同じ建物、同じ道、同じ木に同じ花。繰り返される景色に、ローデリヒは立ち止まって首をかしげる。

　本屋を出てからもう一時間。そろそろ、いつもの商店街に着いてもいいはずだが、あたりはだんだんと建物が減り、雑木ばかりが増えている。

「おかしいですね」

　小声の呟きがかすかに白い。もう春だというのに、風が随分と冷たい。

　指先もかじかんで、感覚が鈍くなっている。これではピアノも弾くにもぎこちないだろう。

　吐息で指先を温め、ポケットから皮の手袋を取り出して装着する。

　空はもう、夕景の茜色に染まっている。

　そろそろ帰って、夕食の支度をしなければならない。

　同居人のルートヴィヒは、今日は帰りが遅くなると言っていた。彼が帰宅する夜には、今よりもさらに冷え込んでいるだろう。

　彼より先に帰って、温かい食事を用意しよう。ゆでた芋と温野菜、具沢山のコンソメスープに、ビールだけはよく冷やして。

　帰る前に、食材の調達が必要だ。温野菜には新鮮なパテを添えたいし、コンソメスープに入れるパスタと、体と温める香辛料も不足していた。

　いつもの商店街はどこだろう。

　ローデリヒが帰るべき家は、今はどの方角だったか。

　深い森を抜けた山頂の城でもなく、森に囲まれた美しい都でもなく、生真面目な同居人が帰る家。

◆

　つむじ風かとローデリヒが振り向けば、見慣れたニヨニヨ笑いにぶつかった。

「よお、坊ちゃん。まーた道に迷ったのかよ」

　あごを引いて、斜め下からからかうように見上げてくる赤い瞳。

「……ギルベルト！　あなたはまた御馬鹿なことを」

　怒ったところで、ギルベルトはまったく動じない。ソワソワと落ち着きなく体を揺らし、したり顔でこちらの反応を楽しむ様子は、まるでスカートめくりをした子供だ。

　むしろ、あまり反応を見せないほうが、得策だろう。

　ローデリヒはぷいと顔を背ける。

「まったく方向音痴の坊ちゃんはしょーがねえよなあ。毎日毎日、こんなド近所でよく迷えるぜ」

　今度はギルベルトが、真横から顔を近づけて絡んでくる。

「うるさいですよ。私は散歩をしていただけです」

　多少の語弊はあるが、事実である。買い物がてら散歩に出て、本屋を出た後、気の向くままに歩いていたら、こんな時間になっていただけだ。

「へーえ、この寒空の下、凍えるまで優雅にお散歩か。寒さで頬が真っ赤だぜ」

　ギルベルトは片方の口の端を吊り上げて

皮手袋でローデリヒの頬をつまんだ。

　ローデリヒの頬はやわらかく、よく伸びる。ギルベルトは思い切りよく引っ張り、ケセセとせせら笑った。

「お、おやめなさい！」

　振り払うと、冷えた頬が痛む。乱暴に引っ張られたところに血が上り、ジンジンと疼く。

　この乱暴者には、何度こうして頬を引っ張られたことか。反応を示すとかえって面白がるので、なるべく相手にしないようにしているが、どうも触感そのものが気に入りらしく、放っておくと限度を知らない。

