驚いて見上げれば、春もまだ浅いというのにノースリーブのロングドレス、透けるシフォンのショールに肩を包み、久しく合わせなかった顔が婉然とほほえんでいる。

　いつも不思議に思うのだが、普段着はパンツルックばかりのくせに、まことはドレスとなると高校生にはおよそ相応しくないような大人びたものを揃えている。今着ているのは、チャイナに近い。ダークグリーンのビロードを金糸の刺繍が豪奢に縁取り、長身の彼女にぴたりと添って肉感的なラインを描いている。

　亜美ちゃあん、お邪魔してもいーい？

　垂れ下がる金のピアスを揺らし、彼女には珍しい否を封じる甘えた口調で首をかたむける。

　いいけど、私は言って、先を飲み込んだ。時刻はとうに夜の十一時を過ぎている。日曜で休みだった母が自室で寝ている。できれば起こしたくない。

　ごめんね、母が寝てるの。私の耳打ちが聞こえたのかどうか、長身をかがめ、まことはもうブーツのファスナーをおろしている。なめらかな栗毛が丸めた背をすべり、コンクリートの床につきそうだった。

　私はあわてて一歩退き、せめて玄関に上がるように促した。

　こんなに遅く来たのだから、今夜は泊まるつもりなのだろうか。一月ぶりの意外さに戸惑いながら、用心深く錠をおろす。

　振り返れば既に彼女は、勝手知ったる我が家のリビングに移動したようだ。

　同じ高校でも二年の後半ともなると、それぞれの進路によって生活が変わってくる。

　学校の違うレイは相変わらず持ち上がりだが、私大の英文科を目指す美奈子は、学校での選択科目を減らし私塾に通い始めた。うさぎは卒業とともに結婚するのだと、母親のもとで花嫁修業に励むことが増えた。まことは進学しないからと放課後は花屋でアルバイトをしている。私は後期から理系の選択科目が増え、通信教育と週末の模試、学年末試験期間からは彼女たちとほとんど会っていなかった。

　特にまことは、式や歓送迎会や彼岸でアルバイトが忙しいらしく、うさぎの修行成果発表会に皆が呼ばれたたときにも顔を出さなかった。まこちゃんに褒めてもらいたかったのにぃ、とすねたうさぎは愛らしく、私は少し妬いたのだ。

　おくれてリビングに入れば、灯りももつけず、まことが二人掛けのソファの隅に小さく座っている。抱えるように曲げた脚が左脇の深いスリットからこぼれ、私のつくる影に白い肌が浮かんだ。

　ごめん、靴下脱いじゃった、きついんだもん。

　ふふ、と彼女が笑う。私は努めて冷静に灯りをつけた。淡い光に照らされると、彼女の足下にストッキングがなんとなくたたまれているのが見える。にこにこと頬を上気させ、うるんだ瞳で見上げてくる彼女は、推測するに酔っている。

　まこちゃん、酔ってるの？

　私の問いに、彼女はこっくりとうなずいた。

　軽いため息をおさえ、私はキッチンへ向かった。酔い覚ましの水を友人に差し出すなんて初めてだ。

　目を離してわずかの隙に、今度はシフォンのショールが床にわだかまっている。ノースリーブの肩をあらわに、まことはソファの手すりに崩れていた。

　まこちゃん、お水。

　母を起こさぬよう彼女の耳元に口を寄せて、そっと肩を揺する。かすかに汗ばんだきめの細かい肌がひたりと手に吸いつく。

　彼女はぼんやりと目を開け、でもシャンパン二杯だけ、と呟いた。

　前の学校の友達のね、結婚式だったんだ。体の弱い子でさ。ほんとよかったよ。

　とっても可愛くて、きれいだった。ドレスがまあるく広がってね。

　あたしのつくったブーケを持って。サービスで、こんなに大きいの。

　郊外の、前の学校ちょっと田舎だったからさ、近くの小さな森みたいなとこの教会。ちょっと遠かったけど、すごくきれいなとこだったよ。

　二次会もね、おしゃれなレストランで。入口のところでね、シャンパンをあけたんだ。ポンッて音がするんだ、本当に。それで虹みたいに、ちょっとかかっちゃったけど。それがね、すごくおいしくて。

　まことの好みそうなほのぼのとした式らしかった。今時あるのかというような。

　私を見ているのか見ていないのか、いつもよりも大きな目が濡れて輝いている。量は少なくともシャンパンで悪酔いする人はいるものだ。力の抜けた唇は薔薇色に艶めいて、化粧をしているのだと気がついた。

