はるか古代より続く、よりまし巫女の家系。橘の巫女はたった一人、山頂の神社に棲むという。

　巫女のもとには、月に一度、村から選ばれた男が通う。やがて巫女は娘を産み、娘を十二になるまで育てると、役目を終えて人里へ下る。娘は新しい巫女となり、村の者たちのために祈祷し、神託を下す。

「へえ、なかなかロマンティックだな。たった一人で男を待つ、聖なる神の巫女か」

　俺が感想を呟くと、最長老の婆様はしわくちゃの顔をギュッとすぼめて、俺を睨んだ。

「橘の巫女は神聖不可侵！　邪な懸想をしてはならぬぞえ」

　婆様には日本語しかわからないはずだが、どうして叱られるんだろうか。

「ちゃんと翻訳しますから、ミスタは鼻の下を引き締めて、黙っててくだサイ」

　サンディーにも睨まれて、俺は小さく肩をすくめる。

　たとえ珍妙な伝説だとしても、ここはそういう文化を受け継いできた土地なのだ。

　一口に日本と言ってもここは、空港に降り立ってから、列車を何時間も乗り継ぎ、さらに車でたどり着いた最果ての地だ。人の数よりミカンの木が多く、現実の働き口より伝説の数が多い。

　未開ではないが、時の流れに忘れ去られた、そういう土地なのだ。

「ただし数百年も昔のことで、今はもう、巫女などおらぬ。口伝によると、最後の巫女に後継ぎの娘が産まれず、途絶えたそうじゃ」

　何だ。現実の生きた女がいないのでは、俺には意味がない。

　あからさまに興味を失った俺がそっぽを向くと、婆様は曲がりくねった人差し指で、チョイチョイと差し招いた。

「じゃがこの頃、奇怪なことに、無人のはずの神社に夜かがり火が灯る」

　だんだん、話がホラーめいてくる。いったい、この老婦人は物語をどこへ着地させるつもりなのか。

　俺たちは、滞在中に世話になる村長の家の、最長老の婆様に挨拶しに来ただけだ。五分でお暇するはずが、もう小一時間も婆様の昔話を聞かされている。

　俺たちは、婆様の話し相手に来たわけではなく、行方不明のアカシを探しに来たはずなんだが。

「神社に誰かいて、かがり火を焚いているのですかネ？」

　サンディーが婆様に問いかける。

　彼女は科学者のくせに、祖母が霊媒師という血筋のせいか、こういう話には食いつきがいい。

「神社へは、山の洞窟を抜けねばたどり着けぬ。洞窟は複雑な迷路で、村でも限られた者しか道を知らぬし、道を知る者は巫女の禁忌を知っておる。誰もあんなところへ行くはずがない」

　婆様が重々しく首を横に振る。

「じゃ、いったい誰が？　おばあちゃん」

　サンディーが相槌を打つ。年寄りの話を聞くときのコツは、とにかく真摯に聞く素振りをすることだ。実際に聞いているかどうかは別にしても。

　婆様があと五十年若ければ、俺も頑張ったかもしれないのだが、さすがに形状が人外に進化し過ぎている。いったい何年生きれば、人間はこんなにしぼむんだろうか。

「わからぬ。誰もいないはずの神社に、かがり火。あやかしの仕業か、或いは、巫女様が復活なされたか」

　サンディーの反応に気をよくしたのか、婆様がまずます芝居がかる。しわの中で目玉をむき、曲がりくねった指がふるえわななく。

　障子越しに差し込む西日が黒と赤の陰影を作り、いくらなんでも怖すぎるだろ。っつか、いつまで続くんだ、コレ？

「で、誰か神社を見に行ったのかよ？」

　終わりの見えない問答にじれて、ついまた俺は口を挟む。

　途端に、婆様は白髪を振り乱してキシャーッと叫んだ。俺に飛び掛かり、胸倉をつかんで揺さぶる。

　だから、何でこの婆様は、言葉が通じないはずの俺の呟きがわかるんだっつの！

「この罰当たりが、神社には決して近づいてはならぬぞえ！　神社に行けるのは、新月の晩、選ばれた男だけと決まっておる！」

　やべえ。アップで見ると、真面目にホラームービーだぜ。プレイボーイのプライドにかけて、少々年齢オーバーながらもレディに対して悲鳴こそ飲み込んだが、確実に腰は抜けた。

