| 落 陽 の 賦 |
南西の決定する少し前の頃である。燕嘉の屋敷に丞相の景和から使いがあった。 申の刻を半刻ばかり過ぎた、燕嘉が帰る少し前だった。使いは魏潁を名指しにし、急ぎのことなので、この場で信（てがみ）を読むよう言った。潁は迷ったが、景和とは面識もある。とにかく開いてみることにした。 漢文であった。これでは燕嘉には読めない。 「黄埃散漫 炬因無然」 だが、文意がよくわからない。漢文というより、文字を並べただけのようにも見える。まるで暗号のような……？ 「お返事は？」 「言い遣っておりません。子納様にお見せする必要もないとのことです。ただ魏潁様にお見せしろと。 それから、しかと宜しく申し上げるよう言われております」 「私に？」 潁は首を傾げた。何を宜しくと言うのだろう。何か勘違いしているのではないだろうか……魏潁は宮中にもあまり出入りせぬ使用人に過ぎないのである。 とりあえず、主が帰るまでどうしようもない。潁は使者に礼を言って帰した。 黄埃散漫、この華北の黄色い土が舞い上がると言うことだろう。華北は乾燥が激しい。乾期ともなるとからからに渇いた黄土が舞い上がり、空を黄色く染める。門の外の西日も、赤ではなく黄色にかすんでいる。 炬因無然。炬、無に因って然ゆ。文字の意味を汲んで並べ替えてみたところで、わからない。炬は、炬火、葦を束ねたたいまつの意である。戦のときによく使う。無に因って然ゆ、は原因無くして燃える、と取れる。 つなげてみて、潁はおかしな気分になった。せいぜい、このところ乾燥しているから、火の用心を、の意味にしかならない。 あの上品な景丞相は、いったいどんなつもりでこんな休止を寄越されたものか。 潁はその場では笑った。丞相はいつから防火活動まで職務になったのだろう。確かに燕嘉に見せる必要もないだろうと思い、他の使用人達に火の元に気を付けるようにとだけ周知して、あとは忘れてしまった。 燕嘉はこの日とくに帰りが遅かった。 いつもよりお疲れになっている。 更衣を手伝いながら、潁は思った。わずかに潁の動きが燕嘉のそれに合わなかっただけでも、主は顔をしかめた。随分と苛立っている。 「……これは。どうなさいました」 燕嘉の脱ぎ捨てた上衣の袖を見て驚いた。赤黒い染みがついている。独特の硬さは、血液だ。 「どこかお怪我でも？」 「いや。私ではない」 燕嘉は一言そう言い、後は煩わしそうに黙り込んでしまった。それ以上問いつめる権利は潁にはない。だが聞いておかねばならないような気がして、口を開きかけ、止めた。 緩やかな衣服に着替えてしまうと、主は何も言わずに袖を払って部屋を出る。潁は足下をひそめて後を追った。 翡は、この日、昼間寝て過ごしていたらしい。ぱっちりとよく覚めた目で湯に入り、燕嘉が寝室に入ったときには、既に寝台のすぐ横の床に座って待っていた。 ぺたりと座り込んだ翡は白の単衣をゆるく身体に巻きつけ、細い足首を月明かりに投げ出している。どこか遊女のようなその姿に、燕嘉は微笑を浮かべた。やや手荒く手首をつかんで寝台に引き倒す。苦痛の呻きが洩れるのにもかかわらず、燕嘉は両手で二本の足首を持ち上げ、翡自身の頭のほうへ下ろすと、やわらかな少年の身体は抵抗もなく折れ曲がり、燕嘉の望む姿勢になった。 「……あ！」 昼間のうちに潁が足しておく灯油は、まだ火を消したばかりで熱かったが、かまわずに塗りこむ。小さな身体が驚きに震えた。充分な睡眠のせいだろう。今宵は反応が敏捷だった。 結局、景丞相の信のことも言い出せず、燕嘉の袖の血のことを尋ねそこねたまま、潁は台所で片づけをしている喬をぼんやり眺めていた。 「潁さん、あんた最近よくここに来てぼっとしてるけどね。この婆が忙しく働いてるのを見ても、手伝おうって気は起こらないのかえ？」 「ああ、すまない」 喬の怒声に立ち上がってみたものの、何をすればよいのかわからない。