首もとのリボンタイが切れて、床に落ちる。

　室内が暗く、犯人の顔はよく見えない。武器を持っているようにも見えない。凶器は、おそらく爪。

　鋭利な刃物のようなその爪は、意外にも肌には傷を残していない。摩擦のかすかな熱のみが、犯行の軌跡を伝える。

「……あなたは、いったい？」

　ローデリヒは、暗がりに目を凝らした。闇に浮かぶシルエットは友人によく似ているが、雰囲気が違う。

　いやむしろ、少し前の友人の雰囲気に似ているかもしれない。ローデリヒを映しながら、見てはいない、うつろな瞳。

　表情が動かぬまま、彼は腕を伸ばしてローデリヒの両肩をつかんだ。

「こら！」

　押し倒され、床に組み敷かれてから、ローデリヒはようやく声を上げる。

　いったい、何をしようとしているのか。

　不思議に殺気は感じられない。ローデリヒの肩をつかむ手も、決して荒々しくはないのだ。痛むとすれば、床にしりもちをついた部分くらいで。

「……ち　が　う」

　機械仕掛けの人形のように、彼は呟いた。

「何が、違うんです？」

　組み敷かれた姿勢のまま、ローデリヒは問い返す。

　瞳が焦点を結び、やっと視線が合う。闇の中に輝く瞳は、宝石のような青。

「……ああ、別に。俺にはどうでもいいことだから」

　投げやりに、彼は答えた。

「では、おどきなさい。重いです」

　押さえつけられた体に痛みはないが、重みで身動きが取れない。

　ローデリヒは身を起こそうと力を入れるが、あっけなく押し返される。

「やだ、って言ったら？」

　試すように、彼の顔が近づいてくる。ローデリヒは、目をそらさずに見つめ返す。

　やはり、友人によく似ている。

　ふと、ドアの外に足音が聞こえた。

　自分を呼ぶ声はギルベルト。鳴り続ける電話のベルに導かれて来たのだ。

「うるさいな」

　不機嫌そうに、彼が吐き捨てる。彼は手を伸ばし、パチンと指を鳴らした。

　途端に周囲の音がブツリと途切れ、冷たい静寂が耳を打つ。電話のベルも、ギルベルトの声も聞こえない。

「何をしたんです？　ギルベルトは？」

　ローデリヒの体勢は変わらない。相変わらず、組み敷かれたままだ。

「次元をちょっと歪めただけ。ここは次元の狭間だよ。ギルベルトの相手は俺の仲間がするし、邪魔されず二人っきりで話ができるよ、ローデリヒ」

　彼の説明は、よくわからない。だが、異質な空間であることは、ローデリヒにも肌で感じられる。

　静寂の中で、彼の顔が近づいてくる。

　唇が触れる寸前でそれて、耳たぶに歯を立てられた。痛みよりも、触れる吐息の熱さに首をすくめる。

「抵抗しないんだね、ローデリヒ。俺のこと、もうちょっと警戒したほうがいいよ？」

　薄闇の中で、彼がにこりと笑う。相変わらず、殺気は感じられない

「警戒するような悪さをするつもりですか？」

　問い返すと、首をかしげておどけた。

「さあてね。どうしよっかなあ」

　からかうように語尾を伸ばす声が、やはりよく似ている。

「あなたは、いったいどなたです？　私の友人に似ていますが、何か関係が？」

　思ったまま、ローデリヒは口にした。

「へえ。友達、なんだ」

　切り返されて、目をそらす。

「顔見知り程度ですが」

　ローデリヒを組み敷いた彼は、友人と同じ声で笑った。

