牙の生えた異形の面、闇の衣を身にまとい、草木も眠る丑三つ時、鬼の棲みかと人の恐れる逢魔ヶ森を迷いもなく疾走する三つの影。あろうことか、その影の一つは自分なのだ。

　剛人は、己の存在を枝葉の蠢く闇の中に危ぶみ、小さく舌を打った。

　遮那王様のなさることは、まるでわからぬ。

　自分の役目は、ただ遮那王様の身をお守りすること。源氏の残党のよすがとなる、義朝公の血を引く若君を無事に源氏の旗印の下まで導くこと。そう割り切っていたが、源の血の象徴であるはずの遮那王は、守られる若君としては腕が立ち過ぎ、床几にただ座するには気性が激しすぎる。そのうえ、何を考えているやら皆目見当がつかぬ。

　とうに成人してよい齢であるものを、いまだ稚児名を名乗り、京の森に幽鬼のごとく潜んでいる。挙句、正式の挙兵ではなく、平家の者を一人ずつ闇に屠るという不可思議なことを始めた。少進坊が苛立つのも無理はない。躍起になって、奥州発ちの手はずを整えている。

　剛人は、ただその腕を雇われたに過ぎぬから、主に何を問うつもりもない。遮那王の傍らにあって刀を振るい、従うだけが務めである。

　ただ時折もたげる違和感が、彼を逢魔ヶ森に迷わせた。

　その迷いを暴くように、突如、光が降り注いだ。

　樹木の絡まりあう深い森の中に、円く鏡のように沼が開けていた。注ぎ込む流れもなく、流れ出す川もなく、地表から染み出した地下水と天からの雨との気まぐれな淀み。根を水に浸食された木々が朽ちて、そこだけ月の光が差している。

　遮那王がつと、その光の中に足を止めた。残る二つの影、芥子丸と剛人もそれに従う。

「剛人・・・先に戻っていよ」

　鬼の面を外した素顔に、蒼白い月光を浴びて、遮那王が命じる。故を問うことを許さぬ無表情からは、返り血の匂いがしている。

　剛人は探るように主の目を覗きこみ、頷いた。従うほかはない。踵を返し、その場を離れる。

　当然のようにそこに残る芥子丸の姿が視界の端をよぎった。

◆

　いったん場を離れた剛人は、沼をぐるりと回ったところで立ち止まった。命令だからとて、用心棒が守るべき主の傍を容易く離れるわけにはゆかぬ。主の怒りを買わぬよう、木陰に気配を殺し水に隔てられた向こうの様子を窺う。静まり返った水面が月光を反射し、思いのほか視界は利いた。

　この逢魔ヶ森に、よもや遮那王を害する者が潜んでいるはずもないが。

　平家の輩が、あやかしの森のこれほど奥まで追ってくるとは到底思われぬし、この森のもののけとて、遮那王の存在がその根源なのだ。もともと霊気のたまりやすい地ではあったが、形をなすほどではなかった。霊力の高い遮那王が留まることによって、あらゆる妄執が引き寄せられたのだろうと少進坊が苦笑していた。

　我々は、何というお人をお守りしているのか。

　剛人の口元にも皮肉な笑いが込み上げる。

　が、すぐに緊迫感に全身が逆立った。

　刀を斬り結ぶ、澄んだ硬い音が鼓膜に突き刺さる。白刃の反射する月光が鬼火のように閃き、かすかな波紋に揺れる水面に散る。剛人は猛禽類のように夜目を凝らした。

　遮那王と刀を交えているのは、否、遮那王が追い詰めている獲物は、芥子丸であった。

　疾風のごとく迫り来る遮那王の切っ先を、身をかわし、飛びすさり、己が刀を抜いて受け流す。芥子丸が遮那王に刃を向けるはずもあるまいが、さにあらずとも応戦の余裕がないのは対岸まで響く乱れた呼吸に如実である。