「あなたはこんなところで何をしているんですか。まさか私をつけて来たんですか」

　痛む頬をさすりながら、ローデリヒはため息をつく。

「んっなわけあるか、バーカ！　自意識過剰じゃねえの。ただの散歩だ散歩」

　ギルベルトは肩をそびやかし、ローデリヒと同じ言い訳をした。

「そうですか、この寒空の下、散歩ですか。あなたの小鳥はふるえていますよ」

　冷静に指摘してやる。

　いつもギルベルトの頭上に乗っている黄色い小鳥は、ギルベルトの銀髪にうずまって、丸くふくらんでフルフル震えていた。小さな体に夕暮れの風は冷たいのだろう。

　ギルベルトは慌てて、頭の上の小鳥を両手で包んだ。

「ああっ、小鳥ちゃん！　オラ、冷えてきたからさっさと帰るぜ！」

　後半を、何故かローデリヒに向かって言う。

「あなたに言われなくても帰りますよ」

　ローデリヒはツンと突き放して踵を返す。もともと、帰ろうと思っていたところだ。迎えに来たわけでもないギルベルトに言われる筋合いはない。

　が、その襟首を掴まれて引き戻された。

「オイ、坊ちゃん。家はそっちじゃねえ、こっちだ」

　まったく、どこまでうるさい男なのか。

「ギルベルト。夕食の買出しがまだなんです。私は肉屋と粉屋と香辛料の店に行きますので」

　襟首から手をはなしたものの、今度はギルベルトはローデリヒの前に回りこんで道をふさいだ。

「だから肉屋にしてもそっちじゃないっつの。っつか、全部スーパーで済ませろよ。これから一軒ずつ回るとか、ありえねえだろ」

　ギルベルトは、買い出し計画にまで文句をつけるつもりらしい。

　しかもまるでわかっていない。ローデリヒは小さくため息をついた。

「ギルベルト。ダシをとるための骨付き肉はスーパーじゃ買えませんし、味と値段がまったく違います。今日はルートヴィヒは遅くなると言っていましたから、時間はまだあります」

　ギルベルトの横をすり抜けて、スタスタ歩き出す。

「だあっ！　だからそっちじゃねえっての！」

　ギルベルトが怒鳴り、ローデリヒの手首を掴んで振り向かせる。

「おはなしなさい、ギルベルト！」

　ローデリヒが一喝すると、何故かギルベルトはニヤッと笑った。

「やーなこった」

　片方だけ吊り上げた口の端から舌を出して、ローデリヒの手袋と袖の間をベロリと。

「なっ、何するんですか、この御馬鹿さんが！」

　肌を這う濡れた舌の感触にゾワッと鳥肌　が立ち、ローデリヒは全力で振り払った。

「舐めてやったぜ！　坊ちゃんのガードの固いとこをよお」

　得意げに、ギルベルトは高笑いした。

「はああああ？」

　何故そんな行動をとるのか、何故それで勝ち誇るのか、まるで理解できない。理解できないながら、腹が立つ。

　どうしてこの男はいつも、ローデリヒに無用に絡むのか。振り払っても、執拗に追い回すのか。

　ギルベルトは、立ち止まったローデリヒの手首を掴んだ。

「オラ、坊ちゃん捕まえたぜ！　もう逃がさねえかんな」

　腕を引っ張って、スタスタ歩き出す。

「ギルベルト、まず肉屋に……」

「ったく、ウルセーな方向音痴の坊ちゃんは。街に戻らなきゃ肉屋も粉屋もねえだろ」

　ローデリヒの言葉に聞く耳を持たず、ギルベルトはどんどん歩いて行く。肉屋へ連れて行ってくれるつもりなのだろうか。

　もしそうだとしても、腕を力任せに引っ張られるこの状態は快適ではない。

「あの、ギルベルト、手をはなしてください」

　言ってみたところで、ギルベルトは振り向きもしない。

「ケセセッ、坊ちゃん市中引き回しの刑にしてやる」

　ギルベルトは大股で得意げに歩いている。

「人が見たら、おかしいでしょう」

　小声で指摘してみる。

　傍から見れば、男が二人で手を取り合って歩いているに過ぎない。しかも一人が強引に腕を掴み、もう一人を上機嫌で連れ回しているのだ。

　人が見たら、どういう関係だと思うことか。

「坊ちゃんは俺の虜だぜ。街中見せびらかしてやる」

　ともすれば誤解されるようなことを、ギルベルトが声高に言う。

「……ちょっと！　あなた、さっきから意味わかって言ってますか？」

　反対にローデリヒは声をひそめる。

　とにかく、この状況はいたたまれない。

「何だよ、赤くなってやがんのか。いいぞ、恥辱に打ち震えろ！」

　だがチラリとローデリヒを振り返ったギルベルトは、プッと吹き出し、ますます上機嫌に歩調を速めた。

　痛いくらいに握ったローデリヒの手首は、はなさないまま。

「……わかっていませんね。この御馬鹿さんが」

　この男は、昔からそうだった。ローデリヒに無用に絡み、振り払っても追い回し、互いに文句を言い合いながら、ローデリヒをはなしてはくれない。

　恐らく、ギルベルトにその自覚はなく。

　あきらめて、ローデリヒは小さく肩をすくめる。

　見上げた紫の空には、一番星が輝き始めていた。