夜

「そうだね。きみとぼくなら、目の色も髪の色も同じで、兄弟みたいだ」

　パウルは笑ってうなずきました。だってたしかに、彼とパウルはどこか懐かしく似ているのです。

　すると彼は、抱えていた片膝から顔を上げ、そろりと手を伸ばしてパウルの前髪に触れました。差し込まれた彼の指に、金の毛先がくるりと巻き付きます。

　彼は少し、眉をひそめました。口元からは笑みが消え、何だか怖い顔をしています。むしろ、泣きだしそうにも見えます。

　パウルは、そのまま彼の腕に抱き込まれました。

　彼の腕の中は、何故か降る雪にでも触れているようにひんやりと冷たく、少しでも力を入れたらふわりと壊れてしまいそうに、やわらかく感じられました。

　それでパウルは、暴れたりせずじっとしていたのです。

　冴え冴えと青い瞳が、まっすぐにパウルを映しています。彼の瞳の色はパウルにも似ているのですが、こうして間近から見上げると、深い湖をそのまま凍らせたように冷たく青く、絵本の雪の女王を思わせます。

　動かないパウルに、彼はそっとキスをしました。

　彼の唇はやはり雪のように冷たく、パウルの体温に触れてやわらかくとけます。

　そのまま彼が消えてしまいそうで、パウルは手を伸ばして彼の首につかまりました。襟足の髪が、くるりとパウルの指先に巻き付きます。彼は髪の先までひんやり冷たくて、パウルはいっそう不安になり、彼をぎゅっと抱きしめます。

　二人はふわりと崩れて、彼はパウルの上に重なりました。

　彼の体は羽のように軽く、ちっとも重くありません。触れるだけの冷たい唇は、冬の朝のお母さんのキスに似ていて、不思議といやではありません。

　唇の触れたところから、彼の冷たさとやわらかさがしみこんできます。ひんやりふわりとした不思議な感触は、何故かパウルの体を、だるく重く痺れさせました。

　そのまま二人は、彼の唇がパウルと同じくらいに冷たくなくなるまで、長い間キスをしていました。

　ようやく彼が離れて、目を開けると、青い青い瞳がじっと見下ろしています。

　その吸い込まれそうに深い青のせいでしょうか、パウルはくらくらとめまいを起こしていました。体がだるく、手足に力が入りません。

「おかしいな。急に眠くなったみたいだ。そろそろベッドで休んだほうがいいのかな」

　パウルは素直に言いましたが、自分で起きあがるだけの力はありません。

　彼は何も言わず身を起こすと、パウルの上半身も起こしてくれました。

「ねえ、きみは部屋へ帰るの？」

　パウルは彼の腕をつかんで訊ねます。

「今から廊下に出たら、消灯過ぎに出歩いたことが見回りの寮長先生に見つかってしまうよ。きみも朝までここにいればいい」

　パウルは提案しました。朝になれば、寮長先生は先に礼拝堂へ行きます。その隙に大急ぎで顔を洗って礼拝に行けば、夜に出歩いたことはばれません。

　けれど彼は、困ったように眉根を寄せて、それから長いこと黙り込んでしまいました。

「ぼくがいて、いいのか？　もう一人で立てもしないだろうに」

　やっと口を開いた彼は、何故かそんなことを言いました。

　パウルは首をかしげます。パウルが一人では立てないくらい眠くなっていることと、彼が寮長先生に叱られることは、別々のことなのに、何故彼は一緒に考えるのでしょう。

「うん、だからもうぼくは寝るけど。きみもここで眠っていけばいいよ」

　もう一度、パウルは言います。

　本当は、また一人になるのが怖かったのかもしれません。だって外は吹雪で、校庭の糸杉の影は、一人になったパウルに向かってまたその手を伸ばしてくるに違いありませんから。

