やわらかそうな栗色の髪、華奢な輪郭と厚みのある唇、こちらを見上げてくる迷いのない眼差しの強さ。ファインダーの中には、学生時代の記憶と寸分違わぬ彼がいた。

　違うのは、年齢。私が出会った頃の彼よりも二つばかり若く、表情にはまだ少年のあどけなさが残る。

「布施さん」

　鼻にかかったような声で、私を呼ぶ。口調そのものは年頃の少年らしく無愛想だが、二回りも年上の私に無意識に甘えているのだろう。

　完全に私と対等だった、記憶の彼とは違う。彼、樋崎行人は、学生時代の親友だった。

　いま目の前にいるのはその息子。大学卒業後すぐ日本を離れ、三ヶ月前に帰国したばかりの私にとっては、二十年近い歳月を経た親友より、むしろ息子の容姿に懐かしさを覚えた。

　名前は、新しいと書いて、シン。父親のことは苗字で呼んでいたが、息子のことは名前で呼ぶ。

「何だ、シン」

　答えながら、私はシャッターを切る。

　私と親友の息子の、今の関係は、カメラマンとモデルだ。プロデュースを引き受けたブランドのイメージに合うからと、時々アルバイトしてもらっている。

　シンは、ルックスはいいが、他にモデル経験があるわけではなく、自分からポーズを取ることはまだできない。会話をしながら、立て座れカメラを見ろと、私が誘導して撮影するのが常だ。基本的には素直に私に従うが、飽きっぽいらしく、長時間の撮影には向かない。

「布施さん。腹、減ったよ。俺ケンタがいい」

　早くも飽きたのだろう。不満げにとがらせた唇で、シンが近場のファーストフード・ショップを示す。私はすぐには答えずに、黙ったままシャッターを切り続ける。

　シンは、カシミアのダッフルコートのポケットに手を入れて、後ろ向きに歩いている。背景には銀杏の葉が舞い、ファインダー・フレームの内側は、まるで一枚の絵だ。カメラ向ける私だけが切り取ることを赦された、華奢な輪郭、光の輪を髪に戴き、色の薄い瞳が風を追う。

　かつて私は樋崎を、こんなふうに独占したかった。

　姿形のよく似たシンが、今それを叶えてくれている。

「……無視すんなよ、布施さん」

　しびれを切らして、シンがこちらへずかずかと歩いて来た。モデル歩きでも何でもない、前屈みで粗野な男子高校生の歩き方だ。それでも恵まれた頭身の高さと、すらりと長い手脚のおかげで、それなりに絵になる。

　それにシンは、表情がいい。周囲から見目を褒められて育った人間は、自分の喜怒哀楽の表情が周囲に与える効果をよく知っている。スネた顔を作っても、不思議と人を魅了する。そのくせ、容姿を魅せるプロ意識のないシンは、レンズ越しの私の視線にふと照れたりもして、プロのモデルより新鮮だった。

「布施さん！　腹、減った」

　カメラの筐体を両手で捕まえて、シンが吠える。

　さすがにこれ以上シャッターを切ることは不可能だった。ブレるし、被写体が近すぎる。

「シン。それじゃ撮れない」

　カメラから離れるように手で指示すると、シンはくるりと背中を向けた。スタスタ歩き出した直線の先には、件のファーストフード・ショップがある。

　言っても私が聞かないので、実力行使というわけだ。

「わかった、わかった」

　苦笑いしながら、私もカメラを担いで後を追う。

　ようやく私が折れたのを知ると、シンは肩越しにニヤリと笑った。生意気だが、てらいのない笑顔が愛くるしい。

　そういう表情が、シンにはいちばんよく似合う。

◆

　マンションといっても、居住スペースはごくわずかで、ほとんどスタジオと暗室に使っている。シンを撮影するときも、日が傾いた後は毎回マンションでの撮影に切り替えていた。

「布施さんは何飲む？」

　慣れた仕草で冷蔵庫を開けて、シンが振り返る。彼の気に入りの辛口ジンジャーエールのボトルを右手にぶらぶら振っている。

「ワインがあるから、グラスだけくれ」

　私は応接テーブルの上に置きっぱなしの紙袋からワインボトルを取り出して見せる。先日、パリから来た友人が土産に置いていったものだ。開ける機会もなく、放置していた。

「昼から酒？　すげーな、うちの親父とは大違い」

　向かいのソファに腰掛けながら、シンがジンジャーエールのキャップをひねる。金属がすれて、炭酸の抜ける音が響く。

「フランスじゃ昼も普通に飲んでたから、習慣だな。役所勤めの樋崎は、そりゃ昼から飲まないだろ」

　私が笑うと、シンは横に首を振った。

「夜だってほとんど飲まないぜ。タバコも吸わなきゃ、ギャンブルもしない。腹も出てきたし、最近髪の分け目ヤバイし、ゴルフとスキーが趣味の、絵に描いたような日本のダメ親父だよ」

