黒のハイネックに黒のフレアスカート。胸に下げた青い石のついたペンダント・ロケットには、きっと亡くなった旦那さんの写真が入っているんだろう。

「あの、このたびはご愁傷様……」

　月並みな言葉を口にするあたしを、亜美ちゃんは笑って遮った

「いいのよ、まこちゃん。ドクトルが亡くなったのは、もう半年も前だから」

　エアメールで彼女の結婚報告が送られてきたのは八年前。白い髭を蓄えたドイツ人の紳士は、留学先の大学院の恩師だと聞いている。二回り以上も年が離れていたから、彼女より先に亡くなるのは必然だった。

「ごめんね。空港まで迎えに来てもらっちゃって。お店やおうちは大丈夫？」

　彼女の笑顔に暗さはない。あたしは内心ほっとしながら、両手を振る。

「大丈夫だいじょーぶ。お店はお義母さんがいるし、子供も部活で夜まで帰らないから」

　あたしは今、フラワーショップを経営している。とは言っても、アルバイト先のフラワーショップにお嫁入りしただけで、まだまだ元オーナー・お義母さんのもとで修行中のヒヨッコ店主だ。お義父さんと旦那は普通に会社勤めで、子供が一人いる。

「あ、車こっち。荷物それだけ？　ゴメンね、ちょっと派手な車だけど」

　空港へはお店の車を借りてきた。うちにはそれしかないから。小型のワゴンだけど、側面に花模様とお店のロゴが入っているのが恥ずかしい。

　亜美ちゃんは車の外観にはまったく動じず、少し高い助手席に乗り込んだ。

「みんなも誘えばよかったね。美奈子ちゃんは仕事が忙しいかもしれないけど、うさぎちゃんとレイちゃんくらいならこの車に乗せて来られたのに。今からでもみんなにメールしようか」

　美奈子ちゃんは旅行代理店勤務で、世界中を忙しく飛び回っている。うさぎちゃんは専業主婦で、レイちゃんは裕一郎さんと神社にいる。誘えば、出て来られたはずだ。空港までは無理でも、夕方にどこかに集まってもらえば。

「ねえ、まこちゃんおぼえてる？」

　でも亜美ちゃんはあたしの問いかけには答えず、逆に聞いてきた。

「高校生の頃、まこちゃんが失恋するたび、私が話を聞いてたわ」

　いきなり二十年も昔のことを言われて、あたしは苦笑して頭をかく。

「あはは、おぼえてる。おぼえてるよ。失恋するたび、亜美ちゃんに来てもらってた」

　高校生の頃のあたしは、しょっちゅう誰かに恋をして失恋をして、そういうのを全部亜美ちゃんに聞いてもらっていた。あの頃の恋なんてはしかみたいなもので、三日もすれば忘れてしまうようなものだったけど。

「だから今日は、私がまこちゃんに慰めてもらおうと思って」

　シートベルトを締めながら、亜美ちゃんがいたずらっぽく笑う。年月は経ったけど、亜美ちゃんの笑顔はやっぱり可愛い。

「う、うん」

　私が真顔でうなずくと、亜美ちゃんは笑った。

「そんな身構えなくていいのよ。ただ話を聞いてくれれば」

　シートに背を預けて、フロントグラスのほうを見る。あたしは車のエンジンをかけた。

　ただ話を聞くだけでいい、という言葉の意味が、今ならよくわかる。あたしも昔はそうやって、一方的に彼女に話を聞いてもらっていた。何かアドバイスが欲しいわけじゃない。ただ聞いて欲しい。行き場のない気持ちを全部聞いて、全部許して欲しい。

　あの頃には、こんなふうに逆の立場になる日が来るとは思いもしなかったけれど。

　空港の駐車場から、あたしは海沿いの道を選んだ。九月の空は抜けるように青い。今日はまた特別天気がいいんだ。まだ陽差しは強いけど、少しだけ開けた窓から入り込む風はもう涼しくなり始めている。