立ち上がったまま途方に暮れて、台所を眺めてしまう。ひょひょ、と喬が笑った。 「いいよいいよ、冗談さ。ここはあたしの領分、いくら潁さんが偉くても、動けるところじゃないさ。 潁さんがあんまり物を考えすぎてくたびれちまってるみたいだからねえ、からかっただけ。ひょひょひょ……」 若い娘のような仕草で口元に手を当てている。本人は、ほほほ……と笑ったつもりなのだろう。潁は苦笑して、頭をかいた。 「潁さんは、潁さんにできることをおやり。あたしの仕事も、あの子の仕事も、それぞれがするさ。旦那様ももう坊ちゃまじゃない。潁さんがそんなに心配してやることはないだろうが」 潁は何となく、この元気な化け物婆を頼もしく感じ、主の袖の血のことをうち明けてみた。 「ははあ、そんなこと放っときゃいいわ。たびたびあるようなら胸のご病気かも知れないが、そうでなけりゃ、旦那様の言うように旦那様の血じゃないんだよ。 おおかた、いざこざの返り血じゃないかね。それだったら、旦那様はまず大丈夫だろうし」 言われてみれば、そのとおりである。 本人の血でないのなら、返り血だ。考えてみれば、燕嘉が下手な刺客に狙われたりすることは、昔からしばしばあった。今回もそれの返り血かも知れない。だとしたら、それは潁がどうにかできる領分ではなかったし、燕嘉ならば心配せずとも大事には至らないという保証がある。たとえ千人に囲まれたとしても、切り抜けるだけの武力がある。 自分は何をひっかかっていたものか。 突然ふっと景和からの信（てがみ）が思い出された。 「黄埃散漫 炬因無然」 或いは、あの信（てがみ）も同じ一環かもしれない。景丞相ともあろう者が、故なくしてあんな使いを寄越すわけがあるまい。もう一度思い起こしてみると、怪しむべきは炬の文字である。何故ことさらに、火ではなく炬の文字を用いたか？ たいまつだ！ 潁ははっと気がついた。戦でなくとも、今宵たいまつが燃えるのである。たいまつは自然に燃えるものではない。人の手によって燃されるものだ。原因なくして燃えるはずがない。 すなわち、原因がないように装って、人の手によって炬が燃されるのである。 潁は立ち上がって台所を出、さらに廊下を抜けて門外へ出た。 風が強い。黄埃散漫、とはよく言ったものだ。真っ黒な闇に、黄色の砂が月光を反射して舞っている。潁は鼻腔を乾かす感触に固く口を結んで、屋敷の周りを歩き出した。 主の寝室のちょうど裏側の兵のところで、潁は足を止めた。壁にぴったりと身を寄せ、黒い袖で身を隠すようにして座り込む。 時折、変声前の翡の喘ぎが黄砂に紛れて耳をなぶる。 耳障りな。 がさがさと、黄砂が刺し込むような胸の痛みに、潁はただ黙って動かなかった。気配を消して、じっとうずくまる。子の刻を過ぎてようやく声が止み、あとは蕭々とした風の音が吹きすぎた。 丑満刻、半ば目を閉じていた潁の目が開いた。 風に紛れて足音がする。 目を凝らすと、闇の中に赤い炎がチラチラ見える。 炬。 思ったが、まだ動くわけにはいかない。こちらは一人。敵を見極めるまで、気配を悟られてはならない。 やがて足音が近づいてきて、止まる。気配はひとつ。それから、かすかな音。荷車を引くような。果たして、数十歩遅れて、枯れ草を積んだらしい荷車が現れた。 斥候役と、荷車を引く者と、押す者。合わせて三人。 「この屋敷か？」 「間違いあるまい」 「寝室はここか？」 「東の中央……このあたりのはずだ」 小声で同意を取りながら、一人が不用心にも近づいてくる。残りの二人は荷車の陰だ。枯れ草を山のように積み上げてあるので死角となる。 は、大がかりな炬火だ。 潁は立ち上がりざま斥候の口を塞ぎ、鳩尾に手刀を打ち込んだ。地に崩れたところを抱えて、右肩の関節をはずす。それから両の足首。起きあがられてはかなわない。 動かなくなったそれを放ると、荷車の向こうへまわる。 