五日ぶりに帰った一人暮らしの所員寮に、待ち人のあるはずもない。

　だがいぶかしむより先に、あるはずもない甘い期待がこみあげた。もしかしたら。着たきりの白衣の下で、左胸が小さく疼く。

　合鍵を渡したのは、一月も前だ。

　合鍵があるからと言って、彼がそれを使う気になるとは限らない。片思いと自覚していたから、はじめの三日であきらめていた。

　今さら、とは思う。今さら、来るはずがない。今さら、来たところで、彼得意の気まぐれに決まっている。

　帰ったら、食事もせずに寝てしまおうと決めていた。この五日というもの、研究所のソファで仮眠を取っただけで、体は布団が恋しいはずだ。

　それがすっかり、眠ろうという気分が飛んでしまった。もし彼がいなかったとしても、その後心安らかに眠れるかどうか。

　まったく、人騒がせである。彼だけが、そうさせる。

　細く灯りの漏れる、引き戸を開ける。

　彼の人は、そこにいた。

　コタツに下半身を入れ、片腕を枕にして横たわっている。顔を向こうに向けているので、表情は見えない。規則正しく、深い、寝息が聞こえる。

「……カーマイン」

　近づいて、名を呼んでみる。

　反応は、ない。

　忍び寄り、枕もとに膝をつく。覗き込むと、無防備な寝顔が見える。

　彼は何故、こんなところで熟睡しているのか。どんな事情で、どんな気持ちで、ここに来たのか。彼のことだ、一貫性のない、突飛で不可解な由来には違いないだろうが。

　最後に会ったのは、クリスマスの頃だった。雪に降られて、アパートまで帰るのが面倒だから泊めろと押しかけてきた。思いがけぬ、幸運だった。

　どさくさに紛れて、十年来の想いを告白し、勢いで体の関係を持った。彼は数日をここで過ごし、ふらりと出て行った。

　それきり一月、音沙汰がなかった。それが何故、ここに来たのだろう。

　コタツの上には、彼が食い散らかしたらしいインスタント・ヌードルとミネラル・ウォーターのボトルが載っている。彼はいつ、ここに来たのだろう。

「……カーマイン」

　もう一度、名を呼んでみる。本当に起こす気があるのか、自分でも苦笑がこみあげるほど、小さなささやきだ。深夜の静寂に消え入りそうに、語尾がかすれる。

「ん……」

　わずかに、彼が身じろいで口が尖る。

　起こしてしまったかと身を竦め、だが目覚める気配がないのを見て、ほっとする。起こして来訪の理由を聞きたいとも思うのだが。

　彼の頭の横に手をつき、寝顔を間近に覗き込む。

　閉じたまぶたに影が落ちても、彼はいっこうに目覚める気配がない。くるくるとよく動く、明るい茶色の瞳は、今は夢を見ていることだろう。

　癖の強い赤い髪が、頬にかかって、寝息に合わせてかすかに上下している。伏せられたまつげと、くっきりした眉も、赤みがかっている。頬と顎にうっすら伸びた髭も、同じ。

　頬は、子供のように紅潮している。何の夢を見ているのか。

　赤毛に埋もれた耳朶も、ほんのり赤い。

　そっと指先で、耳孔に落ちた赤毛をすくい上げる。彼は、気付きもしない。健やかに、天使の眠りを貪っている。

　耳朶は、ふっくらとして豊かなほうだ。ハイスクールの頃には、穴を開けて、髪色に合わせたイミテーションの赤い石を入れていた。

　この頃はもう、しなくなったのだろうか。指で耳朶に触れて、探ってみる。

　ふっくらとやわらかいようで、中に硬いものがある。他の皮膚に比べて冷たいようで、かすかな体温がある。細かい、金のうぶ毛が覆っている。光に当てれば、赤みを帯びて見えるのだろうか。

　ピアス穴らしきものは、探し当てられなかった。

　探し方が、悪いのか。ピアス穴など開けたことがないので、どこを探ればいいのか、金具を入れていないときにどういう状態になっているのか、見当がつかない。

　実際に、ないのだとしたたら、いつから、つけなくなったのだろう。何故、つけなくなったのか。ハイスクールの頃の明るく奔放な彼に、挑戦的な赤い輝石はよく似合っていた。

　不意に強烈に、あの頃の彼の耳を、いとおしいと感じた。

　動き回り、跳ね回る赤毛の中で、冷たい石を載せて光っていた耳朶。行動パターンが単純明快に見える彼の、複雑な内部に誘い込む溝。陽気に笑う彼の中へ続く、暗い耳孔。

　いまは静かに、目の前に横たわっている。

　そっと身を屈めて、唇を寄せる。寄せた唇から漏れる風に、うぶ毛がかすかに震える。

　やわらかく、唇に挟んでみる。彼の髪のにおい、汗のにおい、寝息に、彼独特の甘さがこみあげる。

　彼はまだ、目覚めない。

　舌を絡めて、表面のやわらかさと、中の硬さを味わう。舌には苦く、睡眠不足の脳には甘い、不可思議な舌触り。

　軟骨をなぶり、舌を中に差し込む。

「……ウ」

　さすがに、彼の目覚める気配がした。

　驚き、慌てて身を起こす。正座して、彼の顔の横についていた邪な手も、膝の上に揃える。

　いったい、何をしていたのか。

　恋人同士ならば、布団の中で戯れに、ときにそういう場面もあるだろう。だが、彼とは、恋人というわけではない。ましてや、突然の来訪者が、無心に眠っているうちに、だ。

　やさしくキスをして、起こそうとするならわかる。無防備な寝顔に、前戯で誘いをかけるというのも、許されるかもしれない。ところが、起こさぬように用心しながら、いきなり耳の中へ侵入を試みるとは。

　腕を伸ばして寝返りを打ち、伸びをしながら、彼がこちらを向く。

　彼は、何と言うだろう。

「……あ、帰ったのか、アカシ」

　やや呂律の回らない口調で、彼は私を見上げてそれだけを言った。まだ、寝ぼけているのだ。

　おそらく、けしからぬ所業には気付いていない。

　それでもどんな顔をしてよいかわからず、膝の上で拳を握り締める。しわの寄った白衣の裾に、さらに複雑なしわが織り込まれる。

　彼が気付いていないのなら、何気ないふりをとりつくろって、何故ここにいるのか、何故ここに来たのかを、こちらから詰問すればいい。そもそもの立場は、こちらのほうが優位なのだ。

　にもかかわらず、身動きができない。

　普段はそこにあることさえ感じたことのない、血液を全身に送り出す器官が、さかんに自己主張している。

　どうしていつも、彼だけが。

　身動きのできぬ私の前で、彼は起き上がり、目をこすった。振り向き、今度は対等な高さで覗き込んでくる。

「……何だよ、アカシ。お前、耳まで真っ赤だぞ？」

　ひょいと耳たぶをつまんで、にやり笑う。

　私はただ、目をそらして首を横に振る。気恥ずかしくて、まともに顔が見られない。

　彼の指の触れた、耳が熱い。

　困惑する私を置き去りに、彼がここに来た経緯を聞かれもしないうちに語り始める。どうせ突飛で、他人には不可解だろう事情を聞き流しながら、ぼんやりと考える。

　どうしていつも、彼だけが、こんなにも特別なのだろうか、と。

Fin.