時刻はとっくに零時を過ぎ、二週間のワゴン・カー生活で体はクタクタに疲れていたが、どうしてもすぐに見たい写真があった。本当は、撮影をしたその日の内に現像したかったほどだ。ワゴンのレンタル期間が残っていたため、その後数日撮影を続けたが、フィルムケースに収めた獲物が気になって、まるで身が入らなかった。

　野生動物専門カメラマンの現像は、猟師が仕留めた獲物の皮を剥ぐ行為に、どこか似ているかもしれない。獲物が大きいほど、興奮する。

　今回の私の獲物は、人間だった。

　しつけのされていない野生の雄で、まだ子供なのに凶暴だった。野生動物専門カメラマンとして、キタキツネに噛まれたり、クマと睨み合ったことはあるが、人間に襲われたのは初めてだった。

　彼は易々と私を組み敷き、内側まで食い荒らしてくれた。そのときの傷は癒えきらず、彼の歯型や爪痕はまだ私の体の内外で痛む。有り体に言えば、彼にカマを掘られたのだ。

　いつもなら、晴れ晴れしい成果を期待して現像をするが、今回は違った。私の中にあるのは、獲物を仕留めた達成感ではなく、完璧な敗北感だった。

　正直、撮影どころではなかった。まともに撮れている写真が一枚でもあるのか、はなはだ疑問だ。

　私が一刻も早く確かめたかったのは、仕留めた獲物の大きさよりも、自分が負った傷の深さだったのかもしれない。あれほど被写体に屈服させられたと感じた経験は、十年足らずのカメラマン人生で初めてだった。

　それほどの獲物に出逢ったのだ。

　現像タンクのリールに巻きつけたフィルムを、現像液、停止液、定着液にくぐらせる。白黒逆転したネガフィルムに、獲物の影が徐々に現れてくる。

　敏捷すぎる動きを捕らえきれず、流線となった獣の影。大きくはずれたフレームの端に、近づきすぎてぼやけた獣の爪。黒く沈んだ逆光の中に凶々しく嗤う獣の牙。片目だけを画面に残して、爛々と輝く獣の眼。

　シン。

　獣は、そう名乗った。

　本名なのか偽名なのか芸名なのか、今となってはわからない。或いは、そう呼ばれる魔物なのかもしれない。

　鋭く、どこか突き放したような響きは、彼によく合っていた。

　獣が少しずつ、フレームの中央ににじり寄ってくる。

　狭い車内での撮影分になったのだ。暗すぎて、ほとんど真っ黒だ。かと思えば、時折ライトの直撃で真っ白になる。使えたものじゃない。

　だが不意に、獣の眼がこちらを睨み据えた。近すぎて判別しがたいが、モノクロの画面に尾を引いて輝く発光体は、たしかに獣の目だ。

　光量もない、ピント合わせすらしていないあの状況で、写っていたほうが奇跡だ。私のカメラが写したのではなく、獣がレンズを捕らえたのだろう。

　一度レンズを捕らえた獣は、その後なかなか離さなかった。真っ黒な画面にさえ、獣の息づかいを感じる。見ている私がどうかしているのだ。

　闇を切り裂いて白く浮かぶ、獣の鎖骨、胸筋、鳩尾のくぼみ。滴る汗、躍動する腰骨、それから。

　無防備に飛び込んできた獣の体に、三日前の記憶が肉感的に蘇る。私を思う様に蹂躙した獣の熱と重さ。

　下半身がズクリと疼いて、私は一人赤面した。

　ばかばかしい。

　声に出して、呟く。

　ただの写真だ。これは獣そのものではない。あの熱さも、獰猛な眼差しも、私を傷つけた爪も牙も、平面に写し取られた光と影に過ぎないのだ。そんなものに、体で反応してどうする。

　どっと、疲労を覚えた。

　体は疲れているのだ。当たり前だった。

　私は焼いた印画紙を金バサミでワイヤーに吊して干すと、長椅子にごろりと身を投げた。窓の外は、かすかに白みはじめている。泥のような眠りが、全身に降りてきた。

◆

　体が重く、身動きがとれない。振動は容赦なく続いている。

　薄く目を開けると、獣の顔がぼんやり見えた。夢の続きだろうか。夢と同じ金褐色の髪、凶々しい金の眼、華奢な輪郭。

　シン。私を魅了した凶暴な獣。

　獣は記憶と違って、黒いエナメルのシャツを着ている。ブラックジーンズの長い足で、どうも私の寝ている長椅子を蹴っているらしい。

「起きろよ、オッサン」

　獣は低い声で唸って、手を伸ばしてきた。乱暴に腕を掴まれ、体ごと引きずり上げられる。

「う、あ？」

　いきなり、立たされた。急激な覚醒に喉から間の抜けた声が漏れる。夢の続きではない。現実なのだ。

「写真、取りに来た」

　ぶっきらぼうに、彼は言った。

　たしかに私の名刺を渡してはあったが、連絡をくれる気はさらさらなさそうだった。二度と会うこともない、そんなふうに思っていた。それがまさか、電話でもなくいきなり事務所へ現れるとは。まったくの予想外である。

