※この作品は18禁です！

※この小説は舞台「サ・ビ・タ〜雨が運んだ愛〜」をもとにしていますが、本物とは一切関係在りません。もちろん演じる役者さんともまったく関係ありませんので、ご了承ください。っつか本当に相当ヤバイので、関係者にはくれぐれもご内密にお願いします＜(_　_)＞

※舞台の後日談になりますので、予備知識として偏ったネタヴァレあらすじを載せておきます。
　ここから反転→ある雨の日に、七年ぶりに再会した兄弟。両親亡き後、妹二人と弟を育てた兄のドンウクは、結婚もしないまま四十の誕生日を迎えた。自分たちのために人生を棒に振った兄に負い目を感じ、家出していた末っ子の弟・ドンヒョン。そこへ、パーティー会社のユ・ミリが家を間違えて乱入する。誕生パーティーの最中、ドンウクは末梢神経が麻痺する病に、ドンヒョンは事故で手の神経を損傷していたことがわかり、激しくぶつかりあう。「本当は心の底からお互いを必要としているくせに！」ユ・ミリの仲裁後、二人は思うように動かない手でピアノを連弾し、気持ちを通わせる。←反転ここまで。

　数ヶ月ぶりに家に帰ると、アニキは台所で白菜のキムチをつけていた。外はまた、雨だった。

「チョン・ドンヒョン！　よく帰ってきてくれたなあ！」

　のれんの向こうから笑いかけて、アニキは小走りに飛び出してきた。

「お前またずぶ濡れじゃないか。連絡くれれば、傘持って港まで迎えに行ったのに」

　チョコチョコ寄って来て、間近から顔を覗き込む。

「平気だって。時化の波に比べたら、雨なんて濡れる内に入らない。うっわ、その手で触んなって、アニキ！」

　キムチの漬け汁だらけの手を振り払って、俺は怒鳴る。アニキは苦笑いしながら、何枚もティッシュを取って手を拭いた。

　アニキと顔を合わせると、いつもこうだ。数ヶ月前のアニキの誕生日、俺たちは七年ぶりの再会をして、人生で一番デカイ兄弟ゲンカをして、ピアノを弾いて和解した。

　それでもやっぱり、お互いの性格は何も変わらない。俺はアニキの顔を見るとイライラして突っかかって、にもかかわらずアニキは笑っていて、俺は余計にイライラする。

「シャワー使うか、せめて服を着替えて来い。今日はちゃんと乾いた服があるから」

　アニキが奥から服を持ってきて手渡す。用心深く広げて見ると、ちゃんと男物のシャツとズボンだ。胸元のテディベアのアップリケに反射的にイラッと来たが、俺は呑み込んで風呂場に行った。アニキの服の趣味の悪さは天性のものだ。

「メシ、食うだろ？　ビールも飲むか？」

　風呂の外から、アニキが話しかけてくる。一カ所に止まらずチョコチョコ動き回っていて、声が近くなったり遠くなったりする。

「うん」

　適当に返事をしながら、妙な気分になる。父さんと母さんが死んでからのアニキは親代わりだったけど、これじゃまるで女房代わりだ。俺はアニキに、そんなことをして欲しいわけじゃないのに。

　久しぶりの家のシャワーは、昔に比べてパッキンがゆるくなったのか、うまく加減できずに水が出なかったり出過ぎたりする。

　まるでアニキみたいだと俺はイライラした。

◆

「ドンヒョン。味はどうだ？　子供たちに食べさせようと、ちょっと甘めにしてあるんだ」

　アニキはエプロンをつけたままで、席に着いてからもしょっちゅう立ったり座ったりしている。ナムルを出し忘れたとか、とっておきのハーブ・ソルトがあったんだとか。死んだ母さんだって、食事中こんなに忙しなくはなかった。

「子供たち？　どこの」

　味のことは答えずに、俺はアニキに切り返す。アニキの料理は俺にはうまいに決まっているから、いちいち聞く意味がない。

「俺のピアノ教室だよ。近所の子供たちが来てくれるんだ。上は十歳から、下は三歳児まで。すっごく可愛いぞお」

「へえ、ピアノ教室なんてやってんの。子供相手なら、その手でも金とれんのか」

　アニキは末梢神経が麻痺する難病のために、中学の音楽教師を辞職した。しばらくは貯蓄と失業保険で食っていけるだろうが、どうやって生計を立てるのかと心配していた。今回も、俺は少しばかり生活費を渡しに来たんだ。

