毎朝、と言ってもまだ一日も乗ったことはない。先週この町に越して来た僕の、今日が初めての出勤日だから。昨夜時刻表で調べて、誰よりも早く出勤できる電車に決めた。

　記念すべき初出勤の朝、駅前広場にはホウキを持った一人のおばあちゃんがいた。七時ちょうどの時計台の下を掃いている。

　小太りのサラリーマンが傍を通る。おばあちゃんにおはようと言う。おばあちゃんもおはようと返す。

　きれいにお化粧したＯＬさんがやって来る。おばあちゃんにおはようと手を振る。おばあちゃんも手を振り返す。

　中学生のジャージ集団が、大声を出しながら時計台を回って走っていく。おばあちゃんはファイトの握りこぶしを固めて一人一人を見送る。

　駅前広場を行き交う人はみんな、時計台の下のおばあちゃんを知っているみたいだ。

　いったい、どういうおばあちゃんなんだろう。先週越して来たばかりの僕には、見当もつかない。

　僕はおばあちゃんをなるべく遠巻きにして、目を合わせないようにして改札に向かった。

　明くる朝、駅前広場にはやっぱりおばあちゃんがいた。

　ホウキで時計台の下を掃いている。

　町の清掃係かなとも思うけれど、それにしては制服を着ていない。ただの割烹着の下から、もんぺの足が覗いている。すごく背が低いけど、背筋はしゃんと伸びている。

　不意におばあちゃんがこっちを向いて、目が合った。

「おはよう」

　と、おばあちゃんは笑った。

　いきなりの展開に、僕はびっくりする。思わず後ろを振り返る。誰もいない。

　今のは、僕へのおはようだったのだろうか。僕はおばあちゃんを知らないのに。

　困った僕は、どっちとも取れるようにあいまいに会釈して、駅に逃げ込んだ。

　そのまた次の日、時計台の下に、おばあちゃんはいなかった。

　時間がズレたのかと時計を見上げたが、いつもと同じちょうど七時。

　小さなおばあちゃんだけど、いつもの空間に誰もいないと違和感がある。サラリーマンもＯＬさんも中学生も、ちょっと首をかしげながら時計台の下を通り過ぎる。

　駅前広場の時計台の下をホウキで掃いているおばあちゃん。いたらいたで不思議だけど、いなかったらいないでまた気にかかる。

　かなりのおばあちゃんだし、病気とかだったら、いやだな。

　ふと思いついてから、そんなことを思いついた自分をいやだと、僕は思った。

　会社で、僕のアパートの前の住人に会った。大学からの先輩で、今は郊外のマンションに奥さんと二人で暮らしている。

　僕は先輩に、駅前広場を毎朝掃除しているおばあちゃんのことを聞いてみた。

「知ってるよ。ナナさんだろ」

　先輩はすぐにわかってくれた。

「駅前の駄菓子屋のおばあちゃんだよ。七人兄弟の末っ子だからナナさんなんだってさ」

　あの町には二年住んでいただけの先輩が、おばあちゃんの名前の由来まで知っているのに、僕は驚いた。

　七人兄弟なんて、一人っ子の僕には想像もつかない。詳しいですねと感心したら、胸を張られた。

「町中みんな知ってるよ、ナナさんのことは」

「じゃあ、僕、あの町じゃモグリですか」

　聞いてみる。

「モグリだな」

　笑われた。

　実際、僕はまだあの町のことをよく知らない。駅前に駄菓子屋があるなんて、全然知らなかった。

　僕は先輩に、今朝ナナさんがいなかったことを話した。

　先輩はちょっと心配そうな顔をしてから、ナナさんもたまには寝坊するさ、と笑った。

　そして次の日の朝。

　七時ちょうどの時計台の下、ナナさんはちゃんといた。

　もう僕もすっかり見慣れた動作で、時計台の下を掃いている。

　サラリーマンがニコニコしながらおはようと言う。ナナさんもおはようを返す。

　ＯＬさんが手を振る。ナナさんも手を振る。

　中学生のジャージ集団が時計台を回って行く。ナナさんは輪の真ん中で笑っている。

　僕は今日は遠回りをしないで、まっすぐナナさんに向かって歩いた。

　ナナさんと、目が合う。

「おはよう」

　目尻のシワを深くして、ナナさんは笑った。

「おはようございます、ナナさん」

　僕も笑って、会釈する。

　そうしてこの町の一員になった僕は、七時三分の電車に飛び乗った。

Fin.