はっと身構える二人の眼前で、目を誘うように上体を沈める。左へ跳躍し、身を起こしざまに左側の男の顎へ蹴りを入れると、あっけなく吹っ飛んだ。 背後からかかってくるもう一人の腕をそのまま取って流し、間接を逆にねじる。ぐわっという呻きとともに、手の中でいやな感触が響いた。腕が、折れたのだ。腕をかばって地を転げる背後から、腕をかけて頸動脈を絞める。男はそのまま昏倒した。 蹴り飛ばした男を振り返ると、落下の際によくないところを打ちつけたらしい。壁にもたれて白目をむいている。念のために、鳩尾に蹴りを入れてから両足の関節をはずした。 止めていた息を吐く。 塀の向こうの主が起きる気配はなかった。過敏な燕嘉にしては珍しいことだと潁は思った。 潁は他の下男を起こして不審者たちを離れに運び込み、動けぬように縛って置いた。明朝、主人に処置を委ねるためである。荷車はそのまま倉庫へ入れて、暖の糧とすることにした。 主は東の空が白みはじめても、なかなか起きてこなかった。こんなことは潁の記憶にもかつてない。 「旦那様」 戸口から、そっと呼びかけるが。返事はない。 三度呼んで、潁は寝室に踏み込んだ。 寝台には翡の姿は見当たらず、燕嘉が一人うつ伏せになっていた。ぴくりとも動かない。 「旦那様？」 よもや、放火は陽動作戦で、こちらに何かあったのでは？ 思い当たると血の気が引いた。主を仰向けに起こして手荒く揺さぶる。 切れ長の瞳が、いきなり開いた。 「潁」 気は確かなようだ。潁の口から安堵の吐息が洩れる。知らず笑みがこぼれた。 「朝でございます。旦那様」 彼らの朝は早い。日が昇るとすぐに朝議が行われる。諸将はまだ暗いうちに起きだし、日が昇る頃には出仕していなければならない。今も、まだなお暗く、室には灯が灯されていた。 「翡はどこだ」 その薄明かりの室内を見回して、燕嘉が問う。 「私が入ってきましたときには既に見えませんでしたが」 「あやつ……」 燕嘉の眉が俄にひそめられる。 潁は、主の表情には敢えて触れず、翡がいないのを幸い、主の耳元へ唇を寄せた。 「昨夜、不審な者を三名捕らえました。離れに籠めてありますが、いかがなさいますか」 火付けの三人のことである。燕嘉が、まず見せてみよ、と腰の帯を解きだす。潁は、は、と答えて更衣の手助けをした。 歩の早い主を追って、小走りに離れに入る。 男たちを籠めておいた物置の戸を開けようとして、つっかえ棒が外されているのに気がついた。つい先刻、たしかに自分がはめこんだはずだ。 果たして、開けてみるともぬけの殻である。 離れで寝起きする使用人達が朝の仕事を始め、潁が燕嘉を起こしに行った、ほんのわずかな隙にだ。 潁が外へ飛び出すと、裏手の塀をよろよろ越えていく姿が目に映った。はずされた関節がまだ痛むのだろう、身の丈を越す塀によじのぼったのがやっとのようで、追えば捕らえるのは容易い。 だが、主の高い声に呼び止められた。 「潁、構うな。まず私に子細を聞かせろ。 ……お前の知らぬことはこいつがしゃべろう」 主の片手に、いったいどこに潜んでいたものか、翡がひきずられている。 脱走を手引きした本人、ということだろうか。 なおも辺りを見回し、異変がないことを確かめてから、潁は主の元に戻って控えた。燕嘉は無言で脇をすり抜け、庭へ出る。単衣の襟首をひきずられ、翡が続く。 「奴らは昨夜何をしていた？」 庭の木に、暴れる翡の手首をくくりつけながら、燕嘉が問う。縛っているのは、翡が纏っていた帯だ。 潁は跪いてうつむいたまま、昨夜の事件を完結に報告した。 「それから、景丞相様から信をいただきました」 手早く縛り終えて、燕嘉が振り返る。潁が捧げる紙切れを受け取る。 「漢文か。お前宛のわけだ。 火つけのことか？」 「明確ではありませんが、おそらく」 「景丞相はお耳が早い。どこかで計画を聞いて、寄越されたのだろう。 