「だだだ、ダイジョブですヨ、お婆ちゃん。神社へは道がわからなければ行けないのでショ？　私たちは、ドクター・アカシを探しに来ただけですから」

　サンディーが婆様をなだめ、後ろから引き剥がしてくれた。

　飛行機の中ではアカシの身を案じて泣いていたサンディーだが、今ではすっかり落ち着いて、頼もしい限りだ。

　たぶんアカシは無事だ、というカーマイン様の言葉を信じたのかどうか。根拠や理屈がなくても、俺の目を見ただけで信じてくれるのはいい女の証拠だ。

　ちなみに俺自身は、サンディーを慰めるために言った自分の言葉を、まるきり信じたわけじゃない。単に、今アカシに起きている事態について、実感がわかないだけだ。

　行方不明とか、落石事故に巻き込まれたとか、アイツに限って考えられない。いざというときの危機回避能力や生命力は桁外れに強いヤツだ。正直、俺なんかお呼びじゃないだろう。

　むしろ、プレイボーイ探偵の俺様のピンチを助けに来るのが、アイツの役回りだろうに。

　だからまあ、俺も呑気に婆様の話なんか聞いていられるわけだが。

　なだめられた婆様は肩で息をつきながら、まだ俺を睨みつけている。

「先日、よそ者があの山へ分け入り、神隠しにあったばかりじゃ」

　つまり、アカシのことだろう。

「よいな、よそ者よ。決して山頂の神社に近づいてはならぬぞ」

　上座の座布団の上から婆様はそう言い放ち、それきり置物のように黙り込んだ。

　挨拶は済んだ、ということだろうか。

「じゃ、お婆ちゃん、しばらくお世話になりますネ」

　サンディーが丁重に合掌して挨拶する。

　腰の抜けたままの俺はサンディーに引きずられ、どうにか婆様の部屋を辞した。

◆

　と言っても、俺は探偵だ。しらみつぶしに山狩りをする捜索隊に加わったわけではなく、己の推理によって動く単独の遊軍である。

「ミスタ、みなさんと一緒に行かないのですか？」

　途中で道を外れた俺に、サンディーが着いて来る。

「あいにく、俺はレディと約束してるんでね」

　ウィンクして見せると、サンディーは頭頂部に結った縮れ髪を逆立てて怒った。

「それ、どういうことですか！　早くドクターを探さないと、ご無事かどうかもわからないんですヨ……！」

　珍しく大声を出してから、急にションボリと涙ぐむ。

「あー、悪かったよ、サンディー。ちゃんとアカシを探しに行くんだって」

　ポンポンと頭をなでてなだめる。昨夜は婆様相手に頼もしかったが、やっぱりティーンの女の子だ。

「落ち着いて考えてみろよ、サンディー。アカシが落石事故なんかに大人しく巻き込まれるタマか？　岩が落っこちて来ても、ジャンプして避けるだろ、アイツなら」

「そんな、ドクターはゲームのキャラクターじゃないんですヨ！」

　おどけて肩をすくめる俺の仕草に、サンディーが少し表情をゆるめる。

「アイツがトラブルに巻き込まれる場合、天災より人災のほうが確率が高いんだよ、過去の経験上」

　ちなみに過去にアイツが経験した人災というのは、つまり俺関係が多いわけだが。

「そこに、昨夜の婆様の話だろ。一方でいなくなった人間＝アカシがいて、もう一方で無人だったはずの神社にかがり火。こりゃあ何か関連があるに決まってるだろ」

　俺の説明に納得しかけてから、サンディーがまた首を横に振る。

「でも、かがり火を見たのはおばあちゃんだけで、村の人たちは、夕日の反射が火のように見えることがあるって言ってますヨ」

　言い張るサンディーの目の前に人差し指を立てて、チチチと否定する。

「だーから、調べに行くんだろ。確率の高い一つに固執するんじゃなくて、すべての可能性を一つ一つ潰していくのが探偵の調査だぜ」

　やっとサンディーが黙り込む。我ながら、格好いいぜ。

　まあ実際には、巫女様とやらがいるんなら見に行きたい、という好奇心がないわけでもないんだが。

　と、なまりのあるイントネーションで名前を呼ばれた。

「カーマインさ、お待たせしましたですだ」

　山道を息せき切って登って来るのは、俺たちが世話になっている村長の家のお嫁さんだ。

　名前はミズ・コナツ。まとめた黒髪を手ぬぐいですっぽりと覆い、ラフな服装の上から割烹着。年の頃は四十手前といったところだが、この村では若いほうだ。

「ああ、レディ、走らずとも結構ですよ。お忙しいところ、道案内をお引き受けくださってありがとうございます」