　ジンジャーエールを一口飲んで、肩をすくめる。

「いいお父さんじゃないか」

「でもつまんねえ」

　私のフォローをはねつけて、シンは買ってきたチキンにかぶりつく。

　父親の存在が理由もなく煩わしくなる、そんな年頃なのだろう。ほっそりした顎から牙のように覗く八重歯が少年らしい。

　私はテーブル越しに乗り出して、人差し指でシンを招いた。

「ここだけの話。学生時代は樋崎も相当馬鹿やってたんだぞ」

　顔を寄せてきたシンに囁く。

「ウッソだ」

「ウソじゃない。一緒に馬鹿やった人間が保証する。飲み過ぎて終電逃して、夜通し歩いて家に帰ったりとか」

　日本を二十年近く離れていた私にとっては、あの頃の思い出は今でも色褪せず鮮明だ。パリでの生活は現在の私につながる過去だが、学生時代の思い出は、時間の概念のない、まるで別の世界に思える。二度と戻ることはできないが、いつも心の一隅を占めている甘美な記憶。

　それをこうして、樋崎の息子に語って聞かせるのは悪くなかった。

「あいつ酒は強くないからな。べろべろに酔っぱらって飲み屋のオバチャンに痴漢未遂してみたり。オッパイ鷲掴みにしかけたところで、さすがに止めてやったが」

「げ、ありえねー」

　手で空を揉んで見せると、シンは口をへの字に歪めた。

　学生時代の樋崎は、飲めないわけではないが、悪酔いしやすく、酒関係の失敗を結構やっている。が、シンは父親のそんな姿を見たことがないらしい。夫となり父親となった今、酒を律するようになったというのは、生真面目な樋崎らしかった。

「あと、樋崎はスキーが巧いだろ。あれはゲレンデで女にモテようとして、猛練習した成果だよ。結局、開脚ジャンプやって着地失敗して、骨折して一月入院したがな」

「ダセェ」

　シンが鼻で笑う。

「そんで見舞いに来てくれた女の子を口説き落として、現在に至る。その子ってのが千佳ちゃん、お前のお母さんだな」

　指先で額をつつくと、それまで胡散臭そうに半目だったシンは、きょとんと目を丸くした。

「過去にあれこれバカをやったから、今のよき夫、よき父の樋崎があるわけだ。大人にはいろいろバッグ・グラウンドがあるんだぜ、シン」

　目を瞬いているシンの頭に、手を置いてかき回してやる。反発すると同時に、父親の大きさを知るのも、この年頃なのだ。

　頭をかき回されながら、シンが目だけを上げてこちらを見る。

「じゃあ、布施さんは？」

「え？」

　質問の意図をはかりかね、私は聞き返す。

「布施さんは、若いまま変ってない感じがする。親父と同じ歳なのに、中年太りしてないし、ハゲてないし、オヤジくさくないし……カッコイイ」

　私の手の下に頭を置いたままで、そんなことを言う。

　まっすぐに見上げてくる視線とまともにぶつかって、私のほうが慌てて手を離した。

「なに、言ってる。充分老けたよ。まあ、二十年近くも日本を離れてたからな、浦島太郎みたいなもんだ。私は変わらないつもりなのに、樋崎と千佳ちゃんは結婚してて、こんな大きな息子もいる。むしろ樋崎が羨ましいよ」

　あまり脈絡のない言い訳をしながら、私もチキンに手を伸ばす。食べ物を口に入れてしまえば、それ以上余計なことを言わなくて済む。

　シンも再び食事に戻ったが、相変わらず目を私に向けたままだ。

　樋崎と同じ色の薄い瞳に、子供らしい無遠慮な好奇心の色が浮かんでいる。脂のついた自分の指を舐めたりしながら、私が物を食べる仕草をじっと観察しているのだ。どうにも落ち着かない。

