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　子供の頃の夢を見た。

　こちらに差し伸べられた、まだ幼い手を振り払った、遠い遠い昔の記憶。映像はセピアに色褪せ、細かな経緯も憶えていない。けれど胸の痛みだけは鮮烈で、バッシュは深夜に一人目を覚ます。

　見慣れた寝室の天井。月光の差し込む薄闇に、時計の針がかすかな音で時を刻む。

　胸に手を当て、あるはずもない夢の痛みの名残を探る。

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　深く一定のリズムで繰り返される寝息、こちらを向いて眠りをむさぼる、無防備な寝顔。ゆるく開いた口元には、よだれが糸を引いている。

　はしたないのである。

　枕元のタオルを取り、口元を拭ってやる。幼なじみは無意識に微笑んで、バッシュの指をきゅっと握った。

　こら、はなすのである。

　言ったところで、聞こえるわけがない。彼の意識はまだ、安らかな眠りの底に沈んでいる。

　バッシュが悪夢にうなされていた横で、彼はきっと幸福な夢を見ているのだろう。心躍る音楽の夢か、甘い菓子の夢か。

　この幼なじみときたら、眠っているときばかりか、目覚めているときものんびりして危機感がない。戦うことが彼の宿命のはずなのに、争いごとが嫌いで、鍛錬をしてもすぐにバテる。歌が好きで、甘いものが好きで、こっぴどく敵にやられても傷だらけでニコニコ笑っている。

「だって、淑女に手はあげられませんから」

　相手の攻撃を避けることさえできないくせに、一方的に殴られるなんて、どれだけお馬鹿か。

　そのうえ、たびたび道に迷っては遭難する。心配して探しに行くと、こちらが恥ずかしくなるくらい、隙だらけのうれしそうな笑顔を見せるのだ。

　まったくこやつは、起きていても寝ていても、呑気で平和なお馬鹿さんである！

　内心でそう罵ると、ふいにおかしくなった。バッシュはつられたように微笑を浮かべ、再び夜具の中に横たわる。

　幼なじみに指を握らせたまま、寝息を聞いていると、すぐに眠気が訪れる。

　彼の見る幸せな夢が、指先から伝わるのかもしれなかった。

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　けれどあの頃は、あのお馬鹿な幼なじみが、とてもとても大切だった。彼の笑顔に胸を占めた温かさは、今でもふいにこみ上げる。

　今となってはもう、理解しがたい不思議な感情でしかないのだが。

　彼の手を振り払った後、バッシュは一人で戦い、傷つき、長い年月を経て強くなった。痩せた大地で、作物も乏しく、祖国を離れ異国の戦場へ出稼ぎにも出かけた。裏切るかもしれない他人とは決して馴れ合わず、一人きりで生きてきた。

　反対に彼は、強国と次々に手を結び、強大になり、裏切られては孤立し、それでもまた誰かの手を取った。自分だけを頼ってきたあの頃の小さかった手は、今では血にまみれ、それでもまだ誰かの手を求めている。

　バッシュには、理解ができない。

　何故、そんな彼と一緒にいた時代があったのだろう。あんなにも、彼が大切だったのだろう。

　どうして今は、こんなに遠ざかってしまったのだろう？

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　諍いのなくなった最近では、言葉を交わしたり、食事などしたりもする。決して仲がよくなったわけではなく、行きずりのなりゆきに過ぎない。

　遠い昔、先に裏切ったのは彼で、彼の手を振り払ったのは自分だった。

　長い長い時を経て、幼なじみはもう、昔のように無防備には笑わない。感情を表に出さない、どこか不機嫌そうな表情が常になった。幼い頃の平和で呑気でお馬鹿だった彼は、もうどこにもいないのだ。

　けれど、バッシュの妹が、不思議なことを口にする。

　彼女はまだ若く、バッシュや彼が幼い頃のことはよく知らない。バッシュを兄と慕い、兄の言葉はいつでも真剣に受け止める素直な妹だ。

　ただ彼のことだけはどうも、兄とは違った目線で評価しているらしい。

「ローデリヒさんは、前髪がまるで子犬のしっぽみたいですね」

　彼女の発想は、突拍子もない少女らしさに満ちている。幼い頃ならいざ知らず、バッシュよりもはるかに背の高くなったゲルマン男を見て、まさか子犬にたとえるとは。

　街で兄さまを見つけた途端、前髪がぴょんと立ち上がりました。まるでうれしいときの子犬のしっぽみたいに。

　予想外のたとえに、バッシュは目をみはる他ない。自分の発見を誇るように、彼女は続ける。

「口喧嘩ばかりしていても、あの方、兄さまのことをとても大切に思っていらっしゃいますのね。私にはわかります」

　まっすぐに見上げてくる妹の視線を直視できず、バッシュは視線をそらす。

　なにを、言うのである。

　それだけを言いながら、バッシュは顔が赤らむのを自覚した。まったく、年頃の娘というのは、思いもかけない発想をするものだ。あれだけ険悪だった二人を見て、どうしてそんなことを思いつくのだろう。

「兄さま、お気づきになりましたか？　お食事中も、あの方の前髪がぴょこぴょこしてました。私の知らない昔のことを、お二人で思い出していらしたんでしょう？」

　バッシュは妹の問いかけには答えず、口元を手で押さえた。赤面と一緒に、何故だか笑いがこみ上げてくる。

　あの平和で呑気でお馬鹿な幼なじみときたら、体ばかり大きくなったくせに、まだ若い妹に子犬扱いされているのだ。

「今度、お二人の小さな頃のお話を聞かせてくださいね、兄さま」

　妹の無邪気な微笑みに、幼少の記憶が蘇る。

　幼なじみの額から伸びていた、子犬のしっぽ。うれしいときにはぴょんと立ち、悲しいときにはしょんぼりうなだれていた。

　それはあの頃から、今も変わらない。

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　けれどあの頃から続く彼がいて、自分もまたあの頃から続いている。つないだ手を離した二人の間を、時は等しく流れていくのだろう。