　そんなパウルの気持ちを見透かしたように、彼は笑いました。

「ああ、風の音が怖いのか。一人で寝られないんだろ、子供だな」

　彼が笑ったので、パウルはほっとします。

「何だよ、きみだって子供じゃないか。そうだよ、いつもにぎやかな寮が空っぽで怖いよ。おばさんの子供が死んで、怖いんだ。ねえ、だから、きみがそばにいてよ」

　パウルは彼の腕をぎゅっとつかみました。あの恐ろしい夜の手がパウルをさらいにくるかもしれないのに、もう一人になるのはいやです。彼となら、安心して眠れるような気がします。

　彼はまた困ったような顔をして、それからくしゃりとパウルの髪を撫でました。

「……わかったよ。臆病で怖いもの知らずなパウル」

「え、なあに。それどういう意味？」

　パウルは聞き返しましたが、彼はさっさと立ち上がり、まだくらくらしているパウルを、ひょいと抱えあげてくれました。

　パウルときたら、さっきからまったく変なのです。そんなに眠いとも思わないのに、彼に抱き上げられても身動きできないくらい、体の力が抜けてしまっているのですから。

　彼はパウルを毛布でくるんでくれてから、暖炉の薪を寝かせました。そして少し弱くなった灯りの中で、制服を脱ぎ始めました。

　そういえば、彼は消灯後だというのに制服のままなのでした。

「ねえ、きみの寝間着は？」

　寮生は、頭からすとんとかぶる寝間着を毎晩支給されます。パウルも夕食の後に、寮長先生から寝間着を受け取って着ています。いつもならルームメイトの分をまとめて受け取るのですが、今日はパウル一人きりの分しかもらっていません。

「ぼくはいらない」

　彼は首を横に振って、あっというまに全部脱ぎ捨ててしまいました。

　彼の肌は雪のような半透明で、火に照らされる背中はオレンジに、窓から差し込む雪明かりにはほの白く光って見えます。冬でも陽差しを吸ったパウルの肌の色とはあまりにも違うので、パウルは珍しいきれいな生き物でも見るように目を細めます。

　そして裸になった彼は、するりとパウルのベッドにもぐり込んできました。

　びっくりして、パウルは聞きます。

「きみもここで寝るの？　隣のベッドを使ったらいいのに」

　寮の二段ベッドは狭いので、二人で一緒に眠るにはぴったりくっつかなければなりません。彼の白い肌は雪のかたまりのようで、あまりの冷たさにパウルはぎゅっと手足を縮めます。

　すると彼は、縮めたパウルの手や足をやんわり開いて、全身でぎゅっと抱きしめました。

「だっておまえは、風の音が怖いんだろう。校庭の糸杉の影が、夜の手が怖いんだろう。それでぼくにそばにいてくれと言うんだろう？」

　パウルの肩口に顔を埋めて、彼が耳のそばでささやきます。

　不思議なことに、触れた瞬間の彼は氷のように冷たかったのですが、こうして抱きしめられると、逆に温かく感じました。彼の冷たい体温がじわじわしみこんできて、パウルの方が冷たくなっていくせいかもしれません。

「臆病なパウル。でもじゃあ、夜が姿を変えて、窓ではなくドアから部屋に忍び込んでくるとは思わなかったのか？　おまえの命の火を奪うために。たとえば、ぼくみたいな子供の姿で来るとは思わなかったか？」

　パウルの耳に冷たい吐息を吹き込んで、彼が聞きました。

　突然彼は、何を言い出すのでしょう。白い手の彼が、よりにもよってあの黒い夜の手だなんて。パウルが夜の手におびえていたことは、話していないはずなのに。

　パウルは少し考えて、きっと彼も同じように風の音や糸杉の影が怖くて、ここに来たのだと思いつきました。

　そろりと彼の背に手を回すと、彼の巻いた襟足をやさしく指ですいて、パウルは答えます。

「そんなこと思わないよ。だってきみは怖くないから」

　彼は驚いたように、顔を上げました。じっとパウルを覗き込みます。

「だってきみは似ているんだ。さっきからずっと考えていたけど、やっとわかった。きみは似ているんだよ、お母さんがくれた絵本の白い天使に」

　そうなのです。

　お母さんが持たせてくれた、昼間に読みかけたまま眠ってしまったあの本の天使に、彼はそっくりなのです。青い青い瞳と、金色の巻き毛。彼の背中に翼は生えていませんが、ほんのり光を放つ白い肌は、絵本とまったく同じです。

