もう三日も主の帰らない館は冷たいばかりの静けさだった。
熱の下がった潁はようやく母家への出入りを許されて、その空気の変わりようにいくらか気押されていた。
赤ん坊が生まれたなら、めでたいはずである。それなのに、こんなにも静まり返るものなのだろうか？誰もが重い顔をしていて、話しかけることさえ遠慮せねばならなかった。
いつも陽気な喬でさえも、あまり口を開かないし、第一朝から番まで母家の一番隅の一室……赤ん坊の生まれた寵姫のもとへ通い詰めで、なかなか捕まらないのであった。
それで、早く「おきれいな坊っちゃま」を見たいのだが、いまだ見られずにいる。
父も、主について行ったきり戻らない。潁は仕方なく、所在なげにあちらこちらを行き来しては、ほかの下男たちと馬小屋の掃除や馬の世話をしたり、水場で野菜洗いや洗濯やらを手伝った。熱を出して寝こむ以前にもやっていたことだが、三日顔を見せなかっただけで急に皆から陽気さが抜けてしまったように思われた。
母を待って門番に座り込むのは、もう懲りてやめにしていた。その分、暇にならぬようせっせと働いたが、それでも子どもの潁にはできないことも多く、昼過ぎにはなんとなくあぶれた。
「やあ、潁坊。ちょっと頼まれてくれるかい」
門のすぐ内側で庭番に声をかけられた。ちょうど暇を持て余していたので飛んで側に寄る。
庭番は痩せておしゃべりな割りに身ごなしに隙のない男である。……父や母と同じある種のにおいを、潁は男から感じ取っている。そのせいか、なんとなく好いていた。
「これね、奥様に頼まれたンだけど、代わりに持って行ってくれないかな」
手にしている南天の枝を降って見せながら、庭番は決まり悪そうに頭をかいた。
「奥様がお好きで毎年お部屋に飾られるンだが。どうもこの頃は御機嫌が悪くていらっしゃる……お気持ちはよくよくわかるが、何を言ってよいやら、当たられてもたまンないし。
子ども相手ならヒステリーもあるまいと思ってね。だから、潁坊、頼まれてくれよ」
要は、嫌な役の押し付けである。だが断る気もせず、潁はうなずいた。
「うん、いいよ」
白い背景に色のあせない葉の緑とつやのある真っ赤な実がきれいな対照だった。潁は使いの枝を受け取って、母家に上がる。
奥様だぞ、と庭番がしつこく念を押した。とりわけ嫉妬深い正室と、他の庶夫人……ことに坊ちゃまを生んだばかりの年若い寵姫と、間違っても取り違えてはならないことは、潁にもわかっている。長い廊下を歩きながら、潁は他の庶夫人と顔を会わさぬように俯きながら、真っ直ぐ正室の部屋を目指した。
幼いながら父母にしつけられて、足音を忍ばせて歩くのは得意であった。
「奥様……」
そっと部屋を覗くと、いつもは何人もの侍女がいるのに、たった一人をつけただけで正室は長椅子に斜めにかけていた。ととのわず乱れた髪が顔に落ち、重ねた衣も半ばはずれている様が、狂気じみて見える。夫が帰らないせいだろう。
それにしても、気安く引き受けるものではなかったと、潁は尻込みした。
「誰なの。お入りなさい」
一人仕えていた侍女が高圧な態度で呼びかける。
「あの、これを奥様のお部屋に」
おずおず差し出すと、侍女が受け取った。
「……まあ、南天ね。ありがとう」
礼を述べたのは正室だった。かすかに微笑を浮かべている。だが目付きが虚ろで、何やらそら恐ろしくもあり、潁は素直に笑い返せなかった。
「あなた……ついでに頼まれてくれる」
「え……はい」
柔和とは言えない声に、侍女が夫人の顔を覗き込む。潁が戸惑った間に、正室は侍女のほうへうなずいて見せた。