　私はチキンの残りをほおばると、よく噛みもせずワインで流し込んだ。好みの渋みの強いワインは美味かったが、それでもシンの視線を振り払う強さはない。

「……おい、シン」

　苦笑しながら目を上げると、シンの手が伸びてきた。

「俺も飲みたい、ワイン」

　私の手から素早くワイングラスを奪い、弧を描いて口へ。グラスの底に残っていたワインを一息に飲み干す。

「コラ、未成年！」

　慌てて取り返したが、既にグラスは空だ。

「……これ、渋い」

　眉間にしわを寄せて、シンが簡潔な感想を述べる。

　どうやら先ほどからシンが狙っていたのは、ワインだったらしい。

「ったく、ガキが。油断も隙もない」

　私はボトルの口にコルクの先だけねじ込むと、テーブルの足下に隠した。

「布施さん、ラベル。ワインのラベル、見せてよ」

　シンはなおも手を伸ばしたが、私は無視してシャツの胸ポケのタバコに手を伸ばした。箱を指で叩いて一本取り出し、火をつける。

　チキンも食えない、ワインも飲めないと来たら、タバコくらいしか逃げ場がない。

　香りの強い煙幕は少しだけ、シンの強い視線を薄れさせる気がする。

　ところがシンは、向かいのソファから腰を浮かせると、私の隣に移動してきた。二人掛けソファの真ん中に私が座っているので、中途半端にしか開いていない左側に、小さな尻を詰め込んでくる。

「何だ、シン」

　横目で睨んでみたところで、動じる様子もない。

「ラベル、見たい」

　私のほうは見もせず、足下に隠したワインボトルを引っぱり出し、ラベルのフランス語を無理やりローマ字読みし始める。見慣れぬ輸入品や、海外帰りの人間に、理由もなく憧れを抱く年頃なのだ。

「向こうの食事用の安物ワインだよ。日本じゃ見ないかもしれないが、別にいいもんじゃない」

　煙と一緒に、私は小さくため息をつく。

　肘や膝から触れてくる体温は、記憶の樋崎よりもはるかに高く、私とシンの年齢差を思い知らせた。告げぬまま、遠い思い出に封じ込めた恋心が疼くには、シンは生身の熱を持ちすぎる。

「布施さん」

　呼ばれて振り向くと、ごく間近に顔があった。華奢な輪郭、長いまつげ、樋崎と同じ、まっすぐに見上げてくる色の薄い瞳。

「何かいいにおいする。タバコ？」

　軽く顎を反らせて、鼻をフンフン寄せてくる。

「嗅ぐな、犬じゃあるまいし」

　近づいてくるシンの顔面を、私は思わず手のひらで乱暴に押しやった。いくら中身は子供でも、記憶の樋崎と同じ顔で不用意に近づかれるのは、心臓に悪い。

「イテテ。いいじゃん、減るもんじゃなし。嗅ぐのがダメなら、味見させてよ、それ」

　シンは悪びれもせず、私の手の下から這い出して、手を伸ばしてくる。ワインの次の獲物は、タバコらしい。

「ダーメだ。何が味見だ、悪ガキが」

　私は再び左手でシンの顔面を押さえ込みながら、右手に挟んだタバコを遠ざける。好奇心の固まりの相手をするのも楽じゃない。

「これは日本でも普通に売ってるタバコだぞ。別にいいにおいなんかしない」

　私から何か香るとすればコロンだろうが、タバコとコロンの区別も付かない子供に教えてやる義理はない。

「ちぇっ、ケチ。じゃあこっちで味見する」

　シンは自分を押さえ込んでいる私の手首をつかむと、するりと中に入り込んだ。ニヤリ笑いを浮かべた顔が不用意に近づいて、視界を埋める。

　まだふくよかな子供の唇の感触が触れて、すぐに遠ざかる。

「……マズイ」

　自分の上唇を舐めながら、シンが失礼な感想を述べた。

「当たり前だ、バカ！」

　他人の吸ったタバコの味なんて不味いに決まっている。まったく子供は、どこからこんなバカな味見を思いつくのか。

「布施さん」

　相変わらず甘えた声で、シンがすり寄ってくる。私は無視して、タバコを灰皿に揉み消した。これ以上、バカな思いつきをされては面倒だ。

　だがシンは、タバコではなく、私の顎に手をかけて振り向かせた。

「もっかい、味見」

　さっきよりゆっくり、唇を寄せてくる。まだ幼い、やわらかいままの唇をすりつけ、隙間から出入りする舌で、私の味を見る。ごく間近に光を薄く漏らした目が、こちらを伺っている。