　俺はミズ・コナツを出迎えると、分厚い手の甲にキスをした。途端に、ミズ・コナツの日焼けした丸い頬が、みるみる赤く染まる。

　おっと、この国ではレディの手にキスをする挨拶の習慣はないんだったか。

「すみません、つい美しい方への習慣で失礼を」

　爽やかな微笑で詫びると、サンディーが俺を横目で睨んでから何やら翻訳する。

　ミズ・コナツは片言で話すことはできるが、ヒヤリングが苦手だと言っていたっけ。俺の甘い言葉がダイレクトに伝わらないとはやりにくいぜ。

「ミスタ、コナツさんは洞窟の入口までは案内できるけれど、その先はわからないそうですヨ」

「ええ、わかっています。洞窟の入口まで、連れて行ってください」

　エスコートのつもりで手を差し伸べると、ミズ・コナツは手を出すかわりに、山歩き用の杖を握らせた。

「キツイ山道ですだが、しっかり着いてきてくださいよ」

　サンディーにも杖を渡し、先に立って、どんどん歩き出す。何というか、男前な女性である。これで人妻というのがまたいい。

「何だか、いい香りがしますネ」

　ミズ・コナツの逞しい背中を追って登る山道は、濃い緑に包まれている。むせるような青い匂いを、時折ふと清涼な風が横切る。

「ああ、ミカンの香りですだ。この村では、一年中種類の違うミカンが実をつけますで」

　ミズ・コナツが得意げに、まだ青い実をつけた木々を指さす。

「あすこのタチバナは、冬でも緑の葉を失わない特別な木。実は酸っぱくて食べられませんが、村ではこうして虫除けのお守りにしますだ」

　見れば、ミズ・コナツはまだ青いミカンを糸に通して首にかけている。爽やかな芳香は、そこから漂っていたらしい。

　しゃべりながら、ミズ・コナツは歩を緩めない。そうして三十分ほど歩いた頃、緑の景色に補色が飛び込んできた。

　山の一角を区切って、木を組んだ簡素なゲート。朱色に塗られた枠組みの内側には、黒い洞窟がぽっかりと口を開けている。

「カーマインさ、あれですだ。あの朱い門が、鳥居といって、神様の敷地への入口ですだ」

　なるほど、わかりやすい結界だ。

「上に何か絵が描いてありますヨ。何ですかネ？」

　サンディーが指さす鳥居の上部中央に、板切れが取り付けられている。褪せた朱色で描かれているのは、右巻きの渦のようなもの。

「橘の実の皮を剥いた図で、橘の巫女の家紋ですだ」

　ミズ・コナツが胸の青いミカンを示して説明する。

　これがミカンとは、随分思い切ったデフォルメをするものだ。しかも実ではなく皮をモチーフにするとは、橘の巫女というのはちょいと変わった発想の持ち主らしい。

「あのう、カーマインさ。本当に洞窟に入りますだか？」

　不安げに、ミズ・コナツが立ちすくむ。この村の人間だけに、よそ者より強く神社の禁忌を感じるのだろう。

「大丈夫。ちょっと様子を見るだけですよ。何なら、私とサンディーだけで行って来ます」

　ミズ・コナツは洞窟の中の道を知らない。もともと連れて行く気はなかった。

「でも」

「安心してください。あなたが案内してくださったことは、我々だけの秘密ですから」

　まだ何か言いかけるミズ・コナツの唇を人差し指で封じて、俺はさっさと洞窟に入る。結界の中に入ってしまえば、彼女は追って来られない。

　サンディーが数秒逡巡して、俺の後を追って来る。

◆

　洞窟は、思いのほか明るかった。

　天井に一定間隔で穴が開いていて、そこから光が差し込んでくる。通気孔か、明かり取りか、いずれにしても人が開けた穴だ。

　巫女の伝説も途絶え、今は誰も使っていないはずの洞窟だが、かつては何かの用途に使われていたのだろうか。

「分岐点か……とりあえずは直進するか、サンディー」

　持ってきたチョークで目印の岩に日付と時刻を書き込み、俺たちは奥に進む。洞窟は緩い上り坂で、どうも山を登っているようだ。

　明るく視界が利くせいか、見知らぬ洞窟に踏み込んでいるのだという危機感は薄い。

「ミスタ、あっちのほう明るいですヨ！」

　サンディーの示す先には、光がスポットライトのように落ちている。天井に穴が開いているのだ。

　近づけば、行き止まりの壁が傾斜し、足場になりそうな岩が露出している。

「こりゃあ、登れってことだろな。ちょっと覗いて来るから、サンディーはそこにいろ」

　岩に取り付いて、足をかける。表面がコケに覆われてはいるが、これも明らかに人が細工した足場だ。難なくよじ登ることができ、頭が地上に出た。そのまま、穴の外に這い出す。

