた。急な悪寒とふるえにその場にしゃがみ込もうをしたとき、馴染のある気配がさっと近づいて支えた。 「猫か」 「熱は？……いけない。寒いですか？これを着てください」 例の如く、馬の飼いばをやり終えたあたりで、喬に頼まれて嘉を捜していたのだろう。 水のように気配の優しい「猫」は、周到に嘉の上着を用意していた。夏場にしては厚めの生地で嘉の体をくるみ、さらに肩を抱くようにして自らの体温で温めてやる。 いつものことながら動作に無駄がなく、嘉は潁のすることだけはあまりうるさいと感じることがない。身体に触れられても、それはここちよいくらいだった。 潁にもたれ、目を閉じて歩きながら、気がつけば抱きあげられてしまっている。また、度を越した低温のために意識を失ったらしい。大柄な潁の腕の振動を感じる間もなく、ふわりと寝台に寝かされた。 「まったく、体調の悪いときくらいおとなしくしてくれないもんかねえ。坊っちゃまは、潁さんに頼まないと、ちょっとやそっとじゃ捜せないんだから」 喬の声だ。潁がうすく笑ったようだが、目を開けて確認するのは億劫だった。 目を閉じたままで、筋ばった喬の手に起こされ、白湯の入った碗をくちびるに当てられ、飲まされる。飲み終えれば、手際よく夜具にくるまれて、さらに何かかけ足された。 十分な温かさ。潁はまだそこにいる。嘉の身を案じて、その場を離れかねているのがわかる。 ……眠れそうだ。 嘉は眠りに落ちながら、今日会った妹のことなどすっかり忘れていた。 ◆ 翌日は異常な熱さに目が覚めた。ふたたび体温が上昇してきたのだろう。口の中が熱を持って、焼けつくようだ。浅い息を吐いて、嘉は上半身を起こした。夜は明けていた。まだうす暗い外を、人の立ち働く気配がしている。 しかし待ってみても、喬もあの潁も訪れる気配はない。この時間ならそれぞれの仕事に追われているはずだった。いま時分、潁は馬小屋だろう。 嘉はのろのろと、重い夜具を抜け出した。視界が奇妙に歪曲し、上下左右の感覚もなかったが、夜具の下でじっとしているよりましだった。その場に座り込んで頭を寝台にもたせる。 こんな格好でじっとしていれば、喬が来て叱るだろう。叱ってから、暑いなら、と夜具の数を減らし、冷水で絞った布と消化のよい食事をもってくる。それなりに空腹ではあったが、あまり好ましい選択肢でもなかった。 外に出れば、朝の清烈な空気が熱い頬に心地よいにちがいない。 そう思うと、たまらなく外へ出たくなった。はだしのまま外へ出て、すっかり明るくなるまでどこかで涼んでいよう。誰かが捜しにくるまで姿をくらましていよう。 だが外へ出る欲求はふいに霧散した。 廊下を抜けてやってくる潁が見えたのだ。嘉は床に座ったままじっと待つことにした。 「坊っちゃま、そんなところで……」 潁は床の上に嘉の姿を認めると、あわてて飛んできた。 丁重に抱えていた食事の盆をわきに置き、屈みこんで嘉の身体を軽がると抱き上げる。そうっと寝台に置いて、額に手をやる。 「暑いですか？でもこれだけはかぶっていてください。いま何か冷やすものを持ってきますから」 嘉の発熱を確認すると、潁はいちばん薄い一枚で嘉の身体をくるんだ。足もとにわだかまっていた残りの夜具を小脇に抱えて、部屋を出て行く。 潁はまるで猫のように、足音などまるで立てないのに、寝台に仰むいたままの嘉には、潁が部屋の敷居を跨ぐ瞬間がわかる。 首をねじけると、潁の置いていった食事が見えた。 白い湯気がいやにゆっくりと立ちのぼっている。冷める前に戻ってくるつもりだろう。冷水を汲みに行っただけなのだ。 それなのに、膳はいっこうに冷める気配もない。 不思議なことだった。潁はなかなか帰ってこないのに、湯気はいつまでも炊きたてのように膳を覆っている。 よほど熱いのか、さもなくば何か異変が起きているのではないかと、嘉には思われた。 ふたたび気配が近づいてきた。嘉はほっと、止めていた息をつく。 入口に潁が現れた。水盤をこぼさぬように捧げ持っている。 「お食事はどうなさいますか。少しでも召し上がったほうが」 「食べる」 嘉は身体も起こさずに答える。 潁はそっと近づいて、夜具をめくり、嘉の半身を抱え起こしてから、肩に着物をかける。てきぱきとすきのない動作に、嘉は抗う間もなく温かい碗を握らされている。 「ご自分で召し上がれますね？」 穏やかな笑顔は、しかし否と言う余地を許さない。あまりにも鮮やかすぎる。嘉はそんな潁の手際の良さを冷たいと感じることがある。 無言でうなずき、けだるく匙を口に運ぶほかにない。 「……喬は」 「申し訳ありません。お嬢様が、今朝はお加減がすぐれないようで。そちらに」 「それで猫が？」 嘉は横に控えている潁を横目で見遣り、意地悪く微笑した。 本来ならば「手のかかる坊っちゃま」の朝食の給仕など、潁の仕事ではない。他にいくらでも台所女なり、潁ほど役に立たない年寄りの下男なりがいる。馬小屋の掃除やら力仕事やら、若い潁には他にすべきことが山積みのはずだった。 それを、わざわざこんなことをさせているのは、ひとえに嘉の気まぐれのためなのである。 