　でもアニキは、笑って首を横に振った。

「お金なんかもらわないよ。ピアノは子供たちが交代で弾いてくれるし、みんな楽しそうに歌って踊ってる。俺は週に一回、この家とピアノを提供するだけだ」

　うれしそうにアニキが言う。

「はああ？　それじゃただの無料託児所じゃないか。アニキはいま収入がないんだろ？　それを、こんな料理まで作って食わせるって……！」

「いいんだよ、ドンヒョン」

　怒鳴りかけた俺を、アニキが穏やかに制止する。

「早朝のビル清掃の仕事を始めたから、俺一人の生活くらい大丈夫だ」

　いつのまに、仕事を始めていたのだろう。ビル清掃なんて、前職とも音楽とも何の関連もないし、アニキの年代の男性が就く仕事じゃない。それでもアニキは、そうして生活している。兄弟の中で一番堅実で、人生は当たり前の日常の積み重ねだと、知っているから。

「それに」

　穏やかな表情のまま、アニキは付け足す。

「子供たちが俺のかわりにこのピアノを弾いてくれるのが、すごくうれしいんだ。見所のある子はちゃんとした音楽教師に紹介するし、子供たちの楽しそうな姿を見るのが、今の俺には何よりの幸せだ」

　アニキは幸福そうに笑っている。悲しい笑顔なんかじゃない。心の底からうれしそうな表情だ。

◆

　アニキはとにかく辛抱強い教師で、繰り返しの反復練習をいやがる俺をなだめすかしてピアノの前に座らせ、うまく弾ければ手放しでほめた。すぐに俺はピアノが大好きになった。

　ピアノは生き物じゃないが、俺の心が楽しいときには陽気に歌い、俺の心が悲しいときにはやわらかくやさしく響く。まるで気の合う相棒だ。

　そしてアニキにとっても、ピアノは相棒のようだった。四人兄弟の一番上で、弟妹優先でいつも自分の感情を抑えていたアニキが、ピアノにだけは豊かな感情を見せた。アニキのやさしさ、繊細さ、激しさ、強さ、そして未来への希望。全部が鍵盤を伝って、張りつめた弦を鳴り響かせた。

　ピアノを弾く俺だけが、その音色から、アニキが胸に秘める心の声を聞きわけた。俺がピアノを弾けば、アニキも伝わる。二人で弾けば、言葉で語るよりずっと深く強く二人の心がつながった。

　高校生のとき、アニキに教えてもらったピアノという存在を曲にして、俺はコンクールで一等を取った。アニキは俺の入賞を誰よりも喜んでくれて、俺がピアニストになるためのシミュレーションを始めた。音大のピアノ専攻、有名な先生に師事、数々のコンクール。

　ピアニストは本当は、アニキの夢だった。

　でも俺が十四の時に両親が死んで、アニキはその夢をあっさりあきらめた。安定した収入を得られる音楽教師になり、家ではピアノを弾く暇もなく、朝から晩まで家事に追われた。

　普通なら、兄弟四人でもっと家事を分担してもよかったんだと思う。でもアニキは、自分一人で父さんと母さんの二人分の穴を埋めようとした。姉さんたちも俺も、そんなアニキに甘えた。

　だってアニキは、いつも笑っていたから。ピアニストになる夢も、恋人のことも、俺たちには何も言わず、ただあきらめて笑っていた。

　俺がその事実に気付いたのは、学校にチョ先生が尋ねてきたときだ。

　チョン・ドンウクを愛している。結婚したい。弟の俺から、アニキを説得して欲しい。アニキに似合いの真面目そうなチョ先生は、心の底から真剣に俺にそう言った。

　アニキに庇護されるばかりだった子供の俺は、ただ、戸惑った。

　戸惑って、結局アニキには何も言わなかった。アニキから見れば、俺はほんの子供だった。言ったところで、聞かなかったと思う。

　思えば、あれがアニキの人生の最後の選択肢だった。自分自身の人生とチョ先生を取るか、弟の俺を取るか。姉貴たちは就職していたし、俺ももう進路は決まっていたから、一人でも充分に生きていける。捨てられる覚悟はできていた。

　それでも俺が、アニキにチョ先生のことを黙っていたのは事実だ。たぶん心の底では、チョ先生にアニキを取られるのが怖かったから。

　そしてアニキは、チョ先生を捨てて、俺を取った。

　あの選択が正しかったとは、あのときも今も思えない。でも俺には、あのときアニキにぶつかる自信がなかった。俺なんか捨てて、自分の人生を生きろと言える、強さがなかった。

