草間に見え隠れする野ウサギの耳を追って、幼いフェリシアーノが走り出す。

「待って、フェリちゃん！　気をつけて、転ばないでね」

　制止するエリザヴェータの声も、明るく弾んでいる。彼女もまた、草原を思い切り走りたい気分なのだろう。

「は〜い……やっ！」

　エリザヴェータの警告通り、フェリシアーノの小さな姿はすぐに草間に沈み、ヴェ〜という気の抜けた悲鳴が聞こえた。

「フェリちゃん、大丈夫？」

　エリザベートが駆け寄り、フェリシアーノを抱き起こす。半べそのフェリシアーノは、両手にバスケットを抱えている。

「ヴェ〜。お昼ゴハン、落としちゃいました」

　バスケットには、三人分の昼食が入っている。エリザヴェータがバスケットのふたを開くと、中ではパンやハムが奔放に散らばっていた。

「やれやれ、サンドイッチが崩れてしまったようですね。挟みなおせば、食べる分には問題ないでしょう」

　ペースを崩さずに歩いて追いついたローデリヒが、中身を検分する。

「だいたい、足元に何があるかも見えない草原を走るからです。落ち着きなさい、フェリシアーノ」

「ヴェ〜、ゴメンナサイ」

　ローデリヒの小言に、フェリシアーノが首をすくめる。しょんぼりとうなだれた頭を、エリザヴェータが撫でてやる。

　ローデリヒは、コホンと咳払いをした。

「それでは、このあたりで食事にしましょうか。日の高さからして、ちょうどお昼時でしょう」

　食事と聞いて、フェリシアーノがぴょんと飛び上がって反応する。

「はいっ！　ボクおなかぺこぺこです！」

　ローデリヒにジロリと睨まれ、フェリシアーノは再び縮こまった。

　エリザヴェータがクスクス笑いながら、自分のバスケットから敷布を取り出して広げる。エリザヴェータが運んでいたのは、敷布と飲み物である。

　三人は、敷布の上に腰をおろした。

「ローデリヒさん、お手拭をどうぞ。フェリちゃんもちゃんと拭いてね」

　エリザヴェータが、てきぱきと食事の支度をする。崩れていたサンドイッチも、少々雑ながら元のように盛り付けられる。

　しょんぼりしていたフェリシアーノも、エリザヴェータを手伝い、すぐに笑顔に戻った。立ち直りの早さが、フェリシアーノの明るさの秘訣だ。

「お外で食べるゴハン、おいしいですね」

　パンを口いっぱいに頬張りながら、フェリシアーノが無邪気に笑う。

「ね。昨日のご馳走もおいしかったけど、お日様と風がいちばんの贅沢かも」

　エリザヴェータが明るく相槌を打つ。

　彼女は今でこそエプロンドレスに身を包んでいるが、この家に来る前は、馬に跨り草原を駆け回っていた。さわやかな風と明るい日差しを浴びて、緑の瞳はいつもよりいっそう輝いている。

「たまには、外で食事するのもいいでしょう」

　頷いて見せたローデリヒは、本当は屋外はそれほど好きではない。真昼の日差しは眼鏡のレンズに眩しいし、外での食事は衛生的とは言いがたい。

　それでも、エリザヴェータとフェリシアーノが喜ぶのであれば、たまには外に連れ出すのも悪くないかと思っている。二人とも本来は奔放な性格ながら、ローデリヒの家では、使用人として規則正しく働き、堅苦しい儀式や晩餐の裏方を務めているのだ。

　昨夜も国政に関わる盛大な晩餐があり、二人ともよく働いてくれた。感謝とねぎらいの意味を込めて、今日は視察を口実に、エリザヴェータとフェリシアーノを外に連れ出したのである。

「ヴェ〜。おなかいっぱいになったら、眠くなっちゃった〜」

　フェリシアーノがコロリとその場に横たわる。普段ならはしたないと叱るところだが、ローデリヒは視界の端に止めて見ないふりをした。青空の下での食事で、行儀作法にこだわるのも無粋だろう。

