あのひとの手は、武器を持たない。扱い慣れていないから。荘厳な白い軍服に、飾り彫りのレイピアを帯びても、抜いて敵と対峙すれば、てんで弱い。

　そのかわりに、ピアノを弾く。ヴァイオリンを奏でる。指揮棒で空を切る。

　それから、コーヒーをいれる。クリームを泡立てる。トルテを焼く。

　静かな夜には、本のページをめくり、五線譜に音譜を書き付け、服のほころびを繕う。

　あのひとは、てんで弱い。

◆

　玄関で出迎えてくれた表情は、いつもと変わらない穏やかな微笑。けれど額の上にひとすじ伸びた髪の先が、いつもよりはずんだ形を作っている。

　一見わかりにくいようでいて、すごくわかりやすい、このひとの気持ち。私はずっと、知っている。このひとに何かをしてあげられるときも、何もしてあげられないときも、このひとの気持ちを私はずっと知っている。

　このひとが私にやさしくしてくれた回数は、私が何かをしてあげた回数よりも、きっと多い。自覚があったかどうかはわからないけれど、私はたくさん、このひとのやさしさをもらった。

　たぶん、他の誰よりも、私がいちばん、このひとのやさしさを知っていると思う。

　使用人として、このひとのお世話をしていた時期もあった。指輪を交わして、いっしょに暮らした時期もあった。やさしくて、きらきらして、幸せだった時期。

　上司が替わって、別々に暮らしている今も、気持ちは何も変わらない。

「ローデリヒさん、お誕生日おめでとうございます！　ケーキを焼いてきました」

　笑って、プレゼントを差し出す。

　このひとへのプレゼントは、高価なものより、手作りのものがいい。珍しいものより、このひとが普段から好きなものがいい。

「ありがとうございます、エリザヴェータ。うれしいです、とても」

　ケーキボックスを受け取る前に、あのひとの手が、私の髪に触れる。ふわりと前髪を分けて、額に触れるやさしいキス。

　何でもない、ただの挨拶。感謝の儀礼。このひとの無意識の仕草。

　わかっていて、私の体はキュンとふるえる。

　戦場で敵と剣を交えるより、何故だか怖いと思う。馬で思い切り駆けるより、不思議に胸がドキドキする。

　額に触れた指先から、このひとのやさしさが私に流れ込んでくる。武器を握るよりも、音楽を愛し、本のページをめくり、甘いものを選ぶ、長く美しいこのひとの指。

「さあ中へどうぞ。みんな来ていますよ」

　気がつくと、あのひとはケーキボックスを受け取って、優雅な仕草で私に手を差し伸べている。

　部屋の中には、たぶんこのひとが自分で用意しただろう料理と飲み物、お菓子にお花に調度品。それから、このひとの誕生日を祝うために訪れた、楽しそうな先客たち。

　このひとのエスコートで、私はその輪の中に入っていく。

◆

　剣を抜いて対峙すれば、このひとは、てんで弱い。

　だから、そのかわりに、私が守ってあげたいと思う。このひとも私も、剣を握ることはもうないかもしれないけれど、私が守るって決めたから。