黒いアスファルト。白いガードレール。ちぎれていく断片に浮かび上がって見える一筋の走行ライン。ヘッドライトに切り取られ、流星のように流れ過ぎる視界は、拓海にとって見慣れたもののはずだった。

　だが今は、まるで違って見える。雨のせいではない。座席が違うからでもない。車のせいですら、ない。ドライバーの、せいだ。

　これまで無意識に見ていた世界が、未知の衝撃で拓海を圧倒する。

　耳を塞ぐ轟音の中で、ナビシートに押し込まれ、からだを斜めに抜けていくＧに耐えながら、拓海は前方を睨みつけた。傍らを振り返るより、前方に切り拓かれる獰猛な視界こそが、ドライバーの存在を強烈に意識させた。

　繊細で、正確で、攻撃的で、熱い。穏やかな表情の下でバランスを失するほどに強烈な一点。

　からだが、ふるえた。同じ熱を、拓海も知っている。

　赤城の白い彗星と呼ばれた男、高橋涼介。この圧倒的な空間を支配しているのは、たしかに彼なのだ。

◆

　何故、自分なのか。

　同じ問いを、二人の人間に問いかけた。一人は好きだからと怒り、一人はテクニックが欲しいと不敵に笑った。どちらも恐ろしく正直で、それゆえに拓海の求めていた答えではなかった。

　何故、自分なのか。それはおそらく、拓海自身への問いなのだ。

　当たり前にただ瞳に映して過ぎてきただけの視界が、違って見えてきた。惰性に過ぎなかった反復が、別の意味を伴うようになった。金属のカタマリに過ぎないエンジンがアクセルに応える瞬間と、同じ熱が自分の中にあることを知った。ごく、最近のことだ。

　自分の中にある熱。それが何であるかは、わからない。ただ、飢えた獣が獲物の足跡をたどるように、拓海はそれを求めている。無意識に引き込まれていく自分を意識しながら、まだ思い切れないでいる。

　その熱は何故、拓海の中にあるのか。何故、自分なのか。

　確証を持てないまま、拓海は涼介の前に立った。約束の期限が迫っていた。

「お前からの連絡を待っていたぜ、藤原」

　端正な顔に微笑を浮かべる涼介から、拓海は目をそらした。真っ直ぐに見つめてくる涼介の瞳を見返す資格は自分にはないと、とっさに感じたのだ。一度伏せた視線は、上げられなかった。

　視界の角で、涼介が小さく肩をすくめる。

「今日こそはいい返事を聞かせてもらえるかと、喜び勇んで駆けつけたんだがな……」

　新しいチームを作る。ドライバーとして参加して欲しい。三月も前に涼介が提示した要求は、明確だった。

　考えるまでもなく、魅力的な誘いだった。親友のイツキなどは、自分の話でもないというのに飛び上がって喜んだ。迷う余地など、あるはずがない。だがその答えを、拓海はまだ示していなかった。

「……涼介さん」

　口を開くが、それ以上は続かなかった。もともと饒舌なほうではない。

　拓海の電話一本で、深夜にここまで駆けつけてくれた涼介に対して、応えられない罪悪感はある。だが胸にわだかまりを抱いたまま表面だけを取り繕うには、涼介の視線はあまりに強く澄んでいた。

　拓海の迷いから目をそらすように、涼介が背を向ける。はじかれたように拓海が顔を上げる。応えられぬくせに、どこかで追わずにいられないのだ。

　ＦＣのドアに手をかけて、涼介があごをしゃくる。

「乗れよ、藤原」

　激昂でも失望でもない穏やかな声に、拓海は頷いた。

◆

「……どこへ行くんですか」

　沈黙に耐えかねて先に口を開いたのは、拓海だった。エンジン音に掻き消されるので、少し声を張らねばならない。

「藤原は、どこへ行きたい」

　穏やかな表情のまま、涼介がアクセルを踏みこむ。甲高い金属音を響かせて、上り斜面を加速する。起こしていた拓海の半身は反動でバケットシートに縫いつけられた。

　平日の夜だ。今にも降り出しそうな悪天候のせいもあり、他に車はない。

　涼介の表情は変わらぬまま、ＦＣが咆哮する。

　怒っているのか。苛立っているのか。ステアリングを握る涼介の横顔は、交錯する光と影の狭間にあってみじろぎもしない。それ以上、涼介は何を語る気もないようだった。

　拓海は前方に目を向ける。

　見慣れた秋名の峠が、明滅しながら背後に飛び過ぎていく。見飽きたはずのライン、見飽きたはずのカーブ。だがそれは、不思議に拓海を魅了した。

　涼介に、迷いはない。拓海ほどに秋名を熟知しているわけではないが、正確でアグレッシブなライン取りが、それを証明している。

　怒っているのも、苛立っているのも、拓海自身なのだ。

　拓海は全身の力を抜いた。ざらつくアスファルトを滑るタイヤの震動。ロータリーエンジンの軽快なサウンド。ボディの風切音。遠くの雨の匂い。空間のすべてを、涼介が支配している。