「この館の西の隅の、月蝉さんのところまで。赤ちゃんを生んだ……わかるでしょう？」
潁はぱちぱちと瞬きをした。正室が、彼女に何の用があるというのだろう？
「珍しいお酒が入ったのでおすそ分けなの。これで寒さをしのいでくださいって。お願いね。……幼玲、この子に持たせてやりなさい」
小さな蓋つきの觚はさして重くはなかったが、潁は受け取りながら何か恐ろしくなった。
そっと落とさぬように抱え、緊張の面持ちで部屋を後にする。直線の廊下が続く間、正室と侍女とがいつまでも自分の背を見ているように感じられた。◆
思えば、赤ん坊を見るのは今日が初めてである。潁は用心深く歩を進めながら、胸の弾むのを覚えた。
寵姫の部屋は何故だかわからぬが目に明るく見えた。静まり返った屋敷のどこよりも空気が優しく、思わずほっと息がもれた。
「あら……こんにちわ」
月蝉は寝台に上体を起こして赤ん坊を抱き、ついていた台所女の劉と何か話をしていたようだった。戸口に立った潁に気がつくと、若々しい笑顔を見せた。
「潁じゃないか。こんな所に入ってきて、風邪を坊っちゃまにお移しするんじゃないよ」
すぐに劉が咎める。
「……うん、もう治ったよ。喬媽がいいって言った」
「喬さんに用かい？なら今ちょうど台所へ行ったところだよ」
劉と問答をしながら、潁は眩しげに月蝉の美しい顔を盗み見た。
月蝉の美しい容貌は、館の主の寵姫としてではなく、潁の記憶にあった。
一年ほど前、屋敷に招かれた楽団の舞い手の「月蝉」である。
ちらと垣間見ることしかできなかったが、橙の灯の中、ゆるやかな楽の音に合わせて舞う姿は、夢のように潁の脳裏に残っていた。
舞いは身軽く音も立てずしなやかな動きで、細い体が地に近いところで不可思議に優美な曲線をなした。白い腕が伸びるたびに、生まれたての蝉の羽のような、薄絹の帯の先が光に透けて輪を描いて、華奢な肢体に巻きこまれては襞に折りこまれた。
流れるような動作の合間に見え隠れする顔は、切れ上がった瞳が恐ろしいような艶かしさを含んで、唇も挑発的に笑み、この世のものとは思われないほど魅力的だった。
子どもながらに心動かされた、あの仙女であった。
「あの、僕は、月蝉さまに」
「私に？まあそんなところへ立っていないでお入りなさいな」
仙女にあっさり入室を許可されて、光栄に思わず身が固くなる。うつむいて、ためらってから顔を上げると、きれいな瞳とぶつかって、ますますまごついた。
「まあ、この子は！何を上がってるんだい」
劉が、普段はおばさんたちの間で平気な顔しているくせに、とげらげら笑った。潁はことさらに口をへの字に曲げて部屋に入った。
近づいて見ると、やはりきれいな人だった。舞いのときのようななまめいた美しさはないが、しっとりとよい香りがして、やさしくあたりを包むような雰囲気がある。
「嘉というの。まだ小さいけれど、もう少し大きくなったら一緒に遊んであげてね」
言われて初めて、潁は慌てて腕の中の子を見た。
すっかり赤みも抜けて色の白い、母親によく似た子である。坊っちゃま、と聞いていなければ女の子かと思っていただろう。喬が「おきれいな」と言った意味がよくわかる。あまりに静かなので眠っているのかと思ったが、潁が覗き込むと不意にきれいな目を開いて驚かせた。にっこりと、嬰児らしからぬ「きれいな」笑みを見せる。
「驚いた…起きていらっしゃったんですね」
「ふふ、あなたのことが気に入ったみたいよ」
指の短い、これでも動くのかと思うほどの小さな手が伸びてきて、やわらかいこぶしがふよと潁の鼻に触れた。潁はあまりに小さな生き物に、目をぱちぱちさせた。と、もう片方の手も伸びてきて両側から鼻を押さえる。嬰児特有の、高い体温が奇妙に心地好い。