「ローデリヒさん、ワインをお注ぎしましょうか？」

　エリザヴェータが笑顔で水筒を差し出す。彼女の笑顔も、日差しのように軽く輝いている。

「ええ」

　空になった銀杯を差し出すローデリヒの耳に、スウスウと心地よさそうな寝息が届く。フェリシアーノが、エリザヴェータの膝でシェスタをはじめたらしい。

　あえてフェリシアーノには視線を移さず、ローデリヒは持ってきたトランクから図面を取り出して広げた。

「こうして座って見ると、なだらかに傾斜しているのがわかりますね。川から水を引くには、汲み上げる装置が必要でしょうか」

　敷布越しに大地に触れ、眼下を流れる川と見比べる。

　ローデリヒは、灌漑工事の視察に来たのだ。

　仕事を始めたローデリヒに、エリザヴェータは話しかけることを控え、静かに食事の片づけを始めた。

　彼女はいつでも、ローデリヒの意図通りにふるまう。

　そしてそのまま、エリザヴェータが眠りに落ちるのも、ローデリヒの予想通りであった。膝にフェリシアーノの頭を乗せたまま、傍らのローデリヒの肩にもたれる。

　温かい日差しと、頬を撫でる風の心地よさに、うとうとしているだけだろう。ローデリヒが動けば、エリザヴェータはすぐに目を覚ます。

　彼女を起こさないよう、細心の注意を払いながら、ローデリヒはトランクから本を取り出した。明日の上司との会議までに目を通しておきたい書籍だ。それなりに、ローデリヒは忙しいのである。