「いいなあ。こういうの久しぶりだよ。だって裏地球のローデリヒは、俺が食べちゃったからね」

　言葉の意味を理解する前に、ゾクリと悪寒がこみ上げる。

　どういう、意味なのか？

「俺ね、裏地球から来たの。裏地球には、俺が百二十三人いるんだ。それがどういうことか、わかる？」

　問いかけに、ローデリヒは反応を返さない。

　彼の国が百二十三あるという裏の世界。裏のローデリヒは、彼に食べられたと言う。ローデリヒは裏の世界の地図を想像しかけて、意識的に止めた。

「まあ、裏とか言われてもわかんないだろうし、説明しても信じてもらえないと思うけど」

　つけ足された彼の言葉に頷く。

「ええ。まったくわかりません」

　彼は、ふわりと笑った。

「いいんだ、それで。俺は、ロディに会いに来ただけだから」

　うれしそうに言いつつも、彼の瞳に浮かれた光はない。むしろ、何かを失い、あきらめたような顔。

　彼によく似たローデリヒの友人は、こんな表情をしただろうか。

「裏地球のことはもういいや。俺も忘れたから、聞かないで？」

　一方的に話しておきながら、一方的に話を切る。その身勝手さに、ローデリヒはそれ以上の追及をあきらめた。聞き出す手間をかける義理もない。

「ではなぜ、服を着ていないのですか？　お下品ですし、寒いでしょう」

　別の質問を投げかける。ローデリヒのよく知る友人のように、破廉恥な格好が趣味なのだろうか。

「裏地球ではこれが普通だよ。どっちかって言うとネコ科だからね」

　屈託なく、彼は答えた。そういえば、彼は股間のものさえ隠さず堂々としている。

「ネコ。ではその耳は、本物ですか？」

　獣の一種と思えば、いっそ気は楽になった。

　姿かたちは友人に似ていても、彼ではないのだ。互いのことは知らないし、永い歴史の中で積み重ねられた利害も確執もない。

「そうだよ。触ってみる？」

　無防備に突き出された耳に、指先で触れる。

　ふわふわとしてやわらかな毛並み。長毛種のネコに似ていると言えなくもない。

　ネコのように撫でてやると、ゴロゴロと音が聞こえた。のどを鳴らしているのだ。

「なるほど。ネコですね」

「うん。ネコだよ」

　ネコだと言い張る彼は、ローデリヒの胸に頭をすりつけて甘えてくる。

　こうしてみれば、可愛いものだ。

「それで、あなたの望みは何ですか？」

　ネコ撫で声で聞いてみる。ネコならば、機嫌をとってやるのも悪くはない。気まぐれながら単純な獣の性質を利用して、思い通りにすればいい。

「言ったよ。ロディに会いに来たって」

　ためらいもなく、彼は答えた。

　彼の顔で言われることに、ローデリヒのほうが戸惑いを覚える。

「では、私に会って満足したでしょう？　そろそろ帰していただけませんか。私がいなくなって、みんな心配しているでしょうし」

　彼は、ローデリヒのよく知る友人ではない。ここは、ローデリヒのいるべき世界ではないのだ。

「やだよ。帰さない」

　だが、友人の姿をしたネコは、頑強に首を横に振った。

「違う世界のローデリヒと俺だから、こうしていられるのに」

　すがるような訴えに、ローデリヒは再び沈黙する。 　たしかにこれが友人ならば、頭を撫でてやったりはしないだろう。姿かたちが似ていても、友人ではないからこそ、こうして触れられるのだ。