恐る恐る指でふっくらした頬に触れてみると、意外に弾力があり、何が楽しいのか短く声を立てて喜んだ。
「もう相当のお気に入りね。珍しく愛想のいいこと。潁くん？よかったらこれからもちょくちょく来てこの子の相手をしてちょうだいな」
「本当に……お静かなばかりで私らには目もくれませんのに」
劉が悔しそうに言う。
きれいな、小さな生き物が示す愛想が、とくに自分だけにのものであると言われて悪い気はしない。うれしくなって、頬をほころばせる。何だか無性に嬰児が愛おしく思えてくる。
「抱いてみる？」
「まあ月蝉様。まだ首も座っていらっしゃらないのに、潁のような小さな子供に抱かせては……」
「あら、大丈夫よ。潁くんは年の割に大きいし、嘉児がこんなに好いた人間も珍しいわ。是非とも抱いてもらわなくっちゃ。もっとこちらへ寄っていらっしゃい、両手を出して」
言われて手を出しかけて、潁は小わきに抱えていたものを思い出した。丁寧に抱え直して、月蝉のほうへ差し出す。
「あ、これ、奥様が」
「奥方様が？」
月蝉の形のよい眉がわずかにひそめられる。劉も珍しがって身を乗り出した。
「お酒だそうです。寒いからお身体を暖めてください、とおっしゃってました」
「おかしなこともあるもんだねえ、……」
疑わしそうな目付きで劉が先に続く言葉を呑みこむ。
「そう。届けてくれたのね？有り難う」
ややあって、月蝉が答えた。別段感情のゆれは伺えない。
「潁くんには御苦労様の御褒美を差し上げましょうね。……劉媽、申し訳ないのだけれど、台所の喬媽に頼んで、戸棚から蜂蜜を出してもらってくださるかしら。
戸棚の一番奥に、私が隠して置いた小瓶がふたつあるはずだから。それとひとつは夜潁くんが舐められるように馬小屋へ運んで欲しいと、喬媽に伝えてくださいな」
ここへ来てから、妾の分際でと、月蝉は滅多に人を使わなかったことがない。だが今日に限って命令調に近い口調で、またその内容も不可思議なものだったから、劉は面食らったようである。従いかねて、まごついていたが、
「お願い。急いで頂戴」
せっつかれて慌てて出て行った。室内には月蝉と潁と嘉だけが残された。
劉の足音が遠ざかるのを見計らい、月蝉は寝台を下りた。寝巻のままである。
「月蝉さま？」
「そのお酒はそっちの台の上において、こちらへいらっしゃい」
潁は慌てたが、りんと言い放たれて、従うほかにない。
「両手を出して。そうそう……しっかり抱いて、放さないでね」
その潁の前に膝立ちになり、月蝉は嘉をしっかりと抱かせた。潁は月蝉のただならぬ様子に応えて長さも大きさも足りない腕に懸命に嘉を抱きしめる。何とか収めると、月蝉は潁の手の上から嘉を抱きしめて、頬擦りした。潁の顔のごく近くに、唇を噛んだ月蝉の悲壮な表情がある。
「この子をお願い。しっかり抱いていてあげて……」
「月蝉さま……？」
「ここから庭を抜けて、なるべく人の目につかないように、馬小屋へお行きなさい。そして、喬媽かお館様が来るまで、誰にも見つからないようじっと隠れているのです。……お願い」
こういうときに何故と聞かないのが潁である。
月蝉の様子からして、一刻も早く令を確実に遂行しなければならないことは、潁には直感的に悟ることができた。深く、うなずく。
月蝉は立ち上がり、小さな潁が必ずや嘉を守ってくれる忠実な士であると信じた。無言で部屋の南側に張り出した床を示す。床にはかつて身重だった月蝉のために庭へ下りる親切な石段があつらえてある。潁が嘉を抱えながらでも安全に庭へ下りられるはずだった。