漢文とは、軽々しく文にもできないような筋の情報、ということだろうな」 燕嘉は潁に信をつきかえし、哀れにも動けずにいる翡を振り返った。 「昨夜は活きがよかったわけだな」 燕嘉は無表情である。声にも、抑揚がない。だが高く響く声は冴えて冷たく、氷のように突き刺さる。 翡の左胸がびくりと波打つのが、帯を解かれ露わになった部分から見てとれた。そこに心の臓があるにもかかわらず、白い肌は蝋のように透きとおり、連なる下肢は崩れ、細い身体は頭上の縛られた手首だけに支えられている。 「私が戻るまでこのまま放っておけ。食事もやるな」 「……は」 潁は顔を伏せたままで、復命した。枯れ落ちた沈丁花が主の足下に踏みしめられていた。 さして遅くない刻限に燕嘉は戻った。更衣を済ませ、食事をとる。 「あれは、放ってあるな」 「は」 潁は答えたが、内心ぎくりとした。昼間、せめて食事をやろうとしたのである。結果的には、翡は潁の手からは物を食べようとはしなかったのだが。 手首は固く縛られていて、帯を切らねば解けそうになく、そのままにしてある。 その晩の月はわずかに欠けていた。白々と月光の差し込む庭へ、燕嘉が出ていくのが見えたが、潁は気がつかぬふりをした。 「潁！」 容赦のない声に呼ばれ、潁は言葉もなく付き従う。 葉陰に蝕まれる月明かりの一部のように、翡が痛々しいその身を晒していた。 瞼は薄く開いている。意識があるのか、ないのか。一日中上げられていた腕は闇を裂いて白く、うなだれたうなじにも、頬にもまるで血の気がない。瀕死の吐息が微かに開いた唇を潤している。 暴れた形跡はなかったが、それでも白い布きれは手首に食い込んで擦れていた。 「潁、水を持て」 言われるまま、井戸へ行って水を汲んで戻る。燕嘉は無言で水桶を受け取り、翡の顎を仰向けて、いきなり注ぎかけた。 翡がむせて、喉が鳥のような音を立てる。 「目が覚めたか」 弱々しく、吊されたからだがもがいたが、どうにもならない。頬を軽くはたかれて呻きを上げる。軽く、といっても燕嘉の腕力は人並はずれている。衰弱した体にはそれこそ致命的なダメージだ。 危うく昏倒しかけるその顔に、燕嘉が残りの水を注いだ。 「汲んでこい」 潁を見もせずに水桶を放り、今度は翡の襟をつかんだ。そのまま、力に任せて引き裂く。まるで薄い紗のように、濡れた布が易々と裂ける。鈍い音が長く尾を引き、白い切れが地に落ちて重なった。 「潁。あの男たちを逃したのは何のつもりか聞け」 振り返る燕嘉の瞳に表情はない。 潁は漢語で主の言葉をくり返しながら、翡の姿を正視できずにいる。一日そこに吊るされていた小さな身体が、どうしようもなく震え、声を発することさえかなわず、かちかちという歯の音が聞こえている。 燕嘉が、新しい水を注ぐ。薄氷の下から汲み上げたばかりの水を。 「では、あの男たちはどこの者だ？」 すべてを剥がれた白い翡の腹を、折りとった沈丁花の枝でなぶる。摩擦で花房が落ちるのが、潁には見えた。 「言え。お前の身体に薬物を塗り混ませたのは誰だ？」 朽ちた花の芳香が、燕嘉を酔わせているようだった。翡もまた朦朧とした意識の中で沈丁花を嗅いでいる。震える肌に花の枝が細かい傷をひいていくのを、潁だけが覚めた視界に見ていた。 「……あ、」 翡が口を開く。 「南、陽、……から、の」 切れ切れだが、確かにそう聞こえた。 「南陽？」 燕嘉が手を止めて呟く。 思い当たることがあるのだろうか。翡は南陽を治めている者が誰であるか、知らない。 そいうえばここ数日、見慣れぬ行商人が訪れては何かしら売りつけようと喬とやりあっていた。彼らの訛は、どこの国のものだったろう。 「もうよい。潁、手当してやれ」 燕嘉は枝を捨て、屋敷に入った。 潁が帯を小刀で切ってやると、少年の身体はその場に崩れた。 燕嘉の捨てた花の枝が折れる音に、饐えた匂いが立ち上った。 |
続 |