「……困りましたね。ではどうすれば、あなたは満足するんです？」

　指先で彼の頬を撫でながら、ローデリヒは質問を繰り返す。

「俺を満足させてくれるの、ロディ？」

　途端に彼は、ぱっと顔を輝かせた。勝手に人の名前を短縮して呼ぶ馴れ馴れしさは、ローデリヒの友人に似ている。

「私には、元の世界に帰る方法がわかりません。あなたにお願いするしか、帰る方法がないんです」

　感情をまじえず、ローデリヒは事実だけを伝えた。

　彼がローデリヒの願いを聞いてくれるのか、あるいは自分が本当に元の世界に帰りたいのかどうか、考えたところで仕方がない。

　彼に語りかけることしか、今のローデリヒには選択肢がないのだ。

「お願い、ねえ。ロディは俺のこと全然警戒しないんだね。俺、ネコだよ？　お願いされても、約束なんか守らないし、ロディを食べちゃうかもしれないよ？」

　彼は笑って口を開けた。ネコのように、鋭い牙がある。

「構いませんよ。お願いを聞くかどうかは、あなたにお任せします」

　ごく真剣に、ローデリヒは答える。ローデリヒ自身では何もできない。それは事実なのだ。

「ただ、五体満足で帰れないのは困りますね。帰ったらピアノを弾く約束をしているんです。指の一本も差し上げられません」

　要望をつけ加えると、彼は青い目をキラリと輝かせた。獲物を見つけたネコの目だ。

「へえ、そう」

　頬を撫でていたローデリヒの手を取ると、ネコのようにふんふんとにおいをかぎ、それからカプリと噛みついた。小指に熱い舌が絡みつき、第一関節に牙の温かい痛みが突き刺さる。

「……私は、指一本も差し上げられないと言ったはずですが」

　制止をすると、彼は牙を見せて笑った。

「あのね。俺は、指どころか、ロディを全部食べちゃうって言ったはずだよ」

　しゃぶっていた小指をはなし、かわりにローデリヒの唇に噛みついてくる。

　鋭い牙が当たって、唇の端が裂ける。温かく甘い血の味がじわりと広がる。

　それでも、ローデリヒは他にどうしようもない。

　彼の首に手を回して、ローデリヒは獲物をむさぼるようなネコのキスに応えた。

◆

　背中を包む体温が心地よい。ざらざらしたネコの舌が、耳の後ろを舐めている。

「……私を食べてしまうのではなかったのですか」

　そう尋ねると、彼はふわりと笑った。

「うん。おいしかったよ、ロディ」

　ローデリヒは五体満足で、指の一本も欠けてはいない。全身に残るのは、まといつく甘さと気だるさ。ネコのようにお尻のにおいをかがれるのには閉口したが、たしかに美味なるひと時ではあった。

「最期の瞬間にロディを抱いていられて、俺、幸せだよ」

　ローデリヒのこめかみにキスをして、彼が囁く。

「……最期？」

　言われたことを、おうむ返しに繰り返す。頭がぼんやりとして、何を言われているのか理解できない。

「そう、最期。クリスマスの十二時になったら、裏地球が爆発して、俺たち消えてなくなるから」

　告げられた言葉に、ギクリとする。彼は今、とんでもないことを口にしたのではないか。

「いなくなるって……あなた、今、何時ですか！？」

　懐中時計を探ろうとしたが、シャツ一枚で、脱いだ服がどこにあるかわからない。眼鏡もかけていない。

　間近にあるはずの彼の顔も、薄闇に輪郭がぼやけてよく見えない。

「そろそろ十二時、かな」

　その瞬間。

　真っ白な光が視界を焼いた。強過ぎる光が目から鼓膜に抜け、パアンと音が響く。

　同時にローデリヒの体を抱いていた温もりがすり抜けて行く。

「フランシス……！」

　名前を呼んで、夢中で伸ばした手は、誰かの手に触れた。

　強く握れば、握り返してくる。

　強すぎる光がやがて薄れると、骨ばった手の持ち主の姿が見えた。ギルベルトだった。

　夜明けの光に照らされて、しずかに眠っている。

　見慣れた朝の、見慣れた光景。元の次元に戻ったのだ。

　彼が、帰してくれた。

　けれど、彼はどうしただろう？

「最期」と言っていた。消えてなくなると、言っていた。

　あのネコの姿は、もうどこにも見えない。

　白い霧が立ち込めるように、ローデリヒの意識が遠のいていく。

　薄れる意識の中で、ローデリヒは心から願った。

◆