「だからねえ、きみが絵本を抜け出してきた天使と言うなら、そうかもしれないと思うよ」

　彼はまた、パウルの肩口に顔を埋めました。彼は体重をすっかりパウルに預けてしまっても、本当に羽のように軽いのです。

「ねえ、名前を教えてくれないの？」

　パウルはもう一度、聞いてみました。冷たかった彼の体は、パウルの熱を吸ってさっきよりは温かくなっています。

「教えない。教えないから、おまえの好きに呼べばいい」

　何故かすねたように、彼は言いました。

「じゃあ、ミハエル」 　少しだけ考えて、パウルは彼の名前を決めてしまいました。 「きみに似ている絵本の天使ね、ミハエルっていうんだ。だからきみもミハエルがいい」

　それは偉大な天使の名前でしたが、彼にはぴったりだとパウルは思いました。

「それにね、お母さんは本当は男の子にはミハエルって名前をつけたかったんだって聞いたから。パウルは二番目。一番は、大事にとっておいたんだって」

　彼は、黙って聞いています。

「でもお母さんは体が弱くて、子供を産めなくなっちゃったから、もう使わないんだ。だから、きみにあげる」

　そのとき、パウルの首筋に冷たいものが流れました。首をひねると、肩口に埋めている彼の青い瞳が、冬の朝の溶けかかった氷のように光るのが見えました。

「どうしたの、泣いてるの？　きみも本当は夜が怖いの？　一人だったらぼくも怖いけど、きみがいるから怖くないよ。ミハエル、夜はぼくたちを連れては行かないよ」

　パウルはぎゅっと彼の体を抱きしめました。彼はずっと黙ったままなので、パウルの考えた名前を気に入ってくれたのかどうかわかりません。ただぎゅっとパウルを抱きしめるばかりです。

　彼の体は羽のように軽く、降ったばかりの粉雪のようにはかなくて、何故かいつまでもパウルより冷たいままなのでした。

◆

　きっと夢でも見たのだろうと言われて、それ以上は聞けませんでした。

　昨夜の雪はすっかりやんで、外はいい天気です。校庭の糸杉の枝に、雪の結晶がきらきら光っています。窓を開けて深呼吸すると、吐息も白く輝きます。

　こうして見ると、昨夜の吹雪がうそのようです。昨夜のことは、本当に夢だったのでしょうか。

　寮長先生に駅まで送ってもらい、パウルは列車を乗り継いで一人で家に帰りました。

　お父さんとお母さんは先に帰っていて、パウルをやさしいキスで迎えてくれました。

　お母さんはパウルを暖炉のそばに呼んで、天に召されたいとこの話をしてくれました。小さな小さな棺桶を埋めたお葬式には、羽のような雪がふわふわ降り注いだそうです。きっと小さないとこを迎えに来た天使の羽だったのでしょう。

　それからお母さんは、パウルのお兄さんの話をしてくれました。かわいそうないとこと同じように、おなかから生まれたときには亡くなっていたそうです。

　それは、パウルが初めて聞く話でした。

　パウルには、生まれなかったお兄さんがいたのです。きっとパウルと同じ、金の髪に青い目をしていたのでしょう。

　それきりお母さんは口をつぐみ、お祈りをはじめました。お父さんもパウルも目を閉じて、一緒にお祈りします。

　暖炉の灯りに照らされて、パウルのまぶたの裏には、小さないとこの手を引いて、天への階段をのぼっていく彼の姿が浮かびます。金の髪と、日焼けしていない白い肌、青い青い瞳。黒い制服の背中には白い羽根が生えています。彼の羽根はふんわり白い光を放ち、小さな小さないとこも、同じまぶしい光に包まれています。

　パウルは一緒には行けませんでしたが、せめて贈った名前を、彼が受け取ってくれていますように、と祈りました。

Fin.