大きな枕に背を凭れ、寝間着の膝に本を置いている。

「すまん。もう寝るところだったか」

　ルートヴィヒは素直に詫びる。時刻はまだ二十二時を過ぎたばかり。部屋を尋ねるには遅いが、まさか就寝の邪魔をすることになるとは思っていなかった。

「構いませんよ。本を読んでいただけですから」

　ローデリヒが顔を上げる。

　いつもは前髪を上げて額を出しているが、今は洗い髪がしっとりと眼鏡の縁まで下りている。髪型のせいか、ルートヴィヒよりずっと年上のはずのローデリヒが、妙に幼く見える。

「おい、髪が濡れたままだと風邪を引くぞ」

　思わず、ルートヴィヒはとがめる。

　ベッドに横たわるローデリヒの姿が、昔の記憶に重なったのだ。足の自由を失い、昼には車椅子を使っていた。頻繁に体調を崩して発熱し、ベッドから起き出せないこともあった。

　あの頃の衰弱した姿が思い出されて、ルートヴィヒはわけもなく不安になる。

「わかっていますよ、ルートヴィヒ。だからこうして、本を読みながら、髪が乾くのを待っているんです」

　ローデリヒの答えは、拍子抜けするほど穏やかだ。

　秋になり、涼しく長くなった夜を、ローデリヒは本を読みながら優雅に過ごすのだろう。肩には暖かなガウンを羽織っているし、ベッドサイドにはコーヒーカップが湯気を立てている。

「それよりルートヴィヒ。用があったのではありませんか？」

　ローデリヒに問われて、ルートヴィヒは用事を思い出す。

「ああ。借りていた本を返しに来た」

　ローデリヒは何よりも音楽を愛しているが、同時にかなりの読書家でもある。ジャンルを問わず毎月多くの本を買い、読みたい本がルートヴィヒと重なることも多い。互いに本を貸し借りするのは、同居以来の習慣になっていた。

「そうですか。どうでした？　面白かったですか？」

　受け取った本をパラパラめくって、ローデリヒが感想を尋ねる。本の貸し借りには、互いの感想を語り合う楽しさもある。

「あ、ああ、まあ。その、実体験が乏しいせいか、理解が難しい部分もあったが」

　だがルートヴィヒは、今回は具体的な感想を濁した。

　堅い文章でノン・フィクション小説を書く作家だが、今回は恋愛要素が強く、かなり官能的な描写もあった。いつものように食堂で本を返さなかったのは、雰囲気が合わないように思われたからだ。

　だから、ありのままの感想を言うつもりもなかったのだが。

「ああ。あなたが読むには、珍しいジャンルでしたね」

　ローデリヒにクスリと笑われて、つい反論する。

「いや、読まないというわけでもないんだが、官能的な描写が過剰で、キスだけでオルガスムスに達するなど、夢見がちな少女小説のように感じられてだな」

　弁解しながら、自分の言葉に赤面する。

　やはり、言わなければよかった。

　ローデリヒはそんなルートヴィヒの顔をじっと見て、それから思いもかけないことを口にした。

「試してみますか？」

　言葉の意味をはかりかね、ルートヴィヒは思考を停止する。

「試してみますか、ルートヴィヒ？」

　ローデリヒは表情を変えずに繰り返し、手を伸ばしてルートヴィヒの頬に触れた。

「なに、を」

　戸惑うルートヴィヒの頬を、ローデリヒの手が包んで引き寄せる。

　ローデリヒの指先は秋の夜長にひんやり冷えていたが、手のひらは温かい。華奢に見える手首は、抗いがたい力を秘めている。中指の先が、耳孔に差し込まれ、かぎのようにルートヴィヒを捕らえた。

　引き込まれるまま、ルートヴィヒは背を屈め、唇を重ねた。

　驚いたのは、その甘さだ。

　ただ皮膚の一部が触れだけで、痺れるような甘さが全身に伝わる。やわらかく、やさしく、すがりつく甘さ。合わせる唇は頼りないのに、内に秘めた舌の熱さはルートヴィヒを溶かしてしまいそうだ。

　ローデリヒの指でふさがれた鼓膜に、やけに速い自分の鼓動が響く。

　ルートヴィヒは夢中で、ローデリヒをむさぼった。石鹸の香りに混じるコーヒーの湯気と、なめらかな舌触りに潜むクリームの甘さ。ローデリヒの唇は少女小説よりも甘く、官能小説よりもはるかに扇情的だった。