　だが今日は、ローデリヒには珍しく、午後のひとときを屋外で過ごすことにしたのである。

◆

　大きなマントですっぽりと肩を覆い、黒い帽子の下からこちらを見ているのは、宝石のような水色の瞳。

「あら。神聖ロ……」

　驚いて呼びかけたローデリヒの声は、シッと指を立てて制止された。ローデリヒの傍らで眠る二人を起こさぬよう、気遣っているらしい。

　彼は、神聖の冠をつけて諸国から呼ばれている。ローデリヒにとっても、彼は仕えるべき主であり、同時にその力を制御し導くべき、象徴的な存在である。

　今の彼は、黒い重厚な軍装にはやや不釣合いな、幼い少年の姿をしている。

　どうしました？

　声には出さず、ローデリヒは視線で呼びかけた。屋敷内ならともかく、今日は遠出をしているのだ。偶然に通りかかるとも思えない。

　少年は、答えない。黙ったまま、こちらを見つめるばかりだ。

　ローデリヒも、じっと彼の瞳を見つめ返す。

　薄い水色の瞳は、宝石のように冷たく澄んで、感情が読み取りにくい。それでも奥を覗き込めば、言葉には出せぬ複雑な想いが浮き沈みして見える。

　フェリシアーノへの思慕。執着。己の感情への戸惑い。憧れと羨望。ためらい。そして自戒。それらの感情を同時にもてあまして、彼は立ちすくんでいるのだ。

　ローデリヒは、表情を緩めて手招いた。

　子ども扱いに、彼がむっとした表情で眉根を寄せる。

　大きな声で話したら、この人たちが起きるでしょう。

　唇の形と指先で、ローデリヒは伝える。彼が近くに来なければ、二人を起こさぬようにという気遣いを無にすると、一種の脅迫をしているのだ。

　彼が、ため息をついて歩み寄る。

「何の用だ」

　ローデリヒが聞きたいことを、彼が先に聞いた。

「どうしたんですか。あなたがこんなところで」

　そ知らぬ顔で、ローデリヒは問いを返す。

「別に。通りがかっただけだ」

　彼は答える。

　三人について来たのだ、とは口が裂けても言わないのだろう。

「そうですか。こんなところで偶然ですね。私たちは、工事の視察に来たんです。この山の斜面に灌漑用水を引こうかと」

　ローデリヒはうなずき、自分たちの目的を説明した。

「たしかにいい土地だな。日当たりも風通しもいい」

　周囲を眺めて、彼もうなずく。暖かな日差し、穏やかな風、やわらかな大地に芽吹く草花。

「ええ、天の祝福を受けた、みのり豊かな大地です。けれど、年によっては水が不足するのですよ。今年も雨が少ないので、心配しています」

　だが天からの恵みだけでは、安定した収穫は得られない。人の手が育てて、生活の糧に変えるのだ。

「天からの恵みを、人が育てて、初めて国の力になるのですよ。神聖ローマ」

　それは、彼も知っておくべきことだ。彼こそが、考えるべきことだと、繰り返しローデリヒは諭してきた。

「……視察に来た割には、のんびりしているな」

　ふいと、彼はローデリヒから目をそらした。そらした先には、フェリシアーノが寝息を立てている。

「まあ、この人たちが眠ってしまいましたのでね。フェリシアーノはともかく、エリザヴェータまで。昨日の宴の支度と片付けで、疲れたのでしょう」

　ローデリヒの家での宴は、格式高いものだ。贅を尽くし、礼を尽くし、上司が国賓をもてなす。政治的な駆け引きの場では、銀食器の曇りひとつさえ国家の威厳に関わる。

　国の営みは、悠々と見えて、実はめまぐるしい。

　人々の豊かな暮らしのために、やるべきことはいくらでもある。灌漑も、式典も宴も、婚姻も、信仰も、戦争さえも政略のひとつ。そのすべてが、国家の血となり肉となるのだ。

「昨日の宴には、本当はあなたにも出席していただきたかったのですが」

　ローデリヒがチクリと小言を言う。彼は、不機嫌そうに眉根を寄せた。

「明日の会議には出席してください。神聖ローマ」

　明日の会議のために、ローデリヒがいま目を通している本は、宗教の教義解釈の本だ。信仰は常に政治と結びつき、不穏な動きも耐えない。それはむしろ、ローデリヒよりも彼のほうが強く感じているのだろう。

　彼の水色の瞳が、拒絶の光を帯びる。言葉にして、それを言おうとしたとき。

「むにゃ。神聖ろおま……」

　場違いな発言が、二人の対峙を遮った。

　愛らしく甘えた音程は、フェリシアーノの寝言だ。

「おや。フェリシアーノは、あなたの夢を見ているようですよ」

　ローデリヒがつい失笑する。遠く夢の国から名を呼ばれた少年は、白い頬を耳まで赤く染めた。

　寝言はそれきりで、後には穏やかな寝息が続く。

　暖かな日差しが降り注ぎ、風がやさしく寝顔を撫でる。満ち足りて眠る、フェリシアーノとエリザヴェータ。

　先ほどフェリシアーノが追いかけていた野ウサギが、草の向こうからこちらを見つめている。平和なひととき。

　それは、束の間かもしれないけれど。

「あなたも、すこし眠りますか」

「なっ！」

　ローデリヒの提案に、幼い彼はうろたえた。

「眠そうな顔をしていますよ。私も、この人たちを見ていたら眠気が移って」

　ローデリヒもあくび交じりのため息をつく。

　政治のことを考えるには、あまりも日差しは暖かく、風はやさしく、二人の寝顔は和やかだった。

「お、俺は別に。もう、行く」

　不器用な彼の腕を、ローデリヒがつかんで引き止める。

「私もそう長居はしませんよ。この人たちが風邪を引きますからね。日差しが暖かく、風も穏やかな、すこしの間だけです。あなたもすこし、おやすみなさい」

　穏やかに、ローデリヒは繰り返す。

　彼はぽすんと、その場に腰を下ろした。

　彼だって、この平穏の輪に加わりたかったはずなのだ。口に出せずとも、薄い水色の瞳の奥に、そう書いてある。

「すこし、だけだ」

　帽子をかぶったまま、彼はマントの前をあわせ、ローデリヒの肩にもたれた。

「ええ。すこししたら起こしますよ」

　すこやかな寝息が、草原を渡る風に紛れ、しずかな時が過ぎていく。子供の眠りは、早く訪れ、満ち足りて深い。

　彼は、いつまで子供の姿でいるのだろう。彼は、いつまでローデリヒのそばにいるだろう。

　いまはただ、ひとときの平和と恵みを、ローデリヒは神に感謝した。