　要は、からかわれているのだ。

　そう気づいて、私は抵抗をやめた。いちいち相手にしていたら、つけあがるだけだ。子供のキスのひとつやふたつ、それこそ減るものでもない。どうせまたすぐ飽きるだろう。

　私が好きにさせていると、シンは両腕を私の首に回してきた。窮屈な姿勢で伸び上がり、舐めていただけの舌先を合わせ目に差し込んでくる。

　子供だとばかり思っていたが、どうも慣れている。

　奥手だった昔の樋崎と違い、恵まれたルックスで遊んでいるようだ。子供とは思えない大胆な動きで、口の中をかき回され、舌をからかわれる。若い女の子なら、充分に楽しめるキスだろう。だが、男の欲情を煽るキスとは微妙に違う。

　主導権を握られたままなのが、だんだん退屈になってきた。もともと私は、ベッドでは常にイニシアチブをとるほうなのだ。

　試みに、生意気に動き回っている舌の先を吸ってみる。軽く、ではない。歯列で挟みこんで、痛みを感じるほどに強くだ。

　ビクリ、とシンが反応する。

　反射的に逃げかけるところを、腰を捕まえて固定し、上半身をソファの手すりに押し倒す。わざと股間に膝頭を押しつけると、浮いた脚がばたばた空を蹴る。

　構わずに、今度はこちらが舌を差し込む。頭は手すりを越えて向こう側に落ち、反らされて喉が伸びる。その喉の奥まで潜り込み、上顎を舐め上げてはまた突き入れる。数回繰り返すと、シンは目を完全に閉じて動かなくなった。私の膝に圧された股間が、熱い鼓動を訴えている。

　解放してやったのは、こちらもシンの味をたっぷり楽しんでからだ。額をつけた間近から、私はシンに忠告する。

「あまり大人をからかうな」

　それだけで、終わるはずだった。ガキにからかわれたのでやり返しただけの、子供じみた応酬だ。

　だがシンは、私を離そうとはしなかった。私の首に両腕を回したまま、じっと見上げてくる。

　樋崎と同じ、色の薄い瞳が、熱に潤んで私を映す。

「ふせ、さん」

　シンは、かすれた声で私を呼んだ。呂律の怪しくなった舌が、何を欲しているのか。

　抗いがたく、私はゆるゆるとシンに引き込まれた。からかうのではなく、意趣返しでもなく、壊れ物のように唇を重ねる。やわらかく沈んだ唇からかすかな吐息がこぼれて、舌先に甘く溶ける。

「……やっぱりいいにおいがする」

　上唇の端をつけたままで、シンが囁く。

　私は逡巡し、目をそらしかけ、再びシンに引き寄せられる。

　私の額の下につぶれたやわらかい前髪、小作りの顔立ち、熱すぎる鼓動を伝えてくる華奢な体躯。

　姿形が似てはいるが、これは樋崎ではない。樋崎によく似た、樋崎の子供。あの頃の樋崎はもう、遠い思い出に過ぎず、告げずじまいの想いごと永遠に失われたはずなのだ。わかりきっていることを、頭の中に反芻する。

　それでも、熱を持って絡みつくシンの腕を、私は振り払えずにいる。

　まっすぐ迷いなく見上げてくる、強い眼差しのせいだ。恋情を隠してはぐらかす私に、素直になれよ、と言うのが樋崎の口癖だった。人の気も知らず、心の内側まで見透かすような色の薄い瞳。二十年近く過ぎた今でも、私を捕らえて逃がさない。

「……ね、男同士のセックスってどんな？　女に訊かれて、答えられなかった」

　薄く開いていた唇がゆっくりと動き、かすれた囁きが耳をくすぐる。シンは声も、かつての樋崎によく似ている。

「試してみるか？　ベッドルームで」

　押し殺した声で訊くと、シンはかすかに笑ってうなずいた。

◆

　なめらかな肌は、ほんの少し強くついばむだけで、インクを落としたように赤く染まる。東洋人特有の均一な肌のきめは、パリの恋人たちと違い、私の嗜虐心を煽った。帰国してから決まった恋人もなく、私自身の気持ちに飢えがあったのも事実だ。口づけの刻印に混ぜて、私は獰猛な噛み傷を散らす。