潁以外では、喬ほどの老練でもないかぎり、起きぬけの嘉の機嫌を損ねずに食事を取らせ、さらに熱があるようならばおとなしく寝かせておくなどという芸当は、とうてい無理なのだ。以前に劉や程といった台所女たちがさんざん手こずったうえ、脱走という事態となり、潁の捜索による決着をみている。 それに思い当たると、急に可笑しくなった。嘉は笑みをもらしかけ、ふと表情を戻して止めていた匙の動きを再開する。先の言葉を思い返したのである。 いま喬が看ているお嬢様とは、つまり月季のことだ。 昨日はじめて口を聞き、交わった、嘉の妹である。 今朝加減が悪いというのは、つまり昨日のことが原因なのだろう。喬やあの厄介な母親にはどの程度知れているのだろうか。いずれ知れることではあるが、考えると食事がまずくなる。 潁の様子からすると、まだ何も知らないのかもしれないが。 「……妹は、どうしたのだ」 「存じません」 なに食わぬ素振りで探りを入れてみても、潁の応対はあまりに素っ気ない。本当に知らないのか、知らぬふりをしているだけなのか、いずれにせよこれ以上は問いただせそうにない。 主の食事中、給仕というものはこんなにも静かに物のように黙っている必要があるのだろうか。 嘉は熱のために味のしない舌をもてあましつつ、緩慢な仕種で碗をかき回した。 潁を見遣れば、床板に膝まづいて、無表情に己の膝頭に睫を伏せている。自然に力の抜けたくちびるの先がわずかにとがって、日焼けのためか白い薄皮がむけかけている。嘉は不思議に目を奪われた。 とうに冷めた粥をすくった匙を、嘉は碗の中に投げた。空腹がいくらかでもおさまってしまえば、たちまち食事には飽きてしまうのだ。 匙の碗にはじける音に潁が顔をあげても、嘉はまだ潁を見ている。 見下ろす目と、見上げる目がぶつかる。 けれどどちらもまるで動じない。見下ろす凝視にもかかわらず、潁は、もう食事はよろしいのですか、とでも問いたげな、穏やかな視線をまっすぐに返してくる。 嘉は口の端を歪めた。できるだけ高圧に、言いつける。 「……猫、水だ」 潁はうなずいて立ち上がる。くるりと振り向けば、先に食事を置いていた盆の上にすでに瓶と湯呑みが用意してあるのである。いっぱいに注いで嘉に差し出し、潁は莞爾と微笑した。 「たくさんお飲みください。また汲んで参ります」 あらかじめ喬に言い含められていたのだろう。嘉が発熱すると、喬は決まって、いやになるほど湯冷ましを飲ませる。 笑顔も、喬の入れ知恵だろうか。いちいち、逆らいがたい、穏やかすぎる潁の微笑。 嘉は湯呑みを受け取ると、一息に飲み干した。潁はまだ微笑を浮かべている。 その鼻先に湯呑みを突き出して、もう一杯を注がせ、なみなみとゆらぐ重みをそのまま、端然とした微笑にひっかけてやった。 反射的に目を瞬いた潁の白い面から笑みが消える。 こんなひどいわがままは、潁以外にしたことがない。そして嘉のわがままに対する態度がこんなにも冷たいのも、屋敷中で潁だけであった。 潁は微笑の代わりの何の表情も造らず、ただ黙って嘉の手から湯呑みを丁寧に取り上げる。寝台の傍らに立った潁の目は嘉よりもずっと高い位置にあるが、きつく睨み上げる嘉の視線を見下ろそうともしない。 嘉はそんな潁の無表情を純粋に怖いと思った。幼い子どもの気持ちで、恐ろしかった。 嘉はおずおずと、両手を延べた。潁の無表情を、はさんで無理に引き寄せる。引き寄せながら、嘉はくちびるをきつく噛んでいる。 熱のせいで潤んだ視界が大きく揺らぐと、何か固まりを飲んだようにのどが痛んだ。 潁が初めて、驚いたように表情をゆるめる。 刹那ほどけたそのくちびるに、くちづけた。 潁の、まつげの先から、鼻の頭から、冷たい水がしたたって嘉の頬を濡らしている。 何かに祈るような思いだった。潁のくちびるのむけかけた薄皮を、嘉は歯でくわえてそっと噛み千切った。 ただでさえ感覚の鈍い身体は、いつのまにか己の意志を振り切ってかたかたふるえていた。ふるえのうちにまぶたが重くなる。 もう、どうでもいい。 一瞬だけ、身体をやさしく抱きしめられたと思ったが、それも硬い寝台の感触だったのかもしれない。 冷水で絞った布の不愉快な冷たさを額に当てられて、はっと気がつけば寝台に横たわっている。 「……猫？」 「お熱が高うございます。お休みになってください」 潁は先とは違う、悲しげとも見えるやわらかい笑みを浮かべている。間近にうつむいた潁の表情は、逆光のために定かではなかったが、声の調子で嘉はそれと知った。 茫と、陰になった潁の目鼻立ちを眺めながら、嘉は薄らごうとする意識の片隅で問いかけた。 さきの出来事は、いったい何であったのだろう？己の言動ながら、不可思議な何ものかによって引き起こされたように感じられる。 だが違和感は、やがて沈み込む意識の淵に融解していた。 なぜ不可思議に思ったのだろう。嘉自身にとっては、なんらの不可思議もないはずなのに。 |
続 |
潁、登場。でございます。
描写は大人しいんですが、月季とのやり取りより、
はるかに胸ドキドキ躍らせて書いていますねぇ、このヒト。
だって〜、兄妹より主従でしょ！やっぱ。
（いいかげん脳味噌クサれてます）
自分的にはとってもＪＵＮＥ♪だと思うのですが
……世間一般的にはどうなんでしょうね？（笑）