「え、あ、ああ」

　要領を得ない私を、彼が乱暴に小突く。

「寝ぼけてんなよ。できてんだろ、写真」

　小突かれた弾みで数歩踏み出して、私は首を振った。

「ああ、うん。取りに来ないんじゃないかと思ってたけど」

　壁際のワイヤーに吊された写真を指さすと、彼は手を伸ばして次々むしり取った。金バサミに手をかけず印画紙の端を引っ張るだけの、荒っぽい仕草だ。

　はなから使い物にならないものは焼いていないから、それほどの数はない。それでも三十枚ほどの写真を瞬く間に取り去ると、彼は立ったままその場でめくり始めた。これまた、めくられた写真がビラビラ音を立てるほどの勢いと速度である。ちゃんと見ているのだろうか。

　彼の望んだ絵は、撮れているのだろうか。

「これとこれもらってく。四ツ切りで十枚ずつ焼いといて」

　二枚を抜き出して、私の鼻先に押しつける。残りは、壁際のデスクに乱暴に放る。

　彼が選んだのは、砂浜に転がった半裸と、目の光が夕闇に尾を引いたアップ。どちらもピンの甘い、構図に被写体を捕らえきれていない出来ではあったが、凶暴な目の光が鮮烈に撮れていた。彼の望む写真が、撮れたのだろうか。

　だが私が反応を読む前に、彼はニヤリと不敵に笑ってもう一枚を突きつけた。

「ナニ、撮ってんだよ変態」

　彼が二本の指で挟んだのは、被写体が近すぎて肌色にボケた写真。だがよく見ると、画面下端にちぎれて、妙にピントの合った陰毛と、赤みを帯びた陰茎の影が写っている。そうと認識してピンボケの肌色に視線を戻すと、記憶と相まって、ぼんやり赤い乳首に付着した白い精液を舐めて、あおった顎と、牙の輪郭が見える気がする。

「アンタ、これオカズにしただろ」

「なっ！」

　上唇を舐めて、勝ち誇ったように彼が言う。私は、絶句した。

　して、いない。つい数時間前に現像したばかりなのだ。オカズどころか、何が写っているのかまともに確認する暇さえなかった。

　だが彼は、私の絶句と赤面を図星と勘違いしたらしい。

「好きにしろよ。我慢はカラダによくないぜ？」

　囁いて、私の股間を撫で上げた。撫でる、というやさしさではない。猛禽類が上空から地上の獲物を狙うように、一直線に降下して通り過ぎたのだ。

　いきなりの衝撃に、私は体をくの字に折り曲げる。寝起きで半勃ちのペニスには、強すぎる刺激だった。甘い痺れが下半身をズクリと疼かせる。

　低くなった襟首を掴まえて、彼は私をデスクに押しつけた。背後に回り、私の腰を掴み、尻に股間を押しつけてくる。

「おいっ」

　荷物と写真のぶちまけられたデスクに両手を着いて、振り向きながら私は叫んだ。

　だが彼はいっこうに構わない。熱く硬い感触をぐいぐい押しつけながら、ズボンのホックに手をかける。

　まったく、野性的なのだ。三日前と同じだ。

　そして彼に引きずられて反応してしまう自分の体も、所詮は野性的なのだと思う。普段から、人間より野生動物と接する機会のほうが多いのだ。

　私は黙って、彼の好きにさせることにした。理性で説得できる相手ではない。

　ホックを外され、ファスナーを下げられ、膝までズボンを降ろされる。背後からも同じ音。

　手で尻の肉を分けられ、熱いものが入口を探る。だが実際には出口なので、そう易々と受け入れられるわけがない。

「……やりにくい。ベッド行こうぜ、オッサン」

　数十秒の格闘の末、彼は提案した。

　間抜けな彼の提案に、私は苦笑しながら乗ることにした。指で、隣の部屋を示す。

　ドア一枚隔てた暗室に、私の寝床はあるのだ。暗幕の引かれた狭い部屋に、流しと現像台、機材を並べた棚、狭い通路を挟んでパイプベッド。昼間でも真っ暗なので、手元作業用の薄赤いランプをつける。今度は明るすぎる気がしたが、彼は相変わらず頓着しない。私を乱暴にベッドに突き転ばして、彼は再び背後を取った。