　シンは、ごく素直だった。

　言われるままに衣服を脱いだし、指で促せば、まだ明るい日差しに若い裸体を晒した。要求通りのポーズを取りながら、私の視線には不意に羞恥の色をにじませる。撮影の時とまるで同じなのだ。

　私は仰向けになったシンの膝を立てさせ、両手で左右に開いた。若いペニスが硬く張りつめて、荒い呼吸にのたうつ腹の上に震えている。

　先端にあふれた蜜を舌先で拭うと、シンが小さな叫びを洩らす。女にしゃぶらせたことはあっても、男に責められたことはない。そういう反応だ。

　頬の内側に挟んで、舌で擦り上げる。同時に、指を差し込んで前立腺を転がす。慣れぬ感覚に、シンが息を詰まらせる。

　それでも、シンは体を私に預けたまま、拒む気配もない。吐息に混ざる喘ぎは次第に高く掠れ、やがて甘い声で鳴き始める。

　シンの声を聞きながら、私はまるで樋崎を抱いているような錯覚に陥る。顔も声も、よく似ているのだ。甘えるように絡みついてくる肢体が、私を追憶の底へと引きずり込む。速くなる鼓動が、現在と過去との境界を曖昧に溶かす。

　やがてあふれた精は、まだ若く、青いにおいがした。

「……ふせ、さん」

　求められて、再び唇を重ねる。私の口にまだ残る自らの精を、シンは丁寧に舐め取った。親鳥の口移しをついばむ雛のような無心さに、ふと罪悪感を覚える。

　シンは、何も知らないのだ。あの頃の樋崎が何も知らなかったように、シンもまだ子供に過ぎない。それに、二十年近くも昔の片恋に溺れるほど、私も若くはない。

　わかっているはずだった。

　いまならば、手放せる。シンの髪を撫でて、私一人ベッドから降りればいい。

　疲れたシンは夕方まで眠って、目覚めたときにはうたかたの夢だと思うだろう。私もほんの少し、過去と戯れただけだ。いま手放してしまえば、現在に支障は残らない。

　私はそっと唇を離すと、上半身を起こした。シンの髪を撫でて、極力やさしい笑みを作る。

「少し寝て行け。私は暗室にいる」

　だが片足を床に降ろしたところで、後ろから腕を掴まれた。熱い手が腕を伝って肩に上り、加減を知らぬ力で引っ張られる。仰向けに転がった私の顔に、いつの間にか体を起こしたシンが覆い被さった。

「なに、言ってんの。こんなにしといて」

　シンの片手が、私の股間へと伸びる。硬くなっていたものをいきなり熱い掌に握り込まれて、私は息を呑んだ。ここ数年記憶にないほど、体が欲情していたのは事実だ。

　自分のものをしごくのと同じ遠慮のなさで私を弄びながら、シンが顔を近づけ覗き込んでくる。

　うつむいて乱れた前髪越しに、色の薄い目を細めて、ニヤリと笑う。

「素直になれよ、ふ・せ」

　敬称を外したのは、ほんの少しふざけただけだろう。だが、あまりにも鮮明な耳覚えに、私はぎくりとする。

　素直になれよ、布施。

　それは、学生時代の樋崎の口癖だ。いつもギリギリではぐらかしていた私の本心をこじ開けようとする、残酷な子供のセリフ。いっそ告げてしまいたくて、けれど受け入れられないとわかっていて口にできるほど、あの頃の私は強くなかった。

　それを、今になって、再び試すのか。樋崎と同じ顔で、同じ声で、同じ眼差しの強さで。

　シンの唇がペニスに触れたとき、私の中で何かの糸が途切れた。二十年近くも張りつめ、ギリギリに引き絞られながら、決して切れたことのなかった糸。

　私の顔を跨いだシンの股間から、蜜が滴って新しい糸を引く。

　それから数時間の記憶は定かでない。

　私はただ夢中で、過去の情欲を貪った。

◆

　テクニックには自信があった。初めてでも、それほどひどくは傷つけないだけの経験を積んでいた。それだけの歳月を生きてきたのだ。

　だがシンの傷は、まるで加減を知らぬ子供に踏みにじられたように無惨だった。傷口が塞がらぬ内に、何度も突き入れ、引き裂いたのだ。裂傷がいびつに歪んだままで、表面の血が固まりかけている。これでは、今でも痛むだろう。