　私はつかんだままの肩を離しあぐね、左手に水の入ったグラスを持ったまま、彼女を抱くようにして話を聞いた。酔って呂律が回らないというよりも、眠たげな子供の話し方だった。

　それで、来たんだよ、近くだからって。あのひと。あのひとさ、

　あの人？

　うん、あのひと、ね、赤ちゃんつれて。奥さんと。可愛いかった、すごく。

　急に声が掠れた。泣くのかと、思った。だが、まことは話しやめなかった。

　奥さん、亜美ちゃんみたいな、ショートの。可愛い人だったな……

　単調だが途切れることなく早口にもならず、膝立ちの私の肩にもたれて、彼　彼女の声はいつまでも続く。ときどき細く高く掠れるたびに、私の胸は痛んだが、まことは話しやめようとしない。

　そのうち、何を言っているのかどうでもよくなってきた。ただ彼女が平然と話し続けることが、つらかった。

　いつもなら、泣くのに。

　徐々に重くなる彼女の額を感じながら、私はおし黙って、グラスの水が揺れるのを見ていた。

　私の肩にもたれたままの不自然な姿勢で、まことは眠り込んでしまっていた。

　ゆるやかな寝息のリズムが素肌の肩越しに背のラインに流れていく。彼女が寝入ってからしばらく、私はぼんやりと動かなかった。

　春先にこんなところで居眠りしていたら、風邪をひいてしまう。ブラウスにカーディガンを羽織っている私ですら肌寒いのだから、ノースリーブで素足すら投げ出しているまことはなおさらだ。頭ではわかっているが、しびれたように身体が動かない。

　彼女の身体から、シャンパンが香るせいかもしれない。

　甘く朽ちた果実の奇妙に若い匂い。香りとしてはほのかなそれは、鼻腔を通らず、じかに私の中に入り込んでくるようだ。気泡を含んで膨れた香りが、感傷を伴って身体の底につもっていく。

　まこちゃん、

　そっと呼んでみた。こんなところじゃ風邪をひくから、そう言いたかったのに、のどからこぼれた声はひどく掠れた囁きになった。底によどんでいた気体がのどまで達したような感覚だった。

　まこちゃん、もういちど、私は彼女の耳に用心深く低く囁く。眠っているまことがぴくんと身じろぐ。ここは寒いから、ベッドに行こう。ねえ。

　立ち上がりながら仰向かせると、まことは重いまぶたを開きかけ、だがすぐにつむってしまう。子供を抱き上げるように背中に手を回し、操り人形のような彼女の身体をぐにゃりと引っ張り上げる。正直、脱力した人間の体は重い。崩れそうになり、危ういところで支え、私は少しきつい声を出した。

　命令調に彼女はまたびくんと身じろぎ、あとは私の指示におとなしくついてきた。

　それでも短い廊下をぬけ自室のドアを開け、彼女をベッドにおろすまでには息が切れた。物音で母が目を覚まさなかっただろうか、懸念をうち消すようにドアを閉める。

　一仕事を終えると、周囲の静けさが耳についた。深夜の一時を過ぎ、カーテンに隔てられた外の音は昼間よりも遠くに聞こえる。ベッドに眠り込むまことは、身じろぎもしなければ寝息も立てない。彼女は熟睡中でも呼吸が浅い。

　よほど疲れていたのだろう。他人の幸せに傷ついた心と、泣くことさえできなかった身体と、経験のなかったアルコール。

　可哀相だな、と思う。彼女の痛みを、幸せな花嫁と子連れの若い夫婦と絵に描いたような式の出席者の誰一人、そしてここにいる私も、きっとわかってやれない。泣くこともできず、彼女はただ眠っているのだ。

彼女の傍らにそっと腰掛ける。私の部屋はベッドの対角に勉強机があるだけで、他に座るところがない。

　顔を近くに寄せて、ようやく静かな寝息が聞こえる。寝顔はむしろ穏やかで、表情がやさしいと思う。泣いてしまえば、こんなふうに聞き分けのよい顔をせずにすんだのだろうか。閉じた瞳に涙のあとはない。

　その目が、いきなりぱちりと開いて私は驚いた。

　きつい。

　ひとこと発して目を閉じ、意識か無意識か首のあたりを乱暴にいじりはじめる。スタンドカラーがのばした体を締めつけるのだろう。深いスリットからも長い足がもぞもぞと這い出している。