　二人が剣を交わすのを、剛人は毎日のように見ているが、それはまるで演舞のような静けさで、かくも殺気立ったものではない。鬼の面を外したはずの遮那王の鬼気迫る眼光に、剛人は肝を冷やした。

　よもや、芥子丸を殺すつもりでは。

　思う間もなく、遮那王は獲物を巨木の根方に追い詰めた。背後を幹に阻まれ、身動きのできなくなった芥子丸に、二本の剣を高々と掲げ、振り下ろす。

　さしもの剛人が息を飲んだ。

　白刃がやわらかいものを貫き、血潮が噴き出す。

　遮那王の刀は、巨木の幹に突き立っていた。闇に濡れ光るのは血潮ではなく、滴る樹液である。二本の白刃にさし挟まれ、芥子丸の白い喉が大きく波打つ。その血肉は欠片も損なわれていない。

　無茶をする。

　剛人は肩を落とした。

　芥子丸も、己が殺されるのか生かされるのか、わかっていなかったのだろう。激しく喘いだまま、動けずにいる。あるいは遮那王自身も、切っ先の行方を決めずにいたやもしれぬ。夜目にも白い指先が、ようやく柄から離れる。

　刀身に固定されて動けずにいる芥子丸の上に、ゆらりと遮那王の長身が重なった。

　口を吸っている。

　剛人からでは遮那王の背しか見えぬが、抗う芥子丸の吐息に、濡れたものの絡むかすかな水音が混じる。

　芥子丸の手から刀が落ちた。遮那王の手が、乱れた衣の内へ差し込まれていた。

　俺を払ったわけだ。

　剛人が苦く笑う。

　遮那王が芥子丸を慰みものにしていることを、知らぬわけではなかった。少女と見まがうほどの美童である。その道を知らぬ剛人にも、容易に想像はついた。

　しかし今しがた殺めた平家の返り血を浴びたその手で、妄執渦巻くこの森で、そのような気になろうとは。

　呆れるほか、なかった。

　いっそ本当に立ち去ろうかという思いが掠めたが、少進坊の念に守られた洞窟であればいざ知らず、闇深き森にああも無防備な二人を残していくのは躊躇われた。

　人ではない、虫や獣やあやかしが息を殺して、この森の主である遮那王の狂乱を窺っている。黒々とした森に潜むすべての気配が、沼の反射鏡に照らされた、睦みあう二つの影に注がれているのだ。

　そして剛人もまた、その気配のひとつに過ぎぬ。

　唇の離れる刹那の甘美な音色がしじまに波紋を投げる。芥子丸の漏らすかすかな吐息が、周囲の不穏な静寂を煽り立てる。本人は、露とも自覚しておらぬのであろうが。

　剛人は目をそむける機を逸したことを悟った。

　遮那王の頭が下がり、芥子丸の鎖骨付近に移動する。眉を寄せて耐える芥子丸の表情と、ほんのり上気した肌が外気に露になる。いつのまにか、身を覆うべき衣はあられもなく引き剥がされている。

　月光を反射して輝いてさえ見える、羽化したばかりの蜻蛉にも似た裸体は、一種の魔物である。

　女と見まがう美しさだが、どうあっても女ではない。女を抱いたことのある者には、その違いがはっきりとわかる。

　木目の細かい、いまだ幼い匂いのする皮膚の下には、しなやかな筋が硬く張り詰め、冷ややかな女の凝脂とは異なり、触れれば指が燃えるほどの熱を秘めている。柔軟に受け入れる女の海ではなく、妖しく輝く刀身に誘い込み血を吸う刃。ひとたび触れたが最後、二度と戻れぬ。