　指を入れて膏薬を塗り込むと、内部がひくりと収縮した。

　うつぶせに横たわる子供に、意識があるのか、ないのか。

　半ばシーツに埋めた横顔には陰影が落ち、表情が読めない。半開きのブラインドから忍び込む夜の街灯りは青く、シンの頬も青ざめて見える。時折過ぎるマンションのサーチライトが、目の脇を白く浮かび上がらせる。涙の乾いた跡。犯されながら、何度も泣いたのだ。

　せめてそのまぶたが閉じられているのが、私にとっては救いだった。己の欲望に任せて散々に踏みにじった後で、あの強い眼差しを見返す勇気はない。

　白いシーツの所々に、赤黒い飛沫が染みている。きめの細かい肌にも、歯型や指跡に鬱血が点在している。ブランケットで体ごと覆い隠し、私はベッドを降りた。

　ベッドから落ちた片手をすくい上げて、その手首の細さに驚く。掌はもう充分に広いのに、まだ筋肉に覆われていない骨格は、ひどく華奢で頼りない。熱い指先が、まるで無意識の赤子のように私の手を握り返す。

　今更ながら、罪悪感がこみ上げる。

　これは、樋崎ではない。樋崎の、学生時代の親友の、大切な子供。少し好奇心が強いだけで、私が過去に封じた片恋なぞ知りもしない、現在の子供。悪戯が過ぎれば、周囲の大人が咎めるべきなのだ。

　それを私は、過去の情欲に巻き込んで犯したのか。

　すまない。

　声に出すつもりはなかった。喉の奥で、私は謝罪を囁く。握られた手を振りはらえぬまま、私はベッドサイドにひざまずく。

　すまない、樋崎。

　華奢な手を両手で包み、祈りを込めて額におしいだく。

　誰に赦しを乞うべきだったのか。

　顔を上げると、まっすぐこちらを見据える視線にぶつかった。色の薄い、迷いのない、正面から見返すには強すぎる視線。青い夕闇に凶々しく光る。

　いつから、目覚めていたのだろう。

「……謝ってんの、アンタ」

　低く、シンがうなる。声は掠れて、ざらついている。

「何で、謝ってんの」

　なじるような口調だった。シンは体を起こした。首筋に胸に、散らばる痣と乾いた体液とが目を焼く。思わず目をそらした私の顎を掴まえて、シンは声を荒らげる。

「アンタ、いま誰に謝った？　なあ！」

　噛みつく勢いで、シンは激高した。

　真正面から私を見据えた目が、爛々と燃えている。顎を掴んでいた指が、滑り落ちて私の首にギリギリと食い込む。徐々に息が詰まる。頸動脈を抑えられて、視界が明滅する。指の跡が残るだろう。このまま締め殺すつもりだろうか。それが報いだろうか。

　私は抵抗もせず、ぼんやり色の薄い瞳を見つめ返した。

　極端に狭くなった視界の中で、怒りに燃えていた瞳が不意に光を失い、嘲りに歪む。

　シンは、目をそらして手を離した。

　解放され、私はその場にうずくまりむせこんだ。

「……普通に抵抗しろよ。死ぬ気かよ」

　相変わらず低い声で、シンが頭上から吐き捨てる。

「あの、さ。アンタが誰を好きかなんてどうでもよくって、単に興味があったから、寝てみただけとか考えなかった？」

　続く声は、ひどく冷たかった。

「謝るくらいなら、最初からヤらなきゃいいんだよ。ヤったなら、開き直れよ。言わなくていいことわざわざ口にして。バカだよ、布施」

　呼び捨てられて、シンを見上げる。

　シンは、笑っていた。青い闇に照らされた、これまでに見たことのない、酷薄な冷笑だった。

　シンはベッドから片足を引き抜くと、床ではなく私の膝を踏みしめた。

「布施、さ」

　若い裸体を晒して、シンが私を見下ろす。

　これは、樋崎ではない。姿形は似ているが、樋崎ではありえない。そして、庇護され同情される子供でさえ、ない。

「次の撮影までに考えといたほうがいいよ。俺を取るか、親父に義理立てするか、さ」

　見透かしていたのか、シンは最初から何もかも。私は言葉もなく、色の薄い瞳を見上げる。

「選択次第では、俺がしゃべってアンタ親父の信用も失うよ」

　喉の奥で、シンは笑った。

　サーチライトが部屋を横切る。刹那浮かんだ顔はやはり樋崎によく似ていて、だが何故か、モノクロームに色褪せて見えた。 　

Fin.