　棚からワセリンのボトルを手に取り、直接私の尻に垂らす。冷たい感触が四つん這いの割れ目を滑ってしたたり落ちる。獣の脂の強いにおい。

「オッサン、どこにでもワセリン常備なんだ。もともとそっちのケ？」

　言いながら、彼は指を遠慮もなく中に差し込んでくる。

「違う。荒れ性」

「ふーん。にしても、ヨさそうじゃん？」

　冷たい乳液が、彼の指の体温で温まる。油分で湿った内壁がやがてチュクチュクと高い音を立てる。三日前のまだ癒え切らぬ傷が鋭敏に疼き、だが私はそれ以上に突き上げてくる快感に身を震わせた。

　たった一度、彼に犯されただけで、アナル・セックスに目覚めてしまったのだろうか。いや、単純なセックスの快楽とは少し違う。私は男で、野生なら雄だ。中をまさぐられる快楽はセックスではない。

　その感覚は、不安なような、もどかしいような、怖いような、切ないような。言葉にすると、まるで女だ。セックスのとき、女はこんな感覚なのだろうか。女ではないから、わからない。

　だが私は、よく似た感覚を既に知っている気がする。

　腰を掴まれた。反射的に逃げかけるが、鷲掴みの指に引き戻される。尻を、さっきよりも深く開かれた。冷たい空気が触れて、すぐに熱い固まりが塞ぐ。

　彼が、ゆっくりと押し入ってくる。

　潤滑剤の効果か、少しは慣れたのか。裂傷の細い痛みは伴ったが、押し開かれ満たされていく内部が、奇妙な安堵感を誘う。

　痛みと、別の感覚とで漏れそうになる悲鳴を、私は枕に顔を埋めて押し殺した。

「……ッ！」

　彼の腰骨が、尻に当たる。熱を帯びた肉棒が、へその下あたりまで差し込まれている。たしかに彼と繋がっているのだ。

　私の背中に、彼の胸が重なってくる。

「そんな、必死に締めんな。動けねえよ、オッサン」

　シャツの襟首に息を吹きかけて、彼が忍び笑いする。彼の指先が肩口から、脇腹をたどり、服地越しに乳首をつまむ。痛いほどに勃起した乳首は、弄られると全身に甘い痺れが走った。

「オッサン、ほんと後ろの感度いいよな。フェラもしてないのにツユだくじゃん」

　もう片方の手が、私のペニスを弄ぶ。たしかにそこはいつのまにか痛いほどに張りつめて、彼の手の中でヒクリヒクリ蠢いた。

「……ン」

　ワセリンのぬるみの残る手で軽くしごかれ、喉から鼻へため息が抜ける。

「イイんだ？」

　訊かれて、枕の中に何度も頷く。自分でも順応しすぎるとは思うが、既にどうしようもなく感じてしまっている。

　私は楔を打ち込まれた尻を持ち上げるようにして、催促した。

　彼がゆっくり、動き始める。

　出口の際まで引き抜いて、再び奥まで突き入れる。再奥を突き上げられるのは苦しいが、抜かれるとたまらなく不安になる。まるで、高みから宙に放り出されるような浮遊感を感じるのだ。乱暴に揺さぶられるほど、不思議と快感が強くなる。

　律動は次第に速くなり、二匹の獣の荒い吐息に混じって、肉と骨のぶつかる音が響く。私はいつの間にか射精していたようだが、自分でも気づかぬまま腰を振り続けた。

背後から内部を滅茶苦茶に蹂躙されながら、それでも内部に打ち込まれた楔を失うことが怖かったのだ。

　熱い精を放ちながら彼が引き抜かれる瞬間、私は気付いた。

　私が感じていたのは、淋しさにちょうど等しい感覚だった。そしてそれは、私の中からではなく、彼と繋がった部分から伝わっていたのだと。

◆

「あちぃよ、オッサン」

　暑さが私のせいでもあるかのように、彼は私をなじった。

　指の隙間から薄目で窺うと、眩む光の中に立つ彼のシルエットが見える。シャツだけを羽織ったすらりとした肢体、汗に濡れた金褐色の髪、食事を終えたばかりの獣のような、獰猛ながら満足げな光を帯びた目。