　俺のピアノをほめて、俺の弱さもずるさも臆病さも全部受け入れて守ってくれる、アニキの庇護を失うのが怖かった。臆病な子供だった。

　だから俺は、家を出た。

　強くなりたくて、軍隊に飛び込んだ。軍に入って、むやみに体を鍛えた。

　アニキはしょっちゅう面会に来ては、手料理を差し入れてくれた。俺はなるべく会わないように、会ってもわざと素っ気なくした。

　いつか面会に、チョ先生を連れてくるんじゃないかと、俺は心の底で願い、同時に怖れてもいたが、結局そんなことはなかった。

　兵役の期限が近づいても、アニキは変わらない。家に帰ったら、またアニキのやさしさに飲み込まれるのかと思うと、何も変わらないのかと思うと、俺は無性に怖くなった。

　怖くなって、俺は今度は海に逃げた。

　船に乗って、故郷を遠く離れる。昼は魚の群を追い、波と戦い、潮にまみれた。

　それでも毎晩海を見ながら、考えるのはアニキのことだった。世界中のどの港についても、そこにアニキが待っている気がした。

　手紙は、年に一度だけ書くことにした。アニキがこの世に生まれた日。チョン・ドンウクという人間の存在を心から祝う日。一年に一度だけはアニキのことをいっぱいに考えてもいい。それだけなら、アニキの人生の妨げにはならない。アニキの宛名を書くだけで、俺は一年分満たされた。

　家を離れていた間、俺が願っていたのは、ただアニキの幸せだけだった。

◆

　ちょっと上目遣いに、アニキが俺を見上げてくる。俺がアニキの身長を追い越してから、ときどきアニキがやるようになった俺のご機嫌をとる表情だ。

「発表会？　何の」

　弟に頼み事をするのに、そんな顔をすることもないのにと、俺はちょっとイラッとする。

「お前、ひとの話全然聞いてないのな。さっきから話してる、子供たちのピアノの発表会だよ。ホールなんか借りられないから、うちを飾り付けて順番にピアノ弾いて、ちょっとしたパーティーをやるだけだけどな」

　つまりさっきの料理も、子供たちのパーティー用の試作品だったというわけらしい。本当にアニキはバカがつくほどのお人好しだ。

「そのお子様のパーティーに出て、俺は何をするんだよ」

　俺が聞くと、アニキは照れたように笑った。

「俺も弾くんだよ、ピアノ。お前の作った曲。だから、もし出られるなら、お前も一緒にさ」

「はあ？　何で俺が」

　いったい何を言いだすんだか。俺が即座に眉をつり上げると、アニキは慌てて話題を逸らした。

「あ、そうだ！　パーティーだから、ユ・ミリも呼んだよ。彼女、パーティーを盛り上げるののプロだからな」

「ユ・ミリ？　彼女、今どうしてるんだ」

　懐かしい名前に、俺は思わず反応する。俺とアニキの生涯最大の兄弟ゲンカに居合わせた、相当にヘンでマヌケな女の子。でもすごく可愛くて、彼女なりに一生懸命に生きている。

「イベント会社に派遣登録して頑張ってるって。でも相変わらず住所を探すのは苦手みたいで、ときどきうちに迷い込んでくるよ」

　目を細めてアニキが笑う。まるで子供の成長を見守る親の顔だ。結婚もしていないのに、俺の記憶のアニキは八割方こんな表情をしている。俺の、親代わりだったから。

「チョ先生は？」

　思いついたまま、俺は口にした。

「チョ先生は呼ばないの？」

　瞬間アニキは赤面して、二回瞬きし、それから目をそらした。

「よ、呼んでないよ。彼女には学校がある。この頃の教師ってのはすっごく忙しいんだ」

　目線を泳がせて、アニキは明らかに動揺している。不意にチョ先生のことを言われたからじゃない。実際にチョ先生を呼びたいと思ったことがあったからだ。

「いくら忙しくても、ちょっと顔を出すくらいできるよ。アニキだって学校に勤めながら、俺たちの誕生日パーティーをやってくれたじゃないか」

　アニキは昔、どんなに忙しくても、俺や姉さんたちの誕生パーティーだけは必ずやってくれた。贅沢はできなかったけど、手作りの料理で、ケーキにはちゃんと年の数だけロウソクを立てて。