　きついの？

　おうむ返しに聞き返して、手伝ってやる。

　飾りひもの留め具は思ったよりも扱いづらく、目を閉じたままではもどかしいのだろう。私の手と入れ替わりにあきらめた手をだらりと投げ出し、まことは仰向けに体をゆだねてしまった。

　まるで母親のような、というよりもやましさが思わず先に立ち、私はためらった。ためらいが指先に伝わり、もたつきが余計にやましさをあおる。たどたどしく開いていくビロードの隙に白い谷間がのぞくと、後ろめたさがじわりと染みるのがわかった。

　ドレスの下の、まことの上半身は黒のビスチェにやわらかく締め付けられていた。胸部から腹部まで覆う厚手の生地を細い紐がクロスに縫い、豊満な乳房が鎖骨にこぼれそうだ。窮屈なわけだった。

　そっと結び目をほどいてやるとまことはほっと息をつき、うつぶせに寝返って自分で背中のファスナーを下ろした。ノースリーブの肩から見えるのをおそれたためだろう、肩紐さえなかったそれははらりと肌をすべって落ちた。

　あとに残ったのは総レースのショーツだけで、私はいたたまれずに部屋の照明を落とす。つけっぱなしだった勉強机の蛍光灯が、ベッドカバーの上に裸でうつぶせるまことを青白く残し、私は途方に暮れる。

　布団を掛けてやらなければやっぱり風邪をひくし、私も眠れない。まことはその布団とベッドカバーの上に寝ていて、隣室の客用布団は母が使っている。他に予備はない。

　まことを端に転がして、下敷きとなっている布団を取り出すほかなさそうだ。

　停滞しがちな思考でそう判断を下し、手を伸ばした刹那。

　ふうというかすかなため息とともに白い手が私の手をとらえ、やわらかな腕が私の首にしがみつき、二つのふくらみの間に私は抱き込まれた。目は白い闇に耳は自分の鼓動にふさがれ、私は濃く甘いシャンパンの匂いの中に屈服させられていた。

　私をからめ取った指先は髪を忙しく梳き求め、きめ細やかな素肌がしっとりと馴染み、私はたまらない衝動でそれを吸った。私が身じろぐと重なる肢体が反応して甘く悶え、夢中でそれを抱きしめた。

　彼女の素肌にこんなに密着したのは初めてだったし、彼女の筋肉が踊るのにこんなにじかに触れていたこともなかった。

　が、彼女の膝が私に触れて、ひやりとした感触にようやく我に返った。　

見上げればまことは意識があるのかないのか、目を閉じて眉を寄せている。何かを待つような、喜怒哀楽のどれでもない、奇妙な表情だった。

　身体を離すと、まことも動かなくなった。

　彼女はやはり待っていたのだ。

たとえば、まことの涙を解放してくれるもの。欲望に任せて彼女の体と心を傷つけ、痛みを重ねて前の痛みを打ち消してくれる何者かを。

　確かに、彼女の恋にはいつもそんなふうなところがあった。次から次へと恋をしながら、彼女はいつも同じ場所にいる。ぬぐい去られることのない、同じ痛みの上に立っている。彼女という存在が踏みにじられた最初の事実。それを、違う痛みに涙を流すことで洗い流そうとしている。

　だから今日、彼女は泣かなかったのか。

　そしていま、私の前で泣こうとしているのか。

　急速に、からだが冷えた。視界がいびつに歪曲した。気づいてしまったことを後悔したかった。

　彼女を肯定するためではなく、傷つけるために、いま私は選ばれ、それを強いられようとしていたのだ。

　わたしは、そんなのじゃない。

　もしも彼女がそれをやさしさと呼ぶのだとしたら、たとえ酷薄となじられても、わたしはそんなのじゃない。

　ひきちぎるように甘い呪縛を逃れ、私はベッドを転げ落ちた。なおももつれる女体を転がし、強引に引っぱり出した布団でくるむ。

　背を向けて、勉強机に座ると、ぼろっと悔しさがこぼれた。ノートの数式が次々視界に溶ける。

　こめかみが殴られたように熱く、けれど身体が凍えて、カーディガンの肘をおさえてもふるえが止まらなかった。

　ひっそりと眠るまことに背を向けたまま、誰にも理解されない想いを抱える彼女の孤独が、初めてわかると思った。