　或いは、遮那王は既に芥子丸に陥落しているのだろう。幼少より寺稚児として育ち、その血の貴きゆえに女との交わりを禁じられた遮那王には無理からぬことであろう。

「遮那、王、様！」

　恐れおののく芥子丸の叫びが、明確に響いた。

　華奢な指先が主の髪を掴み、引き離そうともがいている。まるで応じぬ主の頭は、芥子丸の股間にあった。

　両膝をつき、逃げ惑う細腰を両腕で押さえ込み、口に含んだ芥子丸を嬲っている。剛人からは、黒髪を乱し刃の間に身を竦ませる、芥子丸の狼狽だけが見て取れる。

　必死に声を殺す芥子丸の速い吐息に、抑えきれぬ喘ぎが混じる。断末魔の生贄の顔と、昇り詰めていく雄の顔が立ち混じり、白い喉が震え悶える。主の口を犯す禁忌と、主の前に痴態を晒す羞恥とに、丸い頬を涙が伝い、光を描く。

　芥子丸の若さゆえか、遮那王の巧みな技ゆえか、瞬く間に芥子丸は果てた。対岸までも届く吐息にそれと知れたが、遮那王は許さず嬲り続けた。

　そしてその場に崩れようとする体を支え、巨木に突き立てられた二刀の間に器用に身を裏返す。幹に抱きつく形になった芥子丸の腰を突き出させ、遮那王はその双丘の間に顔を埋めた。

　恐らくは芥子丸の放ったものを、その舌で、中へ塗りこめているのだ。

　衆道の営みを知らぬ剛人は顔をしかめたが、今果てたばかりの芥子丸は、過敏に反応していた。すがらせた白い指先が黒い幹に食い込み、意に反して動き出す腰を懸命に抑えようとしている。遮那王の頭がより深く差し込まれる。

　それだけで潤うはずもないが、枕童として仕込まれた者の中には女のようにそこが粘る者もあるという。芥子丸はもうどれほど遮那王に仕えているのか、舌と舌を絡めるような湿った音が、すすり泣きのように流れ始めていた。

　こらえかねた芥子丸が、主を振り返った。

　白刃の間に窮屈に首をよじり、夜露を含んだ瞳が斜めにめぐる。涙の跡の白く残る頬には樹液と乱れた黒髪とが貼り付き、わななく朱い唇が哀願の言葉をかたどる。

　艶かしく、だが女のそれと明らかに異なるのは、十六夜の月にも似た鋭く冴えた瞳。首筋の脈に白刃を当てられるような、壮絶な表情だった。

　剛人がそれを垣間見たのは光陰の刹那で、すぐに遮那王の背がそれに被さった。着衣のままの遮那王が、背後から芥子丸を抱きすくめる。

「芥子・・・っ」

　遮那王が、小さく芥子丸を呼んだ。押し殺した声に抑えきれぬ激情が潜む。

　性急な侵入に、芥子丸が悲鳴を上げる。余人を離れ、他に憚る者がないと思ってか、苦痛も快楽も隠し立てのない声が響く。

　剛人にはもう、直視する気力はなかった。交じり合う気に揺れ崩れる水面に、映る影にようやく目を落としている。

　筋と骨のぶつかる乾いた音が、湿った音に入り混じって響く。

　それは、責め苦であったのか禁断の愉悦であったのか、剛人にはいたたまれぬほど長い時間であった。

　ふと我に返れば、あたりは不気味に静まり返り、沼は鏡の面と静まり返り、蒼月の影を映している。剛人ははっとして、周囲を見渡した。

　つい先程までこの森の中心であったはずの、巨木の根方にも人影は見えない。いかなる妖術によるものか、木々に宿る精霊に至るまで、あらゆる気配が消えていた。

　かくも長い時間放心していたのだろうか？いぶかしみ、確かめるべく剛人は沼を回った。

　見覚えある巨木の根方には、ひっそりと結界ができていた。

　裸体を晒したままの芥子丸と、その膝に眠る遮那王。

　芥子丸は上体を斜めに傾け、無表情に目を閉じた主に穏やかな微笑を落としていた。子を守る母にも似た、しかしそれとは明らかに異質の、自我の混じらぬ透明な、誇りに満ちた表情。あまりにも静かで清しく、普段の笑わぬ芥子丸を見慣れていなければ、笑みとさえ気づかぬやもしれぬ。