　アニキこそ、パーティーの盛り上げは得意なんだ。それが他人のためのパーティーなら。

　でもたまには、アニキのためのパーティーをやってもいいじゃないか。音楽好きな子供たちと、ユ・ミリと、それから。

「チョ先生も呼べばいいじゃないか。あの人も音楽が好きなんだろ？　二人でよくコンサートに行ったりしてた。きっと喜ぶよ」

「な、何を言ってる、ドンヒョン。チョ先生は、ただの学校の同僚で……」

　しどろもどろとアニキが何か言いかける。アニキと来たら、言い訳も不器用なんだ。

「何なら俺が電話してやるよ。学校の連絡網はこれか？」

　俺が受話器を手に取ると、アニキはぶつかるように取り上げた。

「ダメだ！　彼女には、彼女の人生がある！」

　珍しく険しいアニキの顔。でも俺はもう、怖くなんかない。

「何でチョ先生の人生に、アニキがそばにいないと決めつけるんだ？　アニキはいつだってそうだ。ひとの人生を勝手に決めつける。これが幸せだと押しつける。本当のことは何もわかってないくせに！」

「お前にチョ先生の何がわかる、ドンヒョン！」

　アニキが声を荒らげる。それでも俺はひるまない。

「ああ、俺にはわからないよ！　でも俺なら、彼女の気持ちを聞かずに決めつけて、結婚を断ったりしない！」

　アニキの表情が、怒りから悲しみに変わる。湾曲した唇を噛み、俺を睨みつけていた目が泣きそうにうるむ。

「俺は、誰よりも彼女のことを考えて……！」

　涙を押さえるように、アニキが両手で目を覆った。

　俺が子供の頃には大きく見えたアニキだが、いま目の前で嗚咽をこらえる四十男は、ひどく小柄に見える。若々しかった頬にはシワが刻まれ、髪には白いものが混ざり始めている。腹が出てきた割に肩幅は華奢で、年齢よりもずっと疲れ切って見えた。

　目元を覆う指先は、末梢神経が麻痺して細かく震えている。子供だった俺に服を着せ、食事を作り、ピアノを教えてくれたアニキのきれいな指。今はもう、あの頃にように自由にピアノを弾くことはできない。抑えたアニキの感情を受け止めるはずの鍵盤に触れることさえもどかしい。

　過ぎた時間はもう、アニキには戻らない。戻せない。

　そう思うと、ぞっとした。

　あのときチョ先生のことを黙っていたことを、俺は死ぬほど後悔した。

　後悔しながら、安堵もしていた。これでアニキは俺のものだ。そう思った自分が死ぬほどいやだった。チョ先生とピアノをアニキから奪ったのは、俺の罪なのに。

「……アニキ」

　俺は、ふるえるアニキの手首をつかんだ。男にしては、細い手首。俺の手ですっぽりと握り込める。

「みんな、アニキを愛しているんだよ。そんな簡単なことが、何でアニキにはわからない？」

　間近からアニキの顔を覗き込んで、俺は囁く。アニキの目が、驚いたように俺を見る。

　何か言いかけたアニキの唇を、俺は自分の唇でふさいだ。

◆

　俺のほうは、多少は場数を踏んでいる。

　世界中の港の娼婦で覚えた俺のキスに、アニキは抵抗さえできず、膝から崩れた。俺に抱きすくめられ、ソファに押し込まれて、怯えた子供みたいにただふるえた。

　キスしながら下半身をまさぐると、逃げようとして、余計に俺の腕の輪から抜け出せなくなる。容赦せずに、俺はアニキを押さえつけて、責め立てた。恐らく他人に触れさせたことのない、アニキ自身を。

　これはアニキへの罰。そして俺への罰。もう戻すことはできない、失われた時間を悼む儀式。

　窓を伝う雨音に紛れて、俺は小声でアニキを呼び続ける。海の上では、声に出して呼ぶ機会はない。胸に秘め、ハガキに綴った想いを込めて、俺はアニキを呼ぶ。

「ダメ、だ……ドン、ヒョン」

　意識が飛びかけているくせに、アニキの理性だけは頑固に残っているらしい。

　切れ切れの拒絶を、口の中に指を入れることで封じる。アニキの熱い舌と、エナメル質の歯の硬さが、神経の切れた俺の指に触れて逡巡する。

「海ではこんなの特別なことじゃない。ちょっとしたストレス解消さ。船に女はいないからな」

　見え透いた嘘をつく。俺が他の船員とこんなことをするわけがない。俺は一人で、いつもアニキのことを考えていたんだから。

　今はそのアニキが、現実に俺の腕の中にいるだけだ。

「……なあ、アニキ」

　呼んでもアニキは答えられない。口の中にある、俺の指を噛まないように。

「感じてるなら、気持ちいいって言えよ」

　何も言えないとわかっていて、俺は右手でアニキの温かい口の中を、左手でアニキ自身を責める。首を横に振りながら、アニキは口を閉じられず、舌と先端からの滴りで、俺の指を雨のように濡らした。