　彼はやはり、格別にきれいな獣なのだ。ベッドのうつぶせた姿勢のまま、私は彼を凝視する。

「何だよ、見とれてんのか？　写真撮っとく？」

　私の視線に、彼はにやりと笑ってポーズを取った。人間のモデルの気取ったポーズではない。歯を剥き、腰に手を当てて雄の象徴を突き出した、ある種威嚇のポーズだ。

「うん」

　どちらかと言えば子供じみて見えるその仕草に誘われるように、私はもぞもぞと手を伸ばす。

　狭い部屋で、ベッドから窓にはすぐ手が届く。彼は、窓のすぐ横に立っている。

　最初に触れたのは、彼の肘。

　指先でたどって、下に落ちる。見た目よりも華奢な手首、血管の浮いた手の甲、指の付け根の骨から連なる指は、楕円のきれいな爪をしている。

　その指先を握って、そっと引っ張る。

「何だよ、オッサン」

　文句を言いながら屈んだところを、両手で抱き込んでぐるりとベッドに引きずり込む。

　とは言っても、狭いシングルのパイプベッドだ。二人並んで横に眠る幅もなく、彼はほとんど私の上に重なるようにして、崩れた。おそらく片足がベッドの外にはみ出して浮いているだろうが、私は構わず、彼の背中に腕を回して抱え込む。

「離せって。下濡れてて気持ち悪いんだよ」

　窮屈な姿勢で、彼がうなる。

　言われてみれば、脇腹のあたりに不快感があった。シーツが冷たく湿って、肌にぬめりを伝えてくる。二匹の雄の排泄液で濡れているのだ。

「ああ、うん」

　私は答えて、仰向けに寝返りを打った。彼を両腕に抱えたままで、私の上にひっぱり上げる。細身の彼の体は、私の腹の上にちょうど載った。

　これで、二人がはみ出さずにベッドに納まり、私を下敷きにした彼は濡れたシーツに触れなくて済む。彼の体重が少しばかり重いのと、私の背中の下が冷たく湿っているのが不快だが、私は気にしないことにした。

　彼を抱え込んだままで、目を閉じる。睡眠不足の上に体力を消耗して、眠いのだ。

「何だよ。人つかまえて寝るなよ。俺はアンタみたいに毛深いぬいぐるみ体型じゃねーよ。苦しいから離せって」

　私の上で、彼が身じろぐ。わずかの振動に、パイプベッドがギイギイ軋む。

「……うん」

　私は曖昧に返事をしたが、彼を離す気はなかった。

　単に、動くのが面倒くさかったというのもあるし、彼を抱え込んでいるのは奇妙に心地よかった。私よりも少し高い体温、若くなめらかな肌、伸び盛りの骨格と、内部に刻まれる定期的な鼓動。首筋に触れてくるやわらかい髪と、汗のにおい。

　触れている部分から、離れがたい愛しさが流れ込んでくる。自分に母性本能があるとは思わないが、近い感情かもしれない。

　野生のクマが、巣穴に迷い込んだ仔ウサギを、腹に抱いて温めているのを見たことがある。すがってくる無力な異種族を愛しく思う出会いは、大自然の不可思議の中でときに起こりうる。

　きっと私と彼も、そんな出会いの一つなのだ。

　彼は決して無力ではないが、どこかに淋しさを隠している。そんなふうに、私には見えた。

　私の腹の上で、彼はようやくおとなしくなる。

「……アンタさ、すごく単純だよね。心がカラダに正直って言うか、カラダ繋げたらそれだけでほだされる」

　ぼそりと、彼があきれたように呟く。

　それは、そうだろう。一度触れてしまった温もりを手放すことは、反射的に惜しいと思う。そこに甘い感情があろうとなかろうと、生き物なら当然の反応だ。

　だが彼は、私の胸に顔をすりつけたままで、小さくつけ足した。

「アンタみたいに単純なら、いいのにな」

　細く、掠れた声だった。泣き出すのかと、思った。

　胸に載った彼の表情を覗き込もうとしても、うつぶせたままで私からは見えない。ただ肌に触れて、彼のまつげが伏せられるのがわかった。

　誰のことを、言っているのだろう。彼自身のことだろうか。それとも、他の誰かのことだろうか。

　彼は、いきなり顔を上げた。

　私のほうが慌てたが、彼は泣いてなんかいなかった。いつもの凶々しい金の瞳に私を映して、にやりと笑う。

「気は済んだか、オッサン」

　拍子抜けした私の腕を、彼はするりと抜け出した。床に落ちていたジーンズに足を入れ、シャツのボタンをいい加減に留めなおしてから、私を振り返る。

「また来るよ。写真、焼いといて」

　乱れた毛並みをかきあげて、彼は言った。

　そして、次にいつ来るとも言わず、私がシーツの海に足を取られている隙に、野生の逃げ足で姿を消したのである。 　

Fin.