「ミスタ、大丈夫ですか？」

　足元から、サンディーの声がする。

「心配ない。この穴、人工的に掘られたものだぜ」

　もとは自然の洞窟かもしれないが、至る所に人の手が加えられているのは確かだ。少なくともコケが生える以前には人が使っていたはずで、今でも人が出入りしやすい条件があるということだ。

　見下ろせば、ふもとのほうにミズ・コナツの姿が見える。洞窟の入り口から、まだ五十メートルも離れていない。ミズ・コナツは、困ったように、俺を見上げている。巻き込んで申し訳ないが、あとで丁重にお礼をしよう。

　そして山頂を見上げれば。

「おっと、これは」

　山の頂に、神社が見える。神社は険しく切り立った断崖にそびえ、そこへ至る山道は見当たらない。巫女様のもとにたどり着くには、洞窟のダンジョンをクリアするしかないのだろう。

「フン、巫女様には容易には近づけないってことか」

　巫女様とやらがもしも神社にいるとすれば、村を見下ろし、無礼な侵入者の俺を嘲っているのだろう。

　この神社の立地といい、家紋のミカンの皮といい、橘の巫女様はなかなかどうして素敵な性格じゃないか。

「ミスタ・カーマイン、そこにいますかネ？」

　穴の中から、サンディーが不安そうに俺を呼んでいる。

「いま戻るよ、サンディー。とりあえずこの道はハズレだ」

　再び、俺が穴の中に戻ろうとしたとき。

「ひ……っ！」

　ミズ・コナツがひきつれた悲鳴を上げた。

　その場に腰を抜かし、俺に向かって山頂を指さす。

　促されるまま見上げれば。

「だ、誰だっ！？」

　神社の楼台に、人影が立ったのである。

　風になびく長い黒髪、白い上衣、広がる赤いスカートのようなもの。遠い上に、扇で隠されて顔は見えないが。

「巫女、さまが……！」

　ミズ・コナツの悲鳴が響く。

　彼女が、橘の巫女なのか？　とうの昔に途絶えたはずの、神の巫女。

「さがれ」

　凛と冷たい声は、鼓膜ではなく、直に脳裏に響いた。触れられてもいない体の内側が、冷や水でも浴びたように冷たくなる。

「さがれ、無礼者」

　そう言い放つ、赤い唇が見える気がした。扇がわずかに動いて、切れ長の黒い瞳が俺を流し見る。

　途端、冷えていた俺の体の芯を電流が駆け抜けた。身がすくんで、息もできない。鼓動だけが、体内に別の生き物が棲むかのように乱れ打ち、出口を求めて内側から全身をふるわせる。

　本来、俺はプレイボーイである。女なんて、俺にとっては攻略の対象だ。甘い言葉で誘惑し、この腕に絡め、指先のテクニックで愛撫する。そうして操るだけの存在だった。

　だが彼女は違う。

　彼女は、崇拝の対象だった。

　操ることなんてもってのほか、指先が触れることも、視線を向けることさえも罪。そのくせ、目をそらすこともできず、足に釘でも打ち込まれたように、俺はただその場に立ち尽く。

「カーマインさ！」

　不意に、背後から足首をつかまれた。

「巫女様がお怒りですだ、今すぐ戻るですだ！」

　いつのまに追って来たのか、穴の中からミズ・コナツが手を出して、俺を引きずり下ろそうとしている。

「そんな、足を引っ張ったら危ないですヨ！　ミスタ、自分で降りて来てください！」

　下のほうでサンディーともみあっているらしい。

　だがそんなことは、どうでもよかった。俺は、橘の巫女に魅入られたのだ。

　力ずくで、俺の体が穴の中に引き込まれる。着地に失敗して、したたかに腰と背中を打ったが、それさえもどうでもよかった。

「どうか巫女様、お許しですだ！　村に災厄を与えないでくだせえ！」

　ミズ・コナツが俺を肩に担ぎ、猛烈な勢いで洞窟を抜け、山を下っていく。両足首をガッチリつかまれ、少々抗ったところでびくともしないだろう。

「ミスタ、大丈夫ですか、ミスタ！？　何を見たんですか？　目、開けっ放しになってますヨ！」

　隣を走るサンディーが必死に呼びかけている。

　だが俺には、彼女たちの行動はどうでもよかった。

　まさかこの俺様が、巫女の瞳に魅入られて動けなくなるとは。

　ただその敗北感に、ぼんやり打ちのめされていた。