　長い睫毛がもたげて、剛人をその深い瞳に捕らえた。

　遮那王様は芥子丸がお守りする。行け。

　そう、物言わぬ瞳が語った。

　先程から彼らの痴態を覗き見ていた剛人は、今度こそ赤面し、身を翻した。肉体の交わりよりもはるかに見てはならぬものを、目の当たりにしてしまったのだ。

　遮那王の乱心に身をもって応え、いったいいつのまに覚えたものか霊気を高めて主の眠りを外界の妄執から妨げる。それほどに、この短い期間に、芥子丸は遮那王に傾倒していたのだ。

　剛人の背を、何かがぞくりと走った。

◆

　半刻後には、主従は洞窟に戻っていた。

　主を安全な結界の中まで送り届けた後、芥子丸だけがまた外へ出てきた。遮那王の情を受けた、その身の始末をするためである。夜半に一人、水場へ出て行く芥子丸には見慣れていたが、その前の生々しい行動を目の当たりにしたのは今宵が初めてであった。

　戻るところを、剛人は待ち伏せた。

　身を清めてきたであろう芥子丸は、たたずむ剛人にちらりと目をやり、そのまま通り過ぎようとした。その頼りなげな肩を、掴んで引き止める。意外そうに、芥子丸が振り返った。

「芥子丸」

　名を呼んでみたものの、後が続かない。元来、弁舌滑らかなほうではない。

「その・・・遮那王様も無体をなさる」

　呼び止めるほどのことはなかったのかもしれない。だが、覗き見てしまったことへの罪悪感と、あのようなものを見せられたことへの苛立ちが、剛人に言葉を継がせた。

　無意識に含まれた揶揄を感じてか、芥子丸が体ごと向き直った。

「剛人殿の剣は、遮那王様に捧げたものですか？それとも源氏の血に？」

　咎めるような、きつい眼差しを向けられ、剛人がたじろぐ。芥子丸は、剛人の主に向ける冷ややかな目を、責めているのだ。

「剛人殿には、遮那王様の御心の闇が見えませぬか。漆黒の闇の底に、あの方は縛られておられる。血の縁などに、囚われるべきお人ではないのに。平家を殺し、源氏の塚に捧げた剣が、そのままあの方の胸に突き立てられている。

　我には姿形の美醜はわからぬが、人の性は気に顕われる。遮那王様ほど、気高く激しい、孤高の気の持ち主を我は見たことがない。あの方は、血族の濁った束縛からこそ、お守りしなければならぬ。

　あの美しい方を血の縁からお守りすること、それこそ我が役目と、心得ております」

　芥子丸は一息に語り、剛人を睨み上げて押し黙った。この比類なき美童の朱唇がこうも饒舌に滑るのを、剛人はほとんど初めて見た。

　剣の腕だけで遮那王に仕えてきた、剛人には思いも寄らぬ言葉であった。

「その・・・芥子丸殿の体は辛くないのか」

　剛人の発した言葉は、およそ芥子丸の言に噛みあわぬものであっただろう。

　芥子丸が困惑したように、かすかに表情を緩める。

「・・・おやさしいことを、言う。

　だがあの方の御心がすさむほど、我が胸も傷む。この身では、あの方の御心をお慰めすることもできぬが・・・わずかでも気が紛れる分だけ、この胸も和らぐのです」

　芥子丸の瞳がわずかに細められた。注意深く、そうと思わねばわからぬほどだが、微笑していた。眠る遮那王に注いでいたと同じ、月光に透けるような表情に、剛人は胸をつかれた。

　或いは、この方であれば。

　己が命に代えても、平家からも源氏からも、遮那王様からさえも、お守りしたい。

　あらぬ想いが、剛人の胸にこみ上げていた。