　息苦しいほどに空間を埋めているのは、凶暴な熱。ギリギリの限界にならなければ現れない。言葉にしたら変化する。そのくせとどめることもできない。拓海の中の同じ熱を、容赦なく揺さぶる。

　もう拓海も何も言わなかった。ナビシートにからだを預けているだけで、涼介を感じられた。

　降り出してきた雨を歯牙にもかけず、白い車体は頂上でスピンターンした。

◆

　ゆるやかに減速し、完全に停車しても、拓海は身動きできなかった。

　ナビシートの中で翻弄された熱が、痺れが、からだの奥に残っている。雨が金属のボディを叩く軽い音が、遠くに聞こえている。

「藤原」

　雨音に紛れるように、涼介が呼んだ。先ほどまでの熱が嘘のような、穏やかな声だ。

　はい、と答えようとして、声が出なかった。かすれた吐息が喉をこする。

「つきあわせて悪かったな。送ろう」

　涼介がサイドブレーキに手をかける。その手を、反射的に拓海は押さえた。

　いぶかしげに、涼介が振り返る。

「すみません、俺」

　あやまって、口ごもる。自分の行動が、自分でもわからなかった。ただ、今の心地よい熱が冷めてしまう気がして、体が動いていた。

「答えを、聞かせてもらえるのかな……」

　涼介の切れ長の目が、拓海を覗き込んだ。熱に浮かされたように、拓海はそれを見返した。

「俺、やります」

　思うより先に、口をついた。

　迷いが消えたわけではない。むしろそれが胸の中で熱となって、拓海を突き動かした。自分の中の熱に駆り立てられるように、饒舌ではない言葉をつなぐ。

「さっきから熱くて、俺よく、わかんないんですけど。もしかしたら俺の中にずっとあったものと、同じものを涼介さんは持ってて。だから、涼介さんとなら、俺はどこへでも行ける。そんな気がして。だから」

　拓海を真っ直ぐに覗き込みながら、ゆっくりと、涼介が頷く。

「そうだ。俺とお前は同類だ、藤原……」

　なめらかなものが、唇に触れた。拓海の体温よりも少し冷たく、やわらかい感触。触れるほどの距離で、涼介の長い睫毛がみじろぎ、離れる。

　触れていたのが涼介の唇だと気付いたのは、それからだ。

「目は閉じてもらえるとありがたいんだがな……」

　言われてはじめて、拓海は狼狽した。

　吐息が絡むほど間近に涼介の端正な顔がある。熱を帯びた切れ長の瞳に、自分が映っている。さっき自分に触れていた唇の端が、かすかに笑みを刷く。

　長い指先がまぶたに触れてきた。手のひらで包むように、視界を塞がれ、同じ感触が唇に触れた。

　今度ははっきりそれとわかる強さで吸われ、熱いものが唇を割った。

　思わず、声が漏れる。初めてというわけではない。だが触れるだけの冷たさと、中に入り込んだ熱さのギャップに、めまいがした。涼介の走りにも似た激しさが、知らない熱を呼び覚ます。

　バケットシートに押し込まれたこめかみが、ザクザク痛いほどに脈を刻んでいる。

　止められない衝動の暴走を恐れていた。自分の中に潜む可能性よりも、加減を知らない凶暴な熱が怖かった。だがそれと同じ熱を、涼介も持っている。何をそんなに、迷っていたのか。あきらめることなどできるはずもなかったのに。

　手を伸ばして、涼介の髪に差し込む。崩れそうな熱の中で、さらりと指に絡む冷たい感触が、心地よかった。

　出会うべくして、涼介に出会った。それだけのことだ。自分がどこへ行きつくのか、それはいずれ見えてくる。

　不意に、明らかにそれとわかる熱に触れられ、拓海は慌てた。視界を塞ぐ手のひらをもぎはなして、息をつく。

「りょ、すけさん。どこ、まで」

　涼介の整った顔が意地悪く笑う。

「お前次第だな、藤原。俺となら、どこへでも行くと言ったぜ」

　雨音が激しくなった。夜を切り裂く銀の光の中で、拓海は涼介を見つめた。