潁は用心深く石段を下りた。身ごなしに普通の子供とは違って無駄がない。 月蝉は嘉の安全を確認した。任せるべき人に任せたのだ。
「嘉児……」
小さく呼びかけると、潁は立ち止まった。振り返って、しかと抱いている嘉を見せる。嘉は静かにじっとしている。月蝉はその場に崩れた。
「いいのです……お行きなさい。行って……」
声にはならなかったが、潁は了解した。小さな背が離れて、藪の陰に隠れた。
床の上に握りしめた手の甲に涙が落ちたが、悲しんでいる場合ではなかった。一刻も早く行動を起こさねば、人が来る。
月蝉は寝台にすがって立ち上がり、潁が持ってきた觚を手に取った。蓋を取ると芸妓時代に飲み慣れた……ほんの一年ばかり前のことだが……懐かしい匂いがした。
大きめの硝子の盃に注ぎ、一息にあおる。小さな觚はすぐに空になった。
少し頭がぼんやりとしていた。立ち上がると視界が揺れた。
月蝉は舞い始めた。
すぐに咽が灼けるように熱くなり、歌うことはかなわなかったが、体は不思議なほど軽く、姉たちと舞った頃のように、よく動いた。大胆に舞いながら、張り出した床からぱっと庭へ跳ぶ。衣が風に開く。雪が素足に冷たい。
そのまま、潁が行ったのとは別の方へ走り出した。走りながら、手足がしなやかに舞いの形を作った。まだやわらかな粉雪が宙に舞った。
屋敷の門をくぐる頃には、咽が激しく痛み、体中が痺れ、目が霞んでただ白い雪ばかりが視界に写った。
酒の中にしこまれていた毒が回ってきたのに違いがない。
「月蝉っ！」
遠い意識の彼方で誰かの声を聞いた。五感覚の悉く失われた自身の体がふわりと持ち上げられる、浮遊感を感じたように思った。それが最期だった。
「嘉児を……」
夫が抱え上げたときには、すでに抜け殻であった。
「何故、こんな……」
抱きしめたが、何の力もない。
垂れこめた鉛の空が覆い被さるように、白い地上のすぐ上を渦巻いている。一面の銀世界には静寂ばかりが耳障りで、魏正は主人の馬の轡を抑えながら目を閉じた。
◆
主が戻ったその晩は、館はいっそう静まり返った。
奇妙にぎくしゃくとした会話が夫婦の間で交わされる。月蝉の死の原因について、館の主は何も言わず、忘れ形見の息子の姿が見当たらないのに気づいても、騒ぎ立てることもなかった。ただ一晩中衣服もゆるめず、灯を灯して両手で顔面をふさいでいた。
王とは、冷戦のままに別れたという。
魏正は離れに戻り、一番奥の個室に潁ばかりでなく喬や主の息子までいるのに眉を寄せたが、何も言わず、三日間の疲労がこみ上げたか泥のように眠りこんでしまった。
喬は母屋と離れを行ったり来たりし、嘉が空腹で目覚めるたびに、素早く山羊の乳をぬるま湯で溶いたものを与えた。
潁はどうしても眠れず、喬がいないときも、喬が乳を与えていてさえ、嘉を胸に抱いたまま壁にもたれて座り、じっと窓から外の闇を眺めた。
潁の心音を聞いて安心しているのか、嘉はよく眠っている。
明日には嘉を館の主に返さねばなるまい。気性の激しい正室と言えど、明日には正気づいていよう。月蝉の託した願いには添えるだろう。
このとき潁は何故か、母はもう帰らないと確信しながら、涙があふれないのを不思議に思った。
やがて、静かでひどく長い、夜が明けた。
鉛の雲に塞がれ、鮮やかな色彩をすべて失った地上の、冷ややかな夜明け。白く無表情な雪の表面を蒼く、蒼く染める、陽であった。温かな生き物を胸に抱く潁の頬にも蒼白の陽が落ちた。
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