「『痛い』でもいい。アニキの声、聞かせてよ」

　充分に濡れた指を引き抜いて、俺はアニキの内部を探る。誰にも触れられたことのない、アニキが内側に押し込めている、やさしさ、繊細さ、激しさ、強さ、そして未来への希望を、全部引きずり出そうとする。

　アニキは抵抗し、もがいたが、それでも声は出さない。苦しげに息を弾ませながら、嗚咽をこらえ、悲鳴を呑み込んでいる。

　何でアニキはこんなに頑固なんだ。何でアニキはこんなに声を殺す。何でアニキは、俺に全部を見せてくれない。

　焦燥が、俺を苛立たせる。伝わらないもどかしさが、俺を駆り立てる。

「……声、聞かせてよ、アニキ」

　闇雲に、俺はアニキを抱いた。

　激しくなる雨音に紛れて、アニキはこらえきれず嗚咽だけを漏らした。

◆

　天気予報では、朝まで降ると言っていた。朝になれば、この雨は上がるのだろうか。

「……ドンヒョン。お前、いつまで船に乗るんだ」

　ソファに座った俺の腕の中で、アニキがぽつりと呟く。

「さあな。今は他にやりたい仕事がないし」

　目をそらしながら、俺は迷っている。船乗りなんて、何歳までもできる仕事じゃない。中にはベテランの漁師もいるが、俺は腕力要員の水夫だ。体力的には、そろそろ限界に来ている。

「お前はまだ若い。本気で探せば何だってできる。陸に帰って来いよ」

　いつものアニキの小言だが、俺はすぐには言い返せない。

　アニキの年齢で末梢神経が麻痺する病気を抱えて、ビル清掃の仕事にありつくには、相当の苦労があっただろう。この仕事を選択するまで、挫折を味わい、プライドを傷つけられることもあっただろう。それでもアニキは、明日に続く日常を一つ一つ積み重ねて、未来の幸せをあきらめない人なんだ。

　アニキの言葉の重みが、今の俺には少しわかる。

「……アニキが」

　俺は後ろからアニキを抱きしめて、こめかみにキスした。

「アニキが結婚したら、考えるよ」

　俺が言うと、アニキはドジョウみたいに首をひねって振り向いた。

「ドンヒョン、何でそこで俺の結婚が出て来るんだ。確率的にものすごく低いだろ、それ！」

　ニョロリと腕から抜け出しそうになるアニキをつかまえて、耳元に息を吹き込む。アニキは昔から、耳が弱い。

「やめろ、ドンヒョン！　くすぐったい！」

　ジタバタ暴れるのを、抱え込んで揺さぶる。

「俺が船を下りる確率も、アニキが結婚する確率も、同じくらい。そう低くはないさ。そうだろ、アニキ？」

「あのな！　いい加減にはなせ、ドンヒョン！」

　口では言っているが、アニキは本気で抜け出そうとはしていない。アニキは昔から、末っ子の俺にはとことん甘いんだ。

「アニキ。ピアノの発表会、俺も出てやるよ」

　気まぐれに俺が言うと、アニキはぱっと表情を輝かせた。

「本当か、ドンヒョン！」

　たまには俺だって、アニキを甘やかしてやる。こんな簡単なことで喜ぶんだから、アニキはお手軽だ。

「木曜にはまた出航して、俺は半年帰らない。だから次に帰ってきたときには、アニキの番だぜ？」

　俺のウィンクに、アニキが困ったように眉根を寄せる。

「俺の番って、何がだ、ドンヒョン」

「話の流れでわかるだろ、アニキ」

　本当は、わかっているくせに。

　俺も、姉さんたちも、チョ先生も、みんなアニキを愛してる。みんなアニキの幸せを願っている。当たり前に降る雨のように、俺たちはずっとずっとアニキを愛しているのに。

　そんな簡単なことを、アニキが思い知るように。そして今度こそ、アニキ自身の幸せに向かい合えるように。

　願いを込めて、俺はアニキに思い切りディープなキスをした。

Ｆｉｎ．