「ン」

　小さく、ローデリヒがのどを鳴らして、唇を離す。

「そこには、触れないでください」

　早口にとがめる。

　そこ、とはどこだ。どこに触れたと言うのだ。

　予想外のお預けを食って、ルートヴィヒはぼんやり考える。

　レンズ越しに潤んだ紫の瞳。濡れて光る唇。口元に、影を集めるほくろ。ルートヴィヒの指先がほくろに触れると、ローデリヒはピクンと反応した。

「おやめなさいと言っているでしょう」

　拒絶の言葉を発しながら、ローデリヒは払いのけるわけでもない。伏せた瞳の奥には別の色が見える。

　何故、触れてはいけない。ほくろなど、顔の目立つところにある、何でもない皮膚の一部だ。何故、そんなところに反応するのか。

　触れたら、どうなると言うだろうか？

　試みに爪を立てると、ローデリヒは小さく息を呑んだ。

　言葉とは裏腹に、頬に差した薔薇色が示すのは、隠しきれない快楽と欲情。そうと気付いた途端、ルートヴィヒの中で何かの糸が切れた。

「ルート……ッ！」

　形だけの抵抗を見せるローデリヒを押さえ込み、眼鏡をむしりとる。ほくろに歯を立てると、ローデリヒは切なげに喘いだ。

　最初から誘っていたのだ、としか考えようがない。

　だいたい、キスだけでオルガスムスに達するわけがない。キスをすれば、その続きが欲しくなるだけだ。そこまでわかっていて、ローデリヒはキスを誘ったのだ。

　思い返せば、ベッドで本の感想を聞いたことも、ルートヴィヒにこの本を貸したことさえも、ローデリヒのすべての行動が、ルートヴィヒを誘い込む罠だった。

　そうとしか、考えられない。

　古風なかぶりの寝間着をめくり上げると、クリームのようになめらかな肌に色づく野苺が二つ飾られている。まるでローデリヒが作る菓子のようだ。

　舌を這わせると、甘い声を上げてビクンと跳ねる。ローデリヒの長い指が、ルートヴィヒの髪をもどかしく乱す。

　やり方は、前に本で読んだ。

　フランシスが勝手に置いていったのだという本を、ローデリヒに渡された。あのときはつかんだ腕を振りほどかれたが、今は違う。ローデリヒから誘ったのだ。

　潤滑剤には、枕元のコーヒーに添えてあるクリームを使った。たっぷりと指につけて内部を探る。

　慣れるまではたやすく入らないと本の記述にはあったが、ローデリヒはルートヴィヒの太い指を従順に受け入れた。

　中指を第二関節で折り曲げると、息を呑んで身悶える。

　既に、慣らされているのだ。いつ、誰に、どんなふうに？

　そう考えると、ルートヴィヒは無性に駆り立てられた。嫉妬がチリチリと胸を焦がす。凶暴な衝動が下半身に突き上げる。

　本能の赴くまま、ルートヴィヒはローデリヒを犯した。

　脚を開き、正面から押し入る。ローデリヒは苦しげな吐息を漏らしながら、それでもルートヴィヒをゆっくりと呑み込む。内部が収縮し、絞るように絡みついた。

「あ、もっと、ゆっくり……！」

　ローデリヒが甘い声を上げてすがりつけば、ルートヴィヒは嫉妬に駆られて手荒くなった。逆に涙を浮かべてかぶりを振れば、嗜虐心を余計に煽られる。

　どちらにしても、歯止めが利かない。わかっていて、加減することができない。

　何度も何度も、若さにまかせてローデリヒを揺すり上げる。

　なるほど、現実は本のようにはロマンティックではない。自分の中に制御のできない獣が棲んでいるのを、ルートヴィヒは初めて知った。

　容赦のない繰り返しから、嗚咽を漏らして逃れようとするローデリヒの最奥を、角度を変えては貫き、中に射精する。

「……ンッ、いちど、抜いて……あなたので、いっぱい……っ」

　掠れた悲鳴で懇願されても、自分の動きを止めることができない。

　ローデリヒの内部を満たし、あふれる白濁が自分のものであると頭では理解しながら、自分自身ですべて掻き出し、新たな精を注がないと気が済まない。

　ローデリヒは全身、唇も髪も肌も中も、吐息も涙も悲鳴さえも甘い。その甘さに嫉妬し、駆り立てられ、ルートヴィヒは溺れた。

　その感情が愛だとか恋だとか、考える余裕もなかった。

◆

　青ざめたやわらかい頬に、赤黒い鬱血の跡が刻印されている。刻印は首筋にも、白い胸にも散りばめられ、寝間着が絡まったままの手首には、強く握られた指の跡がくっきり浮かんでいる。

「……おい」

　呼んでも、返事がない。身じろぎもしない。

　ルートヴィヒは、うろたえた。

　たしかに、ルートヴィヒがつけた跡だ。唇で吸い、舌を這わせ、歯を立てた。強く握り、押さえつけて犯したのだ。力ずくで。

　いや、力ずくのつもりは、なかった。

　ローデリヒがルートヴィヒを誘ったのだ。触れれば切ない声を上げ、自分からすがりついてきた。抵抗は形ばかりで、涙も拒絶の言葉も、ルートヴィヒを煽るための手管だった。証拠に、どこもかしこも甘かった。

　そう、思いこんでいた。

　だが目の前のローデリヒは、まるで食い荒らされた哀れな獲物だ。甘い血肉を引き裂かれ、温かい内腑を食われた獲物。

　ゾッと、ルートヴィヒは身震いした。

　こんなつもりではなかった。ローデリヒをこんなふうに食い荒らしたいと思ったことなどなかった。

　上司の命令で無理矢理自分の家に連れてきたが、ローデリヒを力で蹂躙するつもりなど微塵もなかったのだ。

「ローデリヒ。すまない。ローデリヒ。しっかりしろ」

　頬を両手で挟んで揺さぶる。

　ゆっくりと、ローデリヒが目を開ける。セピア色のまつげがしっとりと濡れて光を灯す。

　ルートヴィヒは、おろおろと詫びた。

「大丈夫か。すまない。すまなかった。二度とこんなことは……」

　詫びを繰り返す唇は、ローデリヒの人差し指に封じられた。

　喉が枯れて声にならないのだろう。ルートヴィヒをじっと見つめ、唇の形だけでローデリヒが囁く。

　……愛しています、ルートヴィヒ。

　それから、やわらかく触れるだけのキスをして、ローデリヒは目を閉じた。後に残ったのは深く静かな寝息。疲れ果てて、眠っているのだ。

　脱力し、ルートヴィヒはローデリヒの肩口に顔を埋めた。

　合わせた胸に互いの鼓動が響く。自分だけ、鼓動が異常に速い。頬や耳が、燃えるように熱い。

　キスでオルガスムスに達することもあるものだと、ルートヴィヒは学んだ。