「ね、まこちゃん。息子さんはおいくつになった？」

　どんな話をされるのかと思ったけど、亜美ちゃんはまずあたしのことを聞いてきた。内心であたしはほっとする。

「トモ？　十六だよ。高校二年生」

　友哉は、あたしの息子。十九歳で旦那と結婚して、翌年に生んだ子だ。

「高校生！　大きくなったのね。ついこの間まで、こんなに小さいと思っていたのに」

　亜美ちゃんが手で胸のあたりに線を引く。最後に亜美ちゃんと会ったとき、友哉はまだ小学生だったっけ。

「背はもう私より大きいよ。まだまだ中身は子供だけど。旦那もノッポだから遺伝だね」

　大人になると、時が経つのが早い。あたしがトモの年頃になるまでにはすごく長かったように思うけど、トモが生まれてあたしの背を追い抜くまではあっと言う間だった。

「旦那さんはお元気？　もう随分お会いしてないけど」

「うん、元気元気。相変わらず泊まり込みが多くてさ、あたしもあんまり会ってないけどね」

　旦那はシステム関連会社勤務で、出張も泊まり込みも多い。結婚生活は長いけど、お義母さんやトモと一緒に過ごした時間ほどには、旦那の顔は見ていない気がする。結婚って、案外してみるとそんなものだ。

　若い頃は次々といろんな人を好きになって、だから今の旦那もすぐ好きになれた。アルバイト先の花屋の息子さんが、もし別の人だったとしても、あたしはきっと好きになれたように思う。幸運だったのは、旦那もあたしを気に入ってくれたこと。

「あまり会ってないなら、まだ新婚みたいなものかしら？」

　亜美ちゃんに言われて、あたしは頭をかく。恋愛体質のあたしは、今だって旦那に恋ができると思う。

「そうそう、久しぶりに顔見るとときめいちゃったりして……って、何言わせるんだよ、旦那もあたしもいい年なのに！」

　あたしが赤面すると、亜美ちゃんはクスクス笑った。

「変わらないのね、まこちゃん。日本に帰ってきたって気がするわ」

　そう。亜美ちゃんは久しぶりに帰ってきたんだ。

「本当はね、ちょっと心配だったの。みんなに会ったら、私だけ浦島太郎だったらどうしようって」

「大丈夫。みんな全然変わってないよ。年をとって環境が変わっても、中身はおんなじ」

　お互いまだ子供で、夢ばかり見ていた頃に知り合った亜美ちゃん。あの頃のあたしの夢は、お嫁さんかお花屋さんだった。

　時が流れて、今のあたしは、その両方を叶えている。いざ夢が実現してしまうと、毎日が夢のよう、というわけにも行かない。日々は楽しいこともそうでないことも等しく積み重ねで、ささやかな幸せが明日への糧だ。

　亜美ちゃんも、あの頃からめざしていた医者になった。彼女の場合は、あの頃から夢と言うよりもっと現実味があったけど。医者になってからもドイツで研究を続け、亡くなった旦那様のノーベル賞受賞には、彼女の助手としての功績が大きいって噂だと美奈子ちゃんに聞いた。

　そんな亜美ちゃんが、こうして今あたしの助手席にいるって、何だか不思議な気がしてくる。夢見る少女の頃から年を重ねて、夢は現実になり、けれどあたしたちは変わらず一緒にいる。

　子供の頃どんなに仲がよくても、時が経てば離れたりする。でも亜美ちゃんとあたしはそうじゃなかった。帰国して、真っ先にあたしに連絡をくれた。当たり前のように思っていたけど、もしかすると、それは奇跡みたいなことで。

「ねえ、まこちゃん。向こうの岬の教会、素敵だと思わない？」

　不意に、亜美ちゃんが身を乗り出して前方を指さす。

「あー、あれ？　岬の教会ってロマンチックだよね」

　海岸沿いを続く道路からはずれて、波打ち際にせり出す岬の突端。高い三角屋根に十字架をいただく教会は、遠くからでも目を引いた。

「ね、ちょっと寄っていかない？」

　珍しく、亜美ちゃんが寄り道を提案をする。

「いいけど。何かあるのかい？」

　あたしは理由を聞いてみる。だって昔の亜美ちゃんは、学校帰りに寄り道なしようなんて、決して自分からは言い出さない子だったから。

「日本を発つときにね、空港に向かうリムジンからあの教会が見えたの。そのときは寄り道なんかする余裕がなかったけれど、いつか日本に帰ったら、行ってみたいって思ったのよ」

　教会から目を離さずに、亜美ちゃんが答えた。

「へええ。何だか運命的だね、そういうの」

　今の亜美ちゃんには、寄り道をする余裕ができた、ということだろう。あたしは岬に向けてハンドルを切る。

　未来を夢見ていた少女の日々はつい昨日のことのように思い出せるのに、気がつけば随分と時が過ぎた。あたしも亜美ちゃんも大人になった。変わった部分もあるし、変わらない部分もある。

　そんな二人が、今こうして一緒にいる。それはやっぱり、奇跡のような運命に違いない。

　平日の昼下がりの教会に、人気はなかった。がらんと広い礼拝堂を亜美ちゃんと二人で歩く。

　天窓のステンドグラスから、色とりどりの光がおごそかに降り注ぎ、石畳の床に模様を描く。

「きれいね」

　祭壇の前に立って、ステンドグラスを見上げる。昼間の教会は明るくて、静謐だ。

「うん」

　並んで、ステンドグラスの聖母を見上げる。腕に抱いた愛し子、慈愛に満ちた表情、眠るように閉じられた目。

「本当はね、私、ドクトルの息子さんと結婚しないかって、言われていたのよ」

　唐突に、亜美ちゃんは語り始めた。あたしは亜美ちゃんを見たが、亜美ちゃんはステンドグラスを見上げたままだった。

「私を日本に帰したくない、息子さんと結婚して、ずっとドクトルの研究を手伝ってくれって言われて。息子さんは、私より五歳年上だったかしら。同じ大学にいたけど、私も息子さんも何とも思わなくて」

　優秀な亜美ちゃんは、留学先の大学院でドクトルにそれは気に入られたのだと言う。ノーベル賞を受賞するような高名な医学博士に。

「だから私、答えたの。私がドイツに残るとしたら、尊敬するドクトルのおそばにいるという理由ですって」

　亜美ちゃんは、相変わらず天窓を見上げたままだ。ステンドグラスの聖母に語りかけるように。

「ドクトルは亡くなった奥様を心から愛していたけど、私のこともとっても大切にしてくれたわ」

「……うん」

　気の利いた相づちは打てず、あたしはあいまいに頷く。エアメールの結婚報告の他には、亜美ちゃんから旦那様の話をほとんど聞いていない。たまの一時帰国も、あたしたちと会うときは亜美ちゃんは一人だったし、ノロケ話だって全然しなかった。

　本当に結婚しているのかと、不思議に思ったくらいだ。

「ドクトルが亡くなって、私がドイツにいる理由はなくなった。それでいろいろ片づけて、以前からお誘いのあった日本の大学にお世話になることにしたの」

　それでも、あたしたちには見えないところで、彼女の結婚生活はたしかにあったのだろう。

　ドクトルがニュースで報道されたとき、傍らには亜美ちゃんがいた。ブラウン管越しに見る彼女は、まるで別の世界の人間に見えたっけ。

「私の結婚生活は、そのまま研究生活だった。ドクトルのやり残したテーマで、私はこれからも研究を続けるのよ」

　そう言って、亜美ちゃんはあたしを振り返って微笑んだ。微笑みながら、大きな目は涙に潤んでいる。

「……そうかあ」

　何と言っていいかわからず、我ながらマヌケな相槌を打つ。でも他に思いつかないし、たぶんこれでいい。

　ふふっと亜美ちゃんは小さく笑って、また天窓を見上げた。

　潤んだ大きな瞳に、ステンドグラスの光が降り注いで色とりどりに反射する。

「……不思議よね。まこちゃんにこんなこと話してるって。出会ったばかりの頃は、考えもしなかった。時が経てば、当たり前のことなのに」

　亜美ちゃんも、同じことを考えていた。

　時が過ぎて、あの頃とは何もかも違っている。あの頃は仕事も、恋も、結婚も、全部が輪郭のあいまいな夢だった。夢はいつのまにか現実になり、その現実もやがては過ぎて、過去になっていく。

　けれど大人になった二人は、あの頃と変わらずこうして並んでいる。

「……うん」

　頷いたあたしの右手に、亜美ちゃんの指先が触れた。海風で冷えた、華奢な指。

　反射的に、あたしはその手をつかんだ。指先からたぐり寄せて、手の中に引き寄せる。

　亜美ちゃんの手は、小さくてなめらかだだった。毎日花を扱うあたしの手は、荒れていて、でも温かく、亜美ちゃんの手をすっぽり包み込めるくらいには大きい。

　ぎゅっと、あたしは亜美ちゃんの手を握った。

　亜美ちゃんも、あたしの手を握り返した。

　互いの熱が、手のひらから伝わって、二人を包み込む。

　こんなふうに手をつなぐのは別に初めてでもないはずのに、何であたしは、いままでこの温もりを知らなかったんだろう。いま初めて、気付いたんだろう。

　亜美ちゃんはずっと、あたしのそばにいてくれたはずなのに。

　天窓を見上げる亜美ちゃんの目から、一筋の涙が流れる。亡くなったドクトルのための涙に見えるかもしれないけれど、それは偽り。追想のための涙なんかじゃない。いま、のための涙。

　長い長い年月を経て、やっとたどり着いたいま。こうして二人で並んでいる